ページは比率で決まる|マーダーシュタイクとチヒョルトの黄金カノン

ページは比率で決まる|マーダーシュタイクとチヒョルトの黄金カノン

目次

ガルダ湖を見下ろす邸宅から、ガブリエーレ・ダンヌンツィオは何度もヴェローナの印刷家を呼びつけた。詩人は刷り上がったばかりの一葉を窓辺の光にかざし、紙の縁から本文ブロックまでの余白を指でなぞる。やや満足げに頷くこともあれば、何も言わずに次のページに移ることもあった。呼ばれたのはジョヴァンニ・マーダーシュタイク。手押しの印刷機を一人で操り、ヴェローナの工房で一葉ずつ刷り上げては、四十八巻におよぶダンヌンツィオ全集を組んでいた人物だ。

1927年から1936年まで、ほぼ十年がかりの仕事だった。詩人の気まぐれと印刷家の完璧主義が、ヴェローナの工房を舞台に擦り合わさっていく。マーダーシュタイクが残した一節がある。本というものは五つの要素から成る。テキスト、活字、インク、紙、製本。この五つを一つの統一体に仕立てあげ、流行に流される一過性のものではなく、永続する価値を備えたものにすること。彼が一生をかけて追ったのは、ここに書いた通りの目標だった。

五つの要素から本をつくる

マーダーシュタイクは1892年、ワイマールで生まれた。父は法律家で、家にはいつも美術品があり、息子は法学を学ぶ。ボン、キール、イェーナ、ウィーンと大学を渡り歩き、1915年にイェーナで博士号を取得。けれど弁護士にはならない。1917年にライプツィヒのクルト・ヴォルフ書店に入り、美術書のシリーズと美術誌『ゲニウス』の編集を担当する。ここで彼は本というものに取り憑かれた。

健康を害したのを機に、1922年スイスのモンタニョーラへ移る。そこで自分の手押し印刷機を据え、私家版印刷所を開いた。名前はオフィチーナ・ボドーニ。十八世紀イタリアの偉大なタイポグラファ、ジャンバッティスタ・ボドーニにちなんでいる。同年に出したのがゲーテ『原語』、翌1923年にはポリツィアーノ『オルフェオの寓話』。続いてシェリー、シェイクスピア、ダンテ。一人で活字を組み、一葉ずつ刷り、製本も発注する。同時代の私家版運動の中でも、職人芸の徹底ぶりは群を抜いていた。

イタリア政府は彼にひとつの特権を与える。パルマに保存されている、ボドーニ本人が彫った活字母型からの鋳造を許可したのだ。十八世紀の活字が、二十世紀の手押し印刷機で再び紙にインクを残す。1927年、ダンヌンツィオ全集の印刷を勝ち取った彼は工房をヴェローナへ移し、ドイツ製のディングラー印刷機を据え直した。手漉き紙、犢皮紙、四分の一犢皮装。本という工芸の伝統を、彼は一度も手放さなかった。

ページに隠れた中世の幾何学

「比率で本を決める」とはどういうことか。本を開いて気持ちよく感じる時、私たちは無意識に紙の縦横比と、本文ブロックの位置を測っている。中世の写本家たちが用いた構築法は、長らく忘れられていた。それを再発見したのがオランダの装幀家 J. A. ファン・デ・グラーフで、戦後すぐの1946年に小著『装幀のための新しい計算法』を出している。

ファン・デ・グラーフが提示したのはこんな方法だった。見開きの対角線を引き、それぞれの単ページに対角線を一本加える。三本の対角線が交わる点を起点に長方形を描けば、本文の位置が自動的に決まる。ページが2:3の比率なら、内側余白、上、外側、下の比は1:1:2:3になる。本文ブロックの大きさと形は、ページの形と相似形。さらに本文の高さがページの幅に等しい。

同じ頃、アルゼンチンの活字研究者ラウル・ロサリーボが、グーテンベルク聖書の構造を分度器とコンパスで測り直していた。彼の結論は1947年に『印刷術の神聖な比率』として出版される。ロサリーボはページを縦横とも9分割し、本文ブロックを横6マス、縦6マスに置く方式を提案した。後年ヤン・チヒョルトは指摘する。2:3のページにおいて、この方法はファン・デ・グラーフのそれと幾何学的に等価だ、と。

