メホラダ・デル・カンポは、マドリードの東20キロほどにある、人口2万人あまりの平凡な町です。低層住宅と小さな商店が続く通りを歩いていくと、ある一角で視界が突然ふさがれます。住宅の屋根を越えて、レンガ色のドームがそびえている。高さおよそ40メートル、塔は12本。まだ屋根の架かっていない部分から、空が透けて見えます。
通りの名は、アントニ・ガウディ。バルセロナで140年以上も完成しないサグラダ・ファミリアを設計した、あの建築家にちなんでいます。皮肉のようでいて、町はこの名前を本気で選びました。ここにも、ひとりの男が生涯をかけて建て続けた、未完の聖堂があるからです。
建てたのは、フスト・ガジェゴ。建築を学んだことは、一度もありませんでした。
ドラム缶を型枠にした聖堂
ガジェゴは1925年、この町の農家に生まれました。信心深い母のもとで育ち、青年期にトラピスト会の修道院へ入ります。8年を過ごし、修道誓願を立てる直前に結核を患って、修道院を去ることになりました。
病の床で、彼は聖母に誓います。治ったなら、聖堂を建てる、と。回復したガジェゴは、両親から受け継いだ農地に立ちました。1961年10月12日。ピラールの聖母の祝日でした。
最初に思い描いたのは、小さな礼拝堂だったといいます。それが、サン・ピエトロ大聖堂を手本にしたドームを戴く巨大な建造物へと膨れ上がっていきました。設計図はありません。建築許可も、教会の承認も、公的な資金もないままです。
材料は、ほとんどが廃材でした。近所のレンガ工場が捨てる規格外品。建設会社が余らせた資材の寄付。柱は、石油用のドラム缶を型枠にしてコンクリートを流し込んで作りました。ステンドグラスは、砕いたガラスを接着剤で貼り合わせたもの。階段の段差には雨樋を転用し、レアル・マドリードの本拠地ベルナベウの広告看板まで土台に使ったと伝わります。
朝6時から夕方6時まで、日曜をのぞいて毎日。最初の20年ほどは、たったひとりで。基礎を掘り、資材を運び、壁を積む。クレーンは一台も使っていません。やがて隣人のアンヘル・ロペス・サンチェスが助手として加わり、甥たちがドームの梁を据えるのを手伝いました。それでも建物の大半は、ガジェゴひとりの手から生まれています。
転機は2005年でした。清涼飲料アクエリアスのテレビCMに、聖堂で働く彼の姿が映ります。スペイン広告史に残るほど評判を呼んだ一本で、無名の元修道士と彼の聖堂は、一夜にして国民的な存在になりました。出演を承諾した理由は、ただひとつ。建設資金が欲しかったからです。のちにコカ・コーラ社が工事費の一部を負担し、身廊の壁には、瓶のキャップで作られた彼の肖像が掲げられました。
2021年11月、ガジェゴは96歳で世を去りました。聖堂は、アンヘル神父が率いるNGO「メンサヘロス・デ・ラ・パス(平和の使者)」へ託され、いまも未完のまま工事が続いています。

石につまずいた配達夫
時計を、80年あまり巻き戻します。
1879年4月、フランス南東部ドローム県。43歳の田舎の郵便配達夫フェルディナン・シュヴァルは、配達の途中で石につまずきました。拾い上げると、水と風に削られた奇妙な形をしている。彼はそれをポケットに入れ、翌日、同じ場所へ戻ってさらに美しい石を探しました。
「自然が彫刻をつくるのなら、私は石工と建築をやろう」。のちに彼はそう書き残しています。
シュヴァルは、毎日30キロを超える配達路を抱えていました。道すがら拾った石を路肩に積んでおき、夕方、手押し車で回収する。それを家の菜園へ運び、石灰モルタルで固めていく。配達かばんに入っていたのは、当時の農村に出回りはじめた絵葉書や挿絵入りの雑誌でした。エジプトの神殿、ヒンドゥーの寺院、スイスの山小屋、中世の城。見たこともない世界の建築が、彼の頭のなかで一つの宮殿に溶け合っていきます。
33年。1912年に完成したその建物を、彼は「理想宮(パレ・イデアル)」と名づけました。高さ12メートル、長さ26メートル。壁面には、自ら彫った詩と動物たちが連なります。一隅には、こう刻まれていました。「ある一人の男の仕事」。
村人たちは、彼を変人、あるいは狂人と見ていました。評価が反転するのは、シュヴァルの死後です。シュルレアリストたちが理想宮を見いだしました。アンドレ・ブルトンが讃え、ピカソやマックス・エルンストが足を運ぶ。1969年、文化大臣アンドレ・マルローは、これを素朴派芸術の歴史的記念物に指定します。役人の建築基準からも、美術のどんな流派からも外れていた建物が、国家の遺産になった瞬間でした。
いまも理想宮には、年間12万人が訪れます。

クレーンが先に音を上げた
三人目は、海を渡ったところにいます。
