「手」は口ほどにものをいう|印相からピンチまで、ジェスチャーとデザインの二千年

「手」は口ほどにものをいう|印相からピンチまで、ジェスチャーとデザインの二千年

目次

Vision Proの中の手

Apple Vision Proを装着した人を、街なかで見かけるようになった。レストランの席で、新幹線の中で、家のリビングで、彼らは虚空に向かって指を動かす。親指と人差し指の先を、軽く合わせる。それだけで、目に見えない何かが選ばれ、開かれ、閉じられる。

その仕草を、別の場所で見たことがある。

京都の薄暗い堂内、座した阿弥陀如来。右手の親指と人差し指で輪を作り、左手は膝に置く。転法輪印(てんぽうりんいん)と呼ばれるジェスチャーだ。サンスクリット語ではdharmacakra mudra、「教えの輪を回す」印。

2024年クパチーノの製品発表と、紀元1世紀ガンダーラの石仏。指の形が、ほぼ重なる。

偶然の一致で片づけてもいい。ただ、手を追いかけていくと、この重なりは一度きりではない。仏像の印相、神とアダムのあいだに残された数ミリ、ロダンが胴体から切り離した二つの右手、iPhoneの画面をつまむ二本指——手は二千年のあいだ意味を伝える器官であり続け、20世紀の終わりに機械へ命令する器官になった。役割はまるごと入れ替わっている。それなのに、選ばれる形はほとんど増えていない。

第1の手|印相、というOS

仏像の手の形は、装飾ではない。それぞれに固有の意味を持つ「印(いん)」だ。サンスクリット語のmudraは「印章」「徴(しるし)」を意味する。

仏教図像における印相は、紀元1世紀ごろのガンダーラ美術に最初の例が確認され、3世紀までに体系化された。指のひとつひとつが、悟りに至るために必要な五つの意識段階を表すとされ、その組み合わせが教義の特定の側面を表現する装置になった。

五つの主要な印がある。掌を外に向けて肩まで上げる施無畏印(せむいいん)——文字通り、畏れるなというサイン。右手を地面に伸ばし、悟りの瞬間に大地を証人として呼ぶ触地印。両手を膝で組む禅定印、掌を下げて慈悲を授ける与願印もある。そして両手の親指と人差し指で輪を作り、輪同士を触れ合わせる転法輪印。釈迦が初めて教えを説いた、サルナートで「教えの輪」を回した瞬間を表す。

仏像を見るとき、観覧者は手の形を読む。読めば、その仏が何を伝えようとしているかが分かる。読めなくても、何かが「示されている」ことは伝わる。文字を読めない巡礼者にも、手は語った。

手は、最も初期のユーザーインタフェースだった。

第2の手|ほぼ触れる、というモチーフ

時代を16世紀初頭のローマへ。

1508年から1512年にかけて、ミケランジェロはシスティーナ礼拝堂の天井に九つの場面を描いた。創世記の物語だ。中央近くに置かれた「アダムの創造」では、雲に乗った父なる神が右腕を伸ばし、横たわるアダムが左腕を持ち上げる。神の人差し指と、アダムの人差し指。指先と指先のあいだに、わずかな隙間がある。

二本の指は、触れない。

この隙間が、絵画の主題そのものになった。あと数ミリで触れる、ということが、創造の瞬間を伝えている。触れてしまえば、創造は完了する。完了する手前にあるからこそ、絵は動いている。

ミケランジェロと同時代を生きたレオナルド・ダ・ヴィンチも、手を執拗に描いた。1474年ごろの「手の習作」、1507年ごろの「聖母の右腕の習作」。死後、弟子のフランチェスコ・メルツィに遺され、17世紀末にチャールズ2世が購入して、いま英国王室コレクションに収まっている素描群には、若い女性の手の指の構造が、関節と腱までトレースされている。レオナルドは死体を解剖して内部を見た。骨と筋肉を理解した上で、外側の優美さを描いた。

ルネサンスの画家にとって、手は感情と階級を語る器官だった。誰が高貴で、誰が誇り高く、誰が悲嘆しているか。顔だけでなく、手が語った。ミケランジェロの「アダム」では、それが宗教のドラマにまで引き上げられた。

第3の手|切り離された手、独立した彫刻

1908年、パリ。オーギュスト・ロダンが石の塊から二つの手を彫り出す。両方とも右手。別々の人物の右手が、指先を寄せ合い、内側に空洞を作る。

題名は当初「契約の箱(L’Arche d’alliance)」だった。1914年にロダンが『フランスの大聖堂』を出版した後、「カテドラル」と改題された。手のあいだに生まれる虚空が、ゴシック建築の尖頭アーチを思わせる、というのが理由だ。

ロダンのアトリエには、抽斗(ひきだし)いっぱいの手があったという。何百もの小さな石膏の手。指を曲げたもの、開いたもの、つかむもの、祈るもの。来訪者の証言が複数残っている。ロダンはそれらを「断片」と呼んだ。古代彫刻の断片、ヘレニズム彫刻の腕や指のかけら——ロダンはそれらを収集し、独立した美的対象として鑑賞することを学んだ。