二人の発見は遡る。グーテンベルクの半折判ページ(30.7×44.5cm)は黄金比に近い5:8の長方形で、その中に同じ比率の本文ブロックを抱いている。フィボナッチ数列の連続項——2:3、3:5、5:8、8:13、13:21、21:34——は黄金比(およそ1.618)に収束していく。中世末期から十六世紀にかけての写本と初期印刷本が、この収束列のどこかで本のかたちを決めていた。秘密のカノンとも呼ばれる。秘密ではなく、ただ忘れられていただけかもしれない。

同じ頃、ベルリンで起きていたこと

マーダーシュタイクがヴェローナで活版印刷の伝統を磨いていた1928年、ベルリンでは正反対のことが起きていた。ライプツィヒ生まれの若き書家、ヤン・チヒョルト。当時26歳の彼が刊行した薄い本のタイトルは『新しいタイポグラフィ』。サブタイトルは「同時代を生きる者のための手引書」とある。

マリネッティが「過去の獣めいた本」を罵り、シュヴィッタースが「野蛮な広告物」をこき下ろしていた時代の話だ。マニフェストが氾濫していた。チヒョルトの本が際立っていたのは、その実用性だった。レイアウト、紙のサイズ、書体の選び方、写真と活字の統合。バウハウスとロシア構成主義の発想を、現場の印刷工が使える指針に翻訳していく。中央揃え、装飾、セリフ書体、対称性。すべて捨てる。残されたのはサンセリフ書体、非対称、機能性、構造的に配置された空白。

マーダーシュタイクの仕事と並べてみると、両者は同じ「本」という器のなかで真逆の方向を向いている。一方は中世の幾何学を頼りに本文ブロックを置き、ボドーニの古い母型から活字を鋳る。もう一方はバウハウスの精神を頼りに、対称性を破壊し、無装飾の機能性を称揚する。1928年は、ブックデザインがふたつの極をはっきり持った年として記憶される。

1932年、ある書体が指す方向

ところがその四年後、奇妙なことが起こる。チヒョルトは1932年、サスキアという書体を発表した。古典的なローマン体の系譜に連なるセリフ書体だ。サンセリフを唯一の正解と説いた当人が、伝統的な文字に手を伸ばし始めた。同じ年、彼は本文用書体としての古典ローマン体の利用を公に認める発言もしている。後年の自伝的回想によれば、これが彼のクラシック回帰の出発点だった。

1933年、ナチスが政権を掌握すると、チヒョルトはすぐに「文化的ボリシェヴィキ」として逮捕される。妻と六週間拘留された。釈放後、家族とともにスイスへ脱出。亡命先のバーゼルで、彼は徐々に自分の過去のマニフェストを冷たい目で見直していく。後年、彼は『新しいタイポグラフィ』を「過剰だった」と切り捨て、モダニズムの厳格さを「権威主義的、本質的にファシスト的」とまで呼んでみせる。

本人の言葉を引いておく。「私の誤りは、私が想像していた以上に豊かだった」。サンセリフを最も同時代的な書体と考えたのは、若い者の意見だった、と彼は書く。マニフェストを書いた青年の確信を、亡命者となった中年が静かに撤回していく。撤回はあったが、規律は捨てなかった。古典に戻りつつ、彼はそこに新しいタイポグラフィで身につけた厳密さを持ち込んだ。

ペンギンを変えた四ページの規則

1947年3月、チヒョルトはアレン・レーンに呼ばれてイギリスに渡った。ペンギンブックスの組版・制作責任者になるためだ。当時のペンギンには統一された組版規則がなく、各印刷所がてんでに自社の流儀で本を組んでいた。書体はほぼタイムズ・ニューローマン一種類。チヒョルトに与えられた仕事は、世界最大のペーパーバック出版社の本のかたちを一つに揃えること。

