中心に「BAU」と書いた一枚の紙
1922年の夏、ヴァイマール。20.2×29.3センチのリトグラフが一枚刷り上がった。「Satzungen Staatliches Bauhaus in Weimar」――州立バウハウスの新しい学則の冊子に挟み込むためのものである。
そこには三重の同心円が描かれていた。外側の輪、中間の輪、内側の輪。そして円の中央には、たった三文字。
BAU。建築。

教科目は線でも矢印でも箇条書きでもなく、輪の幅と位置で示されていた。グロピウスはバウハウスの三年間の教育内容を、一枚の幾何学に縮約してしまった。現代のオリエンテーション資料やシラバスを見慣れた目には、当たり前の表現に映るかもしれない。けれどもこの図は、教育の構造をまるごと一枚の図形で示そうとした、初期の試みのひとつだった。
一九二二年、ヴァイマールで何が起きていたか
この図が必要になったのは、学校が静かに引き裂かれかけていたからだ。
設立は1919年4月。ヴァイマル共和国成立直後の混乱期、ヴァイマールの旧美術学校と工芸学校が合併してバウハウスは生まれた。グロピウスは創立マニフェストで「すべての視覚芸術の究極の目標は建築である」と宣言する。ライオネル・ファイニンガーが彫った木版――尖塔を持つゴシック大聖堂――を表紙に据えた、半ば宗教的な綱領だった。

1922年までに、この熱は変質していた。予備課程を仕切っていたヨハネス・イッテンは、瞑想・呼吸法・菜食主義を含む神秘思想マズダズナンを教育の中心に据えていた。学生たちは坊主頭で歩き、儀式めいた服を着る者もいた。グロピウスのほうは産業との接続――建築の標準化、量産品のデザイン――に舵を切ろうとしていた。
ふたつの方向は1923年に決定的に分かれる。イッテンは辞任し、後任としてハンガリー出身の構成主義者ラースロー・モホイ=ナジが入った。1922年7月の円形ダイアグラムは、この分裂の直前に発表されている。
「校内に何があり、誰が何を教え、その全体が建築という一点に向かう」――それを内外に示す必要があった。地元ヴァイマールの保守的な議会、納税者、入学を迷う若者、そして学内の対立する派閥のすべてに、一目で見えるかたちで。教育の絵地図が要請された瞬間だった。
円という選択
教育内容を図解する方法は他にもあった。ピラミッド型のヒエラルキー図、樹形図、組織図。1920年代のヨーロッパでも、こうした表現は知られていた。
グロピウスが選んだのは円である。しかも同心円。中心から外周まで、すべての教科がひとつの平面に並置される。
これは思想的な選択だった。「美術」と「工芸」のあいだの階級――純粋芸術が高位で応用芸術が低位、という19世紀的なヒエラルキー――をバウハウスは否定する。マニフェストで彼はこう書いている。「われわれは新しい工人組合をつくろう。芸術家と職人のあいだに階級差別の傲慢な壁を持たない組合を」(『国立バウハウス綱領』1919年)。
円の中には上下がない。木工と織物と石彫が、同じ円周上に等距離で並ぶ。中央に建築が据えられているが、それは最終的な合流地点であって、他の工房を「見下ろす」位置ではない。回転させれば各セクションは互いに入れ替わる。
研究者によってこの図は「ロタ(rota)図式」と呼ばれてきた。円環運動と要素間の均衡を象徴する古代以来の図式言語で、中世の写本に出てくる七つの自由学芸の図や、占星術の十二宮図に連なる系譜である。グロピウスはおそらく意図的にそれを引いている。一見モダンに見える図の下で、彼は中世のギルドのイメージを呼び戻していた。
三重の輪の内訳
外側の輪――Vorlehre、予備課程。全学生は入学後の最初の半年、ここから始まる。色彩論、形態論、構成原理、素材と道具の研究。生命線描、視覚分析。アカデミーで身についた習慣を一度ほどき、感覚を初期化するための課程である。最初に率いたのはイッテン、続いてモホイ=ナジとヨーゼフ・アルバースの共同運営、最後はアルバース単独へと受け継がれた。

中間の輪――形態と色彩、材料と道具、空間と構成、観察と表現。ここでは予備課程をさらに専門的に掘り下げる。パウル・クレーとヴァシリー・カンディンスキーが受け持ったのが、この層の理論部分だった。クレーは『教育的スケッチブック』(バウハウス叢書第2巻、1925年)に集約される「点・線・面」の理論を展開し、3000ページを超える講義ノートを残している。カンディンスキーは形と色の対応――三角形は黄色、四角は赤、丸は青――を学生に問うアンケート紙を配り、視覚の文法を実証的に探った。