詩人グスターヴ・カーンはロダンを評してこう言った。ヴェルレーヌが手の詩人なら、ロダンは手の彫刻家である、と。

「カテドラル」が革新的だったのは、手を「身体の付属物」から「独立した彫刻」に格上げしたことにある。胴体も顔もない。二つの手だけがある。それだけで、緊張と祈りと建築が同時に立ち上がる。手は——空間を作る道具になった。

第4の手|画面に触れる手

20世紀後半、手の使い道がもうひとつ加わる。

1965年、英国モルバーンの王立レーダー研究所で、エリック・ジョンソンというエンジニアが論文を書いた。航空管制を補助する目的で、画面に指で触れて操作する装置を構想したものだ。タッチスクリーンの最古の論文と呼ばれている。

1976年、欧州原子核研究機構(CERN)が、超陽子シンクロトロンの制御にマルチタッチ画面を導入する。1982年、トロント大学のニミッシュ・メータが、人間が操作する最初のマルチタッチ装置を作る。1984年、ベル研究所のボブ・ボイが、透明なマルチタッチインタフェースを作る。それぞれが、別々の場所で、独立に、指を入力装置に変えていった。

研究室と試作機の世界での話だった。それが街中に出るのは、2007年1月9日のサンフランシスコ、Macworld Expoで起きる。

スティーブ・ジョブズが壇上に立ち、iPhoneを掲げ、「マルチタッチという新しいテクノロジーを発明した」と宣言した。スタイラスはいらない、指でいい、と。そして写真を表示し、二本の指でつまみ、広げてみせた。ピンチ・トゥ・ズーム。観客は息を呑んだ。

つまむ。広げる。スワイプする。タップする。これらの動詞が、世界中の言語に同じ意味で組み込まれていった。日本語の「ピンチする」もそうだ。指の動作が、グローバルな共通語になった。

第5の手|物理を模倣する手

ピンチ・トゥ・ズームの本当の革新は、手の動きそのものではなかった。

それまでも研究者たちは似た仕組みを作っていた。ジェフ・ハンが2006年のTEDで披露したプロトタイプには、すでにつまんで拡大する動作があった。Appleの貢献は、その動作を「触っている感じ」にしたことだ。

スクロールには慣性が付いた。指を離した後も、しばらく動き続け、徐々に減速する。リストの端まで来ると跳ね返る——いわゆる「ラバーバンディング」だ。画像を拡大する速度には抵抗感が付いた。重いものほど動かしにくいような、視覚的な錯覚を起こす曲線。これらの細部が、画面の中の物体に質感を与えた。

Appleは2007年、これらのジェスチャーを米国特許7,844,915として出願した。数年後、米国特許商標庁はこれを無効と判断する。先行技術が多すぎた、というのが理由だった。サミュエル・ハースト、ニミッシュ・メータ、ボブ・ボイ、ジェフ・ハン、その他多数。マルチタッチは誰のものでもない、誰もが少しずつ持っているもの、ということになった。

手の動作が、共有財産になった。

第6の手|画面を離れる手

2023年9月12日、クパチーノ。AppleがApple Watch Series 9とUltra 2を発表する。スペックの説明に続いて、ひとつの新機能が紹介された。

「ダブルタップ」。腕時計の側の手で、親指と人差し指を二回タップする。それで電話に出られる。タイマーを止められる。音楽を再生できる。画面に触れる必要はない。

仕組みはこうだ。S9チップに搭載された4コアのニューラルエンジンが、加速度計とジャイロスコープと光学心拍センサからのデータを処理する。指がタップされた瞬間の、手首のごく小さな動きと、血流の変化を、機械学習で検出する。watchOS 10.1のアップデートで、同年10月から利用可能になった。

その三ヶ月前、6月のWWDCで、AppleはVision Proを発表していた。視線追跡とハンドトラッキングを組み合わせ、コントローラーを完全に排除する。ユーザーは見たいものを見て、親指と人差し指をピンチする。それで選択が完了する。2024年2月に米国で発売された。

タッチが、画面から離れた。指は何にも触れない。空気をつまむだけで、機械が反応する。

指先のあいだに

ガンダーラの石仏。システィーナ礼拝堂の天井。ロダンの抽斗の中の、何百もの石膏。そしてクパチーノの講堂。

二千年のあいだ、手は語ってきた。仏陀の教えを、創造の瞬間を、空間そのものを。20世紀の終わりに、それは入力装置になった。21世紀のいま、それは画面を離れた。

転法輪印で結ばれた仏陀の右手の親指と人差し指は、輪を作る。Apple Vision Proの装着者の親指と人差し指は、輪を作る。

二千年と、ガンダーラからクパチーノまでの距離を挟んで、ほぼ同じ形がある。一方は教えを伝え、もう一方は機械に命令する。意味は違う。形は似ている。

これが偶然なのか必然なのか、断定する材料はない。ただ、人間の指の動かし方には、たぶん、それほど多くの選択肢がないのだろう。重要なものを示すとき、人は親指と人差し指を合わせる。その単純な事実が、ガンダーラの彫刻家にも、クパチーノのエンジニアにも、同じ仕草を選ばせた。