サバト・ロディア。1879年、南イタリアの小さな村に生まれ、15歳のころにアメリカへ渡りました。炭鉱、採石場、製材所、鉄道。職を転々と変えながら西へ向かい、1921年、42歳でロサンゼルスのワッツ地区に三角形の土地を買います。本業はタイル職人で、電話線の架線工も務めました。芸術や建築の訓練は受けていません。
彼はその裏庭で、「何か大きなものを建てる」と宣言しました。ヌエストロ・プエブロ――スペイン語で「私たちの町」。鉄筋を線路の上で素手で曲げ、金網を巻き、ポルトランドセメントで覆う。まだ濡れているうちに、貝殻、割れた瓶、タイルの破片、鏡、陶器のかけらを埋め込んでいきます。
足場は組みませんでした。窓拭き職人の使うベルトで体を支え、片手にセメントのバケツ、もう片手に貝殻のバケツを提げて、塔をよじ登る。溶接もボルトも使わない。もっとも高い塔は99.5フィート、約30メートルに届きます。100フィートを超えなかったのには理由がありました。それを超える構造物には特別な規制がかかるため、あえて手前で止めたのです。
33年。1954年、脳卒中と塔からの転落をへて、75歳のロディアは仕事を終えました。土地を隣人に譲り、北部マルティネスの妹のもとへ移って、二度と戻りませんでした。
物語には、まだ続きがあります。許可なく建てられたこの塔を、ロサンゼルス市は「構造的に危険」と判断し、解体に動きました。これに待ったをかけたのが、塔に惚れ込んだ俳優ニコラス・キングと、映画編集者ウィリアム・カートライトです。二人は1959年に土地を3,000ドルで買い取り、市と交渉して、強度試験にこぎつけました。
試験の日――1959年10月10日。元航空エンジニアのノーマン・ゴールドストンが考案した方法で、塔にワイヤーをかけ、クレーンで横向きに引っ張ります。かけた力は1万ポンド。時速70マイルの暴風に相当します。塔はびくともしませんでした。たわみは3センチほど。先に音を上げたのはクレーンの側で、ワイヤーが切れた瞬間、見守っていた群衆は歓声を上げます。
解体命令は撤回されました。17基の塔は、いまもそこに立っています。

設計図を持たない者たちの建築
三人を並べると、奇妙な符合が浮かび上がります。
修道士、郵便配達夫、タイル職人。誰も建築の専門教育を受けていません。誰も完成までの図面を引かなかった。三人とも、廃材や拾い物を組み合わせ、30年から60年という人生の大半を、一つの建物に注ぎました。そして三人とも、当初は周囲から「狂人」と呼ばれています。
こうした作り手を、美術の世界では「アウトサイダー・アート」と呼びます。フランスの画家ジャン・デュビュッフェが名づけた「アール・ブリュット(生の芸術)」――競争や名声、社会的な成功とは無縁の孤独から生まれた創造――が、その出発点にあります。専門教育の外側で独力で築かれたこうした建造物は、「素朴派(ナイーヴ)建築」と呼ばれ、作り手の内面がそのまま屋外に立ち上がった環境として扱われます。
ここで一つ、問いが立ちます。彼らにとって、建物は完成すべきゴールだったのでしょうか。
シュヴァルの理想宮は、彼の生前に完成しました。けれどロディアは塔を「終えた」とは言わず、ただ去った。ガジェゴの聖堂にいたっては、本人が一度も完成を見ていません。三人に共通していたのは、出来上がった建物そのものより、毎日それを建てるという行為だったように見えます。手を動かし、石を積み、また明日も積む。その反復のなかにこそ、彼らの人生がありました。
ガジェゴの聖堂が建つ通りにガウディの名が冠されたのは、だから偶然ではないのかもしれません。サグラダ・ファミリアもまた、着工から140年以上を経て、なお建ち続けている未完の聖堂です。完成しないことを前提に始まった建築という一点で、この二つは遠い親戚にあたります。
誰が建ててよいのか
建築は、ふつう資格と許可の世界です。図面があり、構造計算があり、検査がある。その手続きを一切持たない人間が、それでも巨大な建物を建ててしまえる――その事実が、見る者をどこか落ち着かなくさせます。
三つの建造物は、いずれも国家や自治体の「遺産」になりました。ワッツタワーはアメリカの国定歴史建造物に、理想宮はフランスの歴史的記念物に。一度は解体されかけ、行政から無視され、嘲笑された建物が、です。価値を決めるのは資格ではなく、注ぎ込まれた時間の総量なのだと、三人は身をもって示しました。
メホラダ・デル・カンポの聖堂では、今日も工事の音が響いています。ガジェゴはもういません。彼が砕いたガラスと積んだレンガの続きを、いまは別の手が引き継いでいます。ひとりで始まった建築が、複数の手の仕事に変わっていく。
大聖堂は、もともと一生では建て終わらない建物です。中世の聖堂が何世代もかけて完成したように。足りないと知っていたからこそ、彼らは始められたのかもしれません。
Q&A
- なぜフスト・ガジェゴは建築の許可を取らなかったのですか?