二年半の滞在で、彼は五百冊以上のペンギン本を再デザインした。そして書いたのが「ペンギン組版規則」という四ページのリーフレット。本文の組み方、段落のインデント、句読点と綴り、大文字とイタリック、註と脚注、ノンブル、戯曲の組み方、詩の組み方。地味な題目が並ぶ。中身はもっと地味で、ピリオドのあとに入れるスペースの幅から、ノンブルを下にどれだけ離すかまでが規定されている。

規則を浸透させるのは骨が折れた。チヒョルトは自伝の中でこぼしている。「毎日、十冊もの校正を相手に何マイルも歩くような気分だった。私は『字間は視覚的価値に応じて等しく取れ』と書いたゴム印を作らせた。職人たちはまるで無視した。タイトルページの大文字の字間を、視覚ではなく機械的に等幅で空け続けた」。職人の手と頭を一冊一冊作り変える、地道な作業がそこにあった。

けれど成果は残った。1949年に彼がスイスへ戻った後も、ペンギンの本は彼の規則で組まれ続ける。サボン書体を彼が設計するのは1967年。ハンドコンポジション、ライノタイプ、モノタイプの三つの異なる組版機械で、同じ字面を得られるよう設計された書体だ。技術が複数あっても、本のかたちは揺らがない——それが彼の晩年の主題だった。

建築家がつくった本という宇宙

1932年生まれの日本人グラフィックデザイナーがいる。チヒョルトがクラシック回帰へ踏み出した年に生まれた杉浦康平。彼は1955年に東京藝術大学の建築科を卒業した。マーダーシュタイクやチヒョルトと違って、彼の入り口は紙ではなく空間だった。けれど建築から本へ移ったあと、彼が持ち込んだのは設計図の発想だった。

1964年と66年の二度、西ドイツのウルム造形大学に客員教授として招かれた経験が、皮肉にも彼を東洋的な美意識へと押し戻す。後年、杉浦は語っている。「日本のデザインを支える基軸は、なんといってもヨーロッパ志向なんですね。両足をどっぷりヨーロッパに立脚しているデザイナーが90%ぐらいいるのではないか」。ウルムで欧米デザインの中心に身を置いた彼は、そこから日本人として何を立脚点にすべきかを逆照射された。

帰国後の彼は「表紙は顔である」というコンセプトを携えて、『SD』『都市住宅』『季刊銀花』といった雑誌の装幀を手掛けていく。1970年代に入ると、縦組の明朝体活字の美しさを引き出すブックデザインへ進む。外側の意匠から本を組み立てるのではなく、本文組から起点を置く設計。本という三次元の容器を、内部の組版から逆算して作る方法だ。

杉浦自身の言葉。「建築家は依頼された建物を作るために、空間の制約を考えながら必ず設計図を作ります。デザインは、まず器を創りだす行為である。私の場合、設計図を必要とする建築という行為が、たまたま本という容器へと移っていった」。設計図を引いて本を作る。マーダーシュタイクが手押し印刷機の前でしていたことと、形は違うが思想は近い。

1979年、松岡正剛が編集し、杉浦がアートディレクションを担った『全宇宙誌』が工作舎から出る。準備に七年。三百八十四ページが全ページ黒地に白抜き。ページ上に図版が浮遊しているように見えるが、本全体を透視すると小カット図版はマトリックス状に整列するよう、緻密なグリッドで配置されている。閉じた本の小口を表紙側に倒すとアンドロメダ星雲、裏表紙側に倒すと星座図が浮かび上がる小口絵の仕掛けもある。器として本そのものを宇宙にしてしまった一冊だ。

ブラウザに移植されたカノン

活版印刷の時代に練り上げられたページ設計の作法は、デジタルへ移っても捨てられなかった。Bootstrap の十二カラムグリッド、Tailwind や CSS Grid のスペーシング設計、960グリッドシステムの遺産。フレームワークの数字は一見任意に見える。けれど、なぜ十二で割るのか、なぜカラム幅を黄金比に近い数列で刻むのか、と問い直すと、答えはファン・デ・グラーフやロサリーボの作図にたどり着く。