中間の輪のもう半分はワークショップに割り当てられていた。石(彫刻)、木(家具)、金属(食器・照明)、粘土(陶器)、ガラス、色彩(壁画)、テキスタイル。学生は予備課程の修了後、いずれかひとつの工房に配属され、三年間「形と素材」の応用を学ぶ。
各工房には、伝統的なアカデミーには存在しなかった奇妙な二人体制があった。「形態のマイスター(Formmeister)」と「工房のマイスター(Werkmeister)」――芸術家と職人の二人が同じ工房を共同で指導する。クレーは織物工房と製本、カンディンスキーは壁画工房と並行して理論を担当した。芸術家と職人をそれぞれ雇わざるをえないところに、「芸術と工芸の融合」という理想と当時の現実とのギャップが透けて見える。
そして円の中心、すなわち最深部に――BAU。
ただしこの中心は、設立当初は実在しなかった。バウハウスが正式な建築学科を開設するのは1927年。それまで建築を学びたい学生は、グロピウスとアドルフ・マイヤーの私的事務所で見習いをするしかなかった。中心は「目指すべき空虚」だったのである。「建築は最終目標である」という宣言は、未来形の宣言だった。
測ろうとした人たち
円の中で起きていたことを覗いてみる。
イッテンの予備課程は「七種類の色彩対比」の体系で知られる。色相、明度、彩度、補色、寒暖、面積、同時対比――それぞれの対比がどう知覚を揺らすかを実験で確かめる。ロマン派の画家フィリップ・オットー・ルンゲの色球(Farbenkugel)を、イッテンは平面に展開し直し、明暗の極を一枚の図で見渡せるようにした。教室では呼吸法や集中の練習から授業が始まり、それから素材のテクスチャ研究、剥製や枯れ枝のスケッチへと進む。「興味と才能のある学生は、黒と白のあいだに最大44段階の階調を見分けることができた」とイッテンは回想している(『私のバウハウス予備課程』1963年)。

クレーの理論はもっと静かな性格だ。点を「強烈な内向きの静止」と定義し、それに圧をかける動的な要素として線を導入する。線の方向、太さ、運動の質。彼の図解は、線が点をある方向へ押す力学を、矢印と弧の組み合わせで描き出す。クレーは教師になって初めて、自分が無意識にやっていたことを言葉にせざるをえなくなった。「教師になった時、これまで無意識にしていたことすべてを、明示的に説明しなければならなかった」(『教育的スケッチブック』)。
カンディンスキーは1922年の夏にバウハウスに合流する。円形ダイアグラムが発表された同じ夏だった。ロシア革命後の祖国を離れた亡命組として彼が持ち込んだのは、形と色の「客観的な対応」を探る分析的方法だった。学生たちに「三角形を埋めるなら赤・黄・青のどれか」と問い、その理由を書かせる。多数派は黄色を選んだ。カンディンスキーが想定した答えと一致した。後年の研究でこの実験の妥当性は疑問視されているが、それでも「色と形の文法を測ろう」という意思自体が、当時の美術学校としては前例がなかった。
色と形を、感情を、空間を、測れるものとして扱う。円のすべてのセクションに、その態度が貫かれていた。
賛美と嘲笑
円形ダイアグラムは1923年8月から9月にかけて開催されたバウハウス展(1923 Bauhaus-Ausstellung)に合わせて広く頒布された。反応はふたつに割れる。
賛美の側にいたのは、ロシア構成主義者、デ・ステイル(テオ・ファン・ドゥースブルフは1921年冬にヴァイマールで非公式の講義を始め、バウハウスの方向性に強い影響を与えた)、後年シカゴでニュー・バウハウスを率いるモホイ=ナジら、機能主義・抽象芸術陣営の人々。建築を頂点に据え、すべての視覚芸術を統合するという思想は、戦間期の前衛にとって魅力的だった。
批判は地元ヴァイマールから来た。トゥーリンゲン州の保守系新聞は学校の左翼性を繰り返し攻撃する。1924年2月、社会民主党が州議会の主導権をドイツ国家主義者に奪われると、文部省はバウハウスへの予算を半減させ、教員契約を六か月限定にした。学校は「ボルシェヴィズム」の温床として槍玉に挙げられる。1925年、バウハウスはヴァイマールを離れ、より進歩的なデッサウへ移転する。
学内の反発もあった。イッテンの追放後、神秘主義に共鳴していた学生グループは、学校から精神性が失われたと感じた。円形図が示す合理化、産業との接続、量産への志向――その方向にすべての教科を引き寄せようとする力に、最後まで違和感を持ち続けた人々がいた。