- 建築許可も、カトリック教会の正式な承認もないまま着工しました。土地は自分が相続した農地で、資金も農地の売却益と寄付でまかなったため、誰の許可も必要としなかった、という事情があります。地元自治体も教会も長らくこの建物を黙認しており、現在も礼拝施設としては公認されていません。
- 「アウトサイダー・アート」とは何ですか?
- 美術の専門教育を受けていない作り手が、既存の流派や市場と無関係に生み出す作品を指します。フランスの画家ジャン・デュビュッフェが提唱した「アール・ブリュット(生の芸術)」が語源にあたり、孤独と純粋な衝動から生まれる創造を意味します。建築の分野では「素朴派建築」とも呼ばれます。
- ワッツタワーはなぜ解体されずに済んだのですか?
- 1959年にロサンゼルス市が「構造的に危険」として解体命令を出しましたが、保存を望む人々の働きかけで強度試験が行われました。クレーンで1万ポンド(時速70マイルの暴風に相当する力)をかけても塔は倒れず、先にワイヤーの側が切れたため、安全と認められて命令は撤回されました。
- 日本からこれらの建築を見学できますか?
- 三つとも現地に現存します。フランス・オートリーヴの理想宮と、米ロサンゼルスのワッツタワーはいずれも一般公開され、内部やその周辺を見学できます。ガジェゴの聖堂もメホラダ・デル・カンポで見学可能ですが、未完で工事が続くため、立ち入りが制限される区画があります。
基本データ
- フスト・ガジェゴの大聖堂(スペイン)
- 建設者:フスト・ガジェゴ・マルティネス(1925–2021/元トラピスト会修道士)。所在地:メホラダ・デル・カンポ。1961年着工、未完で工事継続中。ドラム缶や廃レンガ、砕いたガラスなどの廃材で建造。延床面積約4,700㎡、ドームはサン・ピエトロ大聖堂を範に高さ約40メートル。
- 理想宮/パレ・イデアル(フランス)
- 建設者:フェルディナン・シュヴァル(1836–1924/郵便配達夫)。所在地:オートリーヴ。1879年〜1912年(約33年)。高さ約12メートル、長さ約26メートル。1969年、フランスの歴史的記念物に指定。
- ワッツタワー/ヌエストロ・プエブロ(アメリカ)
- 建設者:サバト(サイモン)・ロディア(1879–1965/タイル職人)。所在地:ロサンゼルス・ワッツ地区。1921年〜1954年(約33年)。塔17基、最高塔は約30メートル(99.5フィート)。1990年、アメリカの国定歴史建造物に指定。
- 共通する分類
- アウトサイダー・アート/アール・ブリュット/素朴派(ナイーヴ)建築。
参考文献
- Justo Gallego Martínez – Wikipedia
- https://en.wikipedia.org/wiki/Justo_Gallego_Mart%C3%ADnez
- Cathedral of Justo – Wikipedia
- https://en.wikipedia.org/wiki/Cathedral_of_Justo
- Madrid monk’s 60-year ‘scrap cathedral’ project lives on after his death – Euronews
- https://www.euronews.com/culture/2021/11/30/madrid-monk-s-60-year-scrap-cathedral-project-lives-on-after-his-death
- The man behind Madrid’s most unusual cathedral – Lonely Planet
- https://www.lonelyplanet.com/articles/cathedral-of-justo-gallego-spain
- Ferdinand Cheval – Wikipedia
- https://en.wikipedia.org/wiki/Ferdinand_Cheval
- The story – Le Palais Idéal du Facteur Cheval(公式)
- https://www.facteurcheval.com/en/history/
- Watts Towers – Wikipedia
- https://en.wikipedia.org/wiki/Watts_Towers
- Watts Towers: The Story of an LA Icon – Discover Los Angeles
- https://www.discoverlosangeles.com/things-to-do/watts-towers-the-story-of-an-la-icon
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