ウェブデザイナーの中には、本文と補助コンテンツの幅の比をフィボナッチ数列の項で決める者がいる。1956年にチェコ生まれのデザイナー、ヴォルフガング・フォン・ヴェルジンが『正方形と長方形の本』で十二の動的長方形を提示した。これらを参照しながら、画面サイズに合わせて本文と補助コンテンツの比を選ぶ実践は、現代のレイアウト指南書にも残っている。

Kindle の画面上で本文ブロックが置かれる位置を観察すると、紙の本の余白比率に近い設計が残っているのに気づく。EPUB のスタイル指定では、行間と字面の比率、字面と段落の比率がモジュラースケールで設計される。タイポグラフィ用語で「ヴァーティカル・リズム」と呼ばれるこの設計法は、活版印刷の時代から続く本文組の作法を、別の素材に移し替えたものだ。

比率は規則ではなく、道具である

マーダーシュタイクは1977年12月、ヴェローナで没した。八十五歳。手押し印刷機による本作りを、生涯やめなかった。チヒョルトはその三年前、ロカルノの病院で世を去る。サボン書体を残し、ペンギンの組版規則を残し、『書物と活字』(原題 The Form of the Book)というブックデザイン論を残した。杉浦康平は2026年現在、九十四歳。武蔵野美術大学の杉浦アーカイブには、彼が手掛けた約五千点のブックデザインが収蔵されている。

三人が共有していたのは、本のかたちを偶然に任せないという姿勢だった。だからといって、彼らが比率を「絶対的な美の規則」と見ていたかというと、そうでもない。チヒョルトは晩年、黄金比を「有用な比率のひとつ」として相対化している。マーダーシュタイクは古い母型に固執しつつも、ダンテ書体のように自分でデザインした書体も残した。杉浦は緻密な設計図を引いたが、そこには中心が複数あるマンダラ的な発想を持ち込んでいる。比率は道具だ。何かを決めなければならないとき、闇雲に決めずに済むための補助線。

本のページを開いた時に感じる気持ちよさ、ウェブサイトのスクロールで指先が止まる場所、雑誌の見開きで写真の左端が決まる位置。理屈で説明できそうで、しきれない。中世の写本家がコンパスと定規で割り出し、ヴェローナの手押し印刷機が紙にインクで刻み、ペンギンの校正室でゴム印が押され、東京の事務所で方眼紙の上に下書きされ、ブラウザの CSS で記述される。素材は変わる。比率は残る。

Q&A

ファン・デ・グラーフのカノンは本当に中世写本で使われていたのですか
確実な証拠はありません。ファン・デ・グラーフ自身も、また後に彼の方法を広めたチヒョルトも、中世の写本家がこの作図法を実際に用いた可能性を「示唆」するにとどまっています。複数の中世写本を計測してみると、結果として2:3比率や1:1:2:3の余白比に近い構成が頻繁に見つかる、というのが根拠です。中世の写本家が幾何学的作図を用いていたか、それとも経験的に同じ比率に行き着いていたかは、写本研究者のあいだでも議論があります。
マーダーシュタイクとチヒョルトは交流があったのですか
同時代人として互いの仕事を認識していたことは確かですが、緊密な交流があったという記録は乏しいです。マーダーシュタイクが伝統的な活版印刷の世界で活動していたのに対し、チヒョルトは前半生はモダニズム運動、後半生はイギリスのペンギンと、別の文化圏で動いていました。両者を結ぶ人物として、ペンギン出身でオフィチーナ・ボドーニのコレクターでもあったハンス・シュモラーがいます。シュモラーはマーダーシュタイクが書きかけだったオフィチーナ・ボドーニの書誌を完成させ、1980年に出版しました。
「ペンギン組版規則」は今も使われているのですか
ペンギンは現在も独自のスタイルガイドを持っていますが、1949年版の「ペンギン組版規則」そのものは内部資料として保管されています。ペンギンの著作権下にあり、複製配布は許可されていません。ただし、書籍組版や Web タイポグラフィの世界で間接的に参照され続けており、文芸書の組版基準の原型として、今も世界中の編集現場に影響を残しています。
杉浦康平は西洋のブックデザインの伝統をどう受け止めていたのですか
杉浦は東京藝大の建築科出身で、初期はモダニズムの影響を強く受けていました。1960年代のウルム造形大学での教師経験を経て、東洋的な視点を意識的に取り入れるようになります。彼のグリッドは西洋的な等分割の発想を踏まえつつ、マンダラ的な多中心性や、日本の縦組明朝体の生理を組み込んだ独自のものです。西洋の伝統を否定したわけではなく、それを材料の一つとして使い切った、という方が実態に近いでしょう。
黄金比を使えば本は必ず美しくなるのですか
そうとは限りません。チヒョルト自身、晩年には黄金比を「数ある有用な比率の一つ」と位置づけ、絶対視を避けています。2:3、3:5、5:8、1:√2(ISO の紙サイズの根拠)、1:√3 など、本に適する比率は複数あります。ページ・本文ブロック・余白・行間・字面・段落間のあいだに整合した数的関係があるかどうか、そこが見るべきところで、比率はその関係を作るための道具として、目的に応じて選び取られるものです。