ダイアグラム自体への批判もある。1937年版(グロピウスが亡命先のアメリカで描き直したバージョン)になると円はさらに細分化され、簿記・原価計算・契約書作成といった項目まで加わる。「建築を目指す職人の輪」だった円が、「市場に出る商品を作る組織」の図解に近づいていく。批判者はそこに、初期バウハウスの理想の風化を見た。
円の系譜
円形ダイアグラム自体は、その後のデザイン教育の標準テンプレートになった。
戦後、バウハウス出身のマックス・ビルがインゲ・アイヒャー=ショル、オットル・アイヒャーとともに1953年に開校したウルム造形大学(Hochschule für Gestaltung Ulm, HfG)は、バウハウスの予備課程モデルを引き継ぎつつ、サイバネティクス、記号論、社会学を加えて再編する。グロピウス自身もHfGの開校を支援し、「ウルム・バウハウス」という名前を提案したこともある(採用されなかった)。アルバースが渡米後にウルムへ顔を出したのも、ある種の連続性の証だった。
シカゴでは1937年、ナチスから逃れたモホイ=ナジが「ニュー・バウハウス」(後のIIT Institute of Design)を設立し、より複雑化したカリキュラム円を発表する。日本でも東京造形大学、桑沢デザイン研究所、武蔵野美術大学などの「基礎デザイン」「構成」科目は、バウハウスの予備課程を直系の祖としている。
1970年代以降のグラフィックデザイン教科書では、1922年版の円形図が繰り返し再録された。フィリップ・メッグスの『グラフィックデザインの歴史』、リチャード・ホリスの著作。定本の中で円形図はバウハウスを象徴する一枚として繰り返し参照される。
教育を設計図として描くこと
円形ダイアグラムが本当に新しかったのは、「何を教えるか」ではなく「教育の構造そのものを視覚化する」という発想だった。
それまで、学校のカリキュラムは時間割表か、文章のシラバスで記述されるものだった。グロピウスはそれを一枚の図に翻訳する。各教科の関係、進行の方向、最終的な目標が、視覚的に一望できる。
この発想は、現代のインフォメーション・アーキテクチャや、UX設計におけるサイトマップ、ユーザーフロー図と機能的に同型である。要素を平面に配置し、距離と階層と関係を視覚的に示す。中心と周縁を一目で区別させる。ピーター・モービルとルイス・ローゼンフェルドが1998年にO’Reillyから刊行した『Information Architecture for the World Wide Web』(通称「ポーラーベア本」)以降に確立されたIAの方法論は、「情報の構造を一枚の図で示す」という、グロピウスと同じ問題をWeb上で扱っている。
FigmaやMiroのコミュニティで日々共有される「サービス設計ダイアグラム」「組織構造図」「カスタマージャーニーマップ」。それらすべての遠い祖先のひとつに、1922年のあの三重の円がある。
教育内容を「測れる絵」にする。その試みが20世紀のデザイン教育を作り、いまもデザイナーがクライアントに何かを説明するときに、まず一枚の図を描いてしまう習慣として残っている。
中心に「BAU」と書いた紙は、建築という具体物の図ではなかった。それは「教えることもデザインできる」という、もうひとつの建築の宣言である。
基本データ
- 作品名
- バウハウス・カリキュラム同心円ダイアグラム(Diagram of the Bauhaus curriculum)
- 作者
- ヴァルター・グロピウス(Walter Gropius, 1883-1969)
- 制作年
- 1922年7月
- 技法
- リトグラフ
- 寸法
- 20.2 × 29.3 cm
- 初出
- Satzungen Staatliches Bauhaus in Weimar(州立バウハウス・ヴァイマール学則)
- 所蔵
- J・ポール・ゲティ研究所(The Getty Research Institute, 850513)
- 構造
- 三重の同心円。外側=予備課程(Vorlehre)/中間=形態と色彩の理論+7つの工房(石・木・金属・粘土・ガラス・色彩・テキスタイル)/中心=建築(Bau)
- 主要関係者
- ヨハネス・イッテン(予備課程)、パウル・クレー(形態論)、ヴァシリー・カンディンスキー(形態論・色彩論)、ライオネル・ファイニンガー(印刷・典礼)、オスカー・シュレンマー(バウハウス印章のデザイン)
Q&A
- このダイアグラムは誰がデザインしたのか?グロピウス本人か?