手は、口ほどにものをいう。ものをいう方法が、まだそれほど豊富ではない、ということでもある。

Q&A

仏像の手の形は、誰が決めたのですか?
特定の発明者はいません。紀元1世紀ごろのガンダーラ仏教美術に最初の例が現れ、ヘレニズム彫刻の影響を受けながら、3世紀までに五大印として体系化されました。「印」という概念自体は仏教以前のインド宗教にも存在しています。
ミケランジェロは、なぜ神とアダムの指を触れさせなかったのですか?
正確な意図は本人が記録を残していないため断定できません。一般的な解釈は、隙間が「これから命が渡される瞬間」を表す、というものです。神と人間のあいだに残された距離、人間が自分の意思で神に近づこうとする選択、といった解釈も研究者から提示されています。
ピンチ・トゥ・ズームは、本当にAppleの発明なのですか?
厳密には違います。1970年代からCERN、ベル研究所、トロント大学などで研究が進み、2006年のTEDではジェフ・ハンが二本指で拡大する装置を公開していました。Appleの貢献は、これを商品化し、慣性スクロールや跳ね返り効果といった「触感の擬似化」を加えてユーザー体験として完成させた点にあります。2007年に出願された関連特許は、後に米国特許商標庁が無効と判断しました。
Apple Watchのダブルタップは、Vision Proのピンチと同じ仕組みですか?
判定の方法が異なります。Vision Proは外部カメラと赤外線センサで指の動きを直接見ています。Apple Watchは手首側に装着されているため、指は見えません。代わりに、加速度計とジャイロスコープと光学心拍センサが捉える「手首の微細な動き」と「血流の変化」を機械学習で読み取り、ピンチが行われたかを推定します。
ジェスチャー入力は、これからどう変わっていきますか?
明確な見通しはまだ立っていません。視線追跡との組み合わせ、筋電センサで前腕の信号から指の動きを推定する方式、空間に触らない超音波触覚フィードバックなど、複数の研究が進行中です。Apple Vision Proを起点に、コントローラーを完全に排除する方向が一つの主流になりつつあります。

参考文献

Mudras in Buddhist art — Smarthistory
https://smarthistory.org/mudras-in-buddhist-art/
The Meaning of Mudras in Buddhist Art and Iconography — Learn Religions
https://www.learnreligions.com/mudras-buddhas-hands-449960
The Creation of Adam — Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Creation_of_Adam
The Cathedral — Musée Rodin
https://www.musee-rodin.fr/en/musee/collections/oeuvres/cathedral
Rodin’s Hands — Philadelphia Museum of Art
https://www.philamuseum.org/exhibitions/rodins-hands
Sam Hurst, Jeff Han, Ken Kocienda and multitouch interface invention — Hidden Heroes
https://hiddenheroes.netguru.com/hurst-han-kocienda
Apple introduces the advanced new Apple Watch Series 9 — Apple Newsroom
https://www.apple.com/newsroom/2023/09/apple-introduces-the-advanced-new-apple-watch-series-9/
Pinch-to-zoom — Figma “Software is Culture”
https://www.figma.com/blog/software-is-culture/pinch-to-zoom/

基本データ

印相(mudra)
仏像の象徴的な手の形。サンスクリット語で「印章」「徴」を意味する。紀元1世紀ガンダーラ美術に最古の例、3世紀までに体系化。施無畏印・与願印・禅定印・転法輪印・触地印が主要な五印
「アダムの創造」
ミケランジェロ・ブオナローティによるフレスコ画。1508〜1512年制作。ヴァチカン市国システィーナ礼拝堂天井の九場面のひとつ。サイズ280×570cm。神とアダムの指がほぼ触れる構図で知られる
「カテドラル(La Cathédrale)」
オーギュスト・ロダン(1840〜1917)による彫刻。1908年制作。石(後にブロンズ複製)。原題は「契約の箱(L’Arche d’alliance)」。1914年の著書『フランスの大聖堂』刊行後に改題。別人物の右手二つで構成される
iPhone Multi-Touch
2007年1月9日、Macworld Expoでスティーブ・ジョブズがiPhoneを発表。ピンチ・トゥ・ズーム、慣性スクロール、ラバーバンディング等を含む。関連特許7,844,915は後に米国特許商標庁が無効と判断
Apple Watch Double Tap
2023年9月12日Apple発表。Apple Watch Series 9およびUltra 2に搭載。watchOS 10.1で2023年10月リリース。S9チップ内の4コアニューラルエンジンが加速度計・ジャイロ・光学心拍センサのデータを機械学習で処理
Apple Vision Pro
2023年6月WWDCで発表、2024年2月米国発売。視線追跡+ハンドトラッキングによるコントローラーレス操作。親指と人差し指のピンチが基本入力

コメント (0)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です