参考文献

Giovanni Mardersteig – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Giovanni_Mardersteig
Officina Bodoni – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Officina_Bodoni
Giovanni Mardersteig | Biography & Facts | Britannica
https://www.britannica.com/biography/Giovanni-Mardersteig
L’Officina Bodoni – Tipoteca
http://www.tipoteca.it/en/evento/officina-bodoni/
Jan Tschichold – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Jan_Tschichold
Canons of page construction – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Canons_of_page_construction
Penguin Composition Rules – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Penguin_Composition_Rules
杉浦康平デザインアーカイブ「デザイン・コスモス」
https://sugiurakohei.musabi.ac.jp/
杉浦康平 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/杉浦康平
杉浦康平のアジアンデザイン – 港の人
https://www.minatonohito.jp/book/419/

基本データ

ジョヴァンニ・マーダーシュタイク
1892年ワイマール生まれ、1977年ヴェローナ没。ドイツ生まれのイタリアの印刷家・タイポグラファ。1922年に私家版印刷所オフィチーナ・ボドーニを創設。イタリア政府より特別許可を得て、ジャンバッティスタ・ボドーニの原型から活字を鋳造して使用。代表書体 Dante (1958)、Griffo、Zeno。
オフィチーナ・ボドーニ
1922年モンタニョーラ(スイス)創設、1927年ヴェローナへ移転。手押し印刷機による私家版印刷所。約二百冊の精緻な書籍を制作。ガブリエーレ・ダンヌンツィオ全集(1927–1936、48巻+索引)が代表的大事業。
ヤン・チヒョルト
1902年ライプツィヒ生まれ、1974年ロカルノ没。ドイツ生まれのスイスのタイポグラファ・ブックデザイナー。『新しいタイポグラフィ』(1928)でモダニズムを定義したのち1932年頃からクラシックへ回帰。ペンギンブックスの組版規則を制定(1947–1949)。代表書体 Sabon (1967)。
ファン・デ・グラーフのカノン
オランダの装幀家 J. A. Van de Graaf が1946年に『装幀のための新しい計算法』で提示。見開きと単ページの対角線の交点から本文ブロックの位置を決める作図法。中世写本に類似の構造が見られるため「秘密のカノン」とも呼ばれる。
杉浦康平
1932年東京生まれ。グラフィックデザイナー、アジア図像研究者。東京藝術大学建築科卒(1955)。西ドイツ・ウルム造形大学客員教授(1964–65、1966–67)。神戸芸術工科大学名誉教授。雑誌『SD』『都市住宅』『季刊銀花』、ブックデザイン『全宇宙誌』(1979、松岡正剛と共同)、『伝真言院両界曼荼羅』など。1997年紫綬褒章、2019年旭日小綬章。武蔵野美術大学に約5,000点のブックデザインを含む杉浦康平デザインアーカイブを所蔵。
本のページ比率の主な選択肢
2:3(古代から続く伝統的比率)、3:5・5:8・8:13・13:21・21:34(フィボナッチ数列、黄金比の収束項)、1:√2(ISO A判・B判の根拠)、1:√3(細長比率)。チヒョルトが歴史的に最頻と認めたのは2:3。

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