- 1922年7月のリトグラフは「Walter Gropius」の名前で発表されているが、当時のバウハウスでは図のレイアウトを学生や工房のメンバーが手伝うことが多かった。研究者の間ではグロピウスの構想を、ファイニンガーやバウアー工房の協力者が版下に起こした可能性が指摘されている。著者クレジットは「グロピウス」で確定している。
- 円形ダイアグラムは1922年版だけなのか?
- いいえ。グロピウスは1922年、1923年、1937年と複数のバージョンを発表している。1937年版は亡命後のアメリカで描き直したもので、簿記や原価計算など実務系の項目が加わり、より複雑化している。最もよく引用されるのは1922年版である。
- 「BAU」を中心に置いたが、実際の建築学科は1927年まで開設されなかった。これは矛盾ではないか?
- ある意味で矛盾していた。グロピウスにとってBAUは「あるべき到達点」であり、現在の学校の姿ではなく将来像だった。マニフェストと同じく、宣言として中心に置かれた。1927年以前、建築を学びたい学生はグロピウスとアドルフ・マイヤーの私的事務所で見習いをしていた。
- なぜイッテンとグロピウスは決裂したのか?
- 教育の方向性が根本的に違っていた。イッテンは精神性と個人の創造性を重視し、産業への接続には消極的だった。グロピウスは戦後ドイツの再建に貢献する「量産可能なデザイン」を目指していた。1923年、イッテンは辞任しチューリッヒに戻り、後にベルリンで自分の学校を開く。
- 日本のデザイン教育にも影響したのか?
- 強く影響した。1932年に新建築工芸学院(日本のバウハウスを目指した私学)が設立されたが短命に終わる。戦後、桑沢デザイン研究所(1954年設立)、東京造形大学(1966年、桑沢洋子による)、武蔵野美術大学の基礎デザイン課程などが、バウハウスの予備課程モデルを直接の参照点にしている。
参考文献
- Principles and Curriculum | Bauhaus – The Getty Research Institute
- https://www.getty.edu/research/exhibitions_events/exhibitions/bauhaus/new_artist/history/principles_curriculum/
- Primary Forms | Bauhaus – The Getty Research Institute
- https://www.getty.edu/research/exhibitions_events/exhibitions/bauhaus/new_artist/form_color/form/
- Walter Gropius, Conceptual Diagram of the Bauhaus Curriculum (1923) | German History Intersections
- https://germanhistory-intersections.org/en/knowledge-and-education/ghis:document-33
- Johannes Itten’s preliminary course | Bauhaus Kooperation
- https://bauhauskooperation.com/knowledge/the-bauhaus/training/preliminary-course/johannes-ittens-preliminary-course
- Classes by Wassily Kandinsky | Bauhaus Kooperation
- https://bauhauskooperation.com/knowledge/the-bauhaus/training/curriculum/classes-by-wassily-kandinsky
- The Bauhaus, 1919–1933 | The Metropolitan Museum of Art
- https://www.metmuseum.org/essays/the-bauhaus-1919-1933
- The Bauhaus Manifesto – bauhaus imaginista
- https://www.bauhaus-imaginista.org/articles/1771/bauhaus-manifesto-re-cap
- Ulm School of Design | Wikipedia
- https://en.wikipedia.org/wiki/Ulm_School_of_Design
コメント (0)