チェ・ゲバラの顔はなぜ永遠なのか|コルダの一枚とフィッツパトリックのポスター化

チェ・ゲバラの顔はなぜ永遠なのか|コルダの一枚とフィッツパトリックのポスター化

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黒いクレープに覆われた演壇のふもとで、アルベルト・コルダは古いライカに目を押し当てていた。ファインダーの中で焦点を合わせていたのはフィデル・カストロと、その周囲に立つ人々である。1960年3月5日、ハバナのコロン墓地。前日に港で爆発した貨物船ラ・クーブル号の犠牲者を悼む追悼集会だった。死者は約75名、負傷者は数百名にのぼっていた。

突然、90ミリのレンズの中にチェ・ゲバラの顔がせり上がってきた。「私はその表情に驚かされた」とコルダは後年語っている。反射的に二回シャッターを切る。「pac, pac、それだけだった」。横位置で一枚、縦位置で一枚。三枚目を構える時間はなかった。ゲバラはすぐに、二列目に静かに引き下がっていった。

このとき31歳のゲバラはキューバ革命政府の工業大臣だった。コルダがファインダー越しに見たのは、ほんの30秒ほどの出来事だったとされる。彼自身は「この写真は知識や技術の産物ではない。偶然と純粋な幸運だった」と振り返っている。のちにメリーランド美術大学はこの一枚を「世界でもっとも有名な写真」と呼ぶことになる。

だが、この顔を二十世紀の記号に変えたのは、コルダのシャッターだけではなかった。8年後、ダブリンの若い画家が、この陰影の濃い報道写真から灰色をすべて追い出す。赤と黒、二階調。記号には持ち主がいらない——だからこの顔は、パリのバリケードにも、ハバナの追悼集会の壁にも、やがてウォッカの広告にまで届いてしまう。

ファッション写真家、革命の記録者になる

シャッターを切った男はもともと、ハバナの華やかなファッション写真家だった。本名アルベルト・ディアス・グティエレス。1928年生まれ。広告や雑誌の仕事で身を立て、女性モデルを撮るのが本業だった。コルダという名前は、1956年に共同経営者ルイス・ペイルセと写真スタジオを開いた際に、ハンガリー出身の映画監督アレクサンダー・コルダとゾルタン・コルダ兄弟にあやかって付けた呼び名である。年長のルイスは「コルダ・エル・ビエホ」、アルベルトは若い方の「コルダ・エル・ホベン」と呼ばれた。

革命がすべてを変えた。1959年にカストロが政権を取ると、コルダは新聞「Revolución」の専属カメラマンとなり、やがてカストロの公式写真家として10年以上にわたって革命の表側と裏側を撮り続けることになる。釣り、葉巻、演説、深夜の閣議。被写体はファッションモデルから髭面のゲリラ指導者たちへ移った。

ライカM2と90ミリレンズ、コダックのプラスX。装備は地味だが、ファッション写真家としての構図感覚と光の読み方は、ジャーナリスティックな現場でも消えなかった。世界でもっとも複製されることになる一枚が、宝飾品やドレスを撮っていた男の手で生まれたのは、なかなかおもしろい巡り合わせである。

7年間、スタジオの壁の上で

コルダは現像してすぐに、この一枚の力を理解した。だが翌日の新聞には載らなかった。編集部が選んだのは、カストロがジャン=ポール・サルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールと並んで写ったショットだった。フランス実存主義の巨匠夫妻はこのとき革命キューバを訪れていて、ニュースバリューは圧倒的にそちらにあった。

ゲバラの顔は、トリミングされ、引き伸ばされ、コルダのスタジオの壁に飾られた。そのまま7年が過ぎる。来客に時折、写真のコピーをプレゼントとして渡した。1961年にはサルトル夫妻にも一枚を進呈している。

フェルトリネリと200万部のポスター

転機は1967年初頭にやってくる。イタリア人の出版人ジャンジャコモ・フェルトリネリがハバナのコルダのスタジオを訪れた。彼はキューバ政府からの紹介状を携え、「いいゲバラの肖像を探している」と告げる。コルダは壁を指差して言った。「これが私が撮ったゲバラのいちばんいい写真だ」。フェルトリネリはプリントを二枚注文し、翌日取りに来る。コルダは代金を受け取らなかった。「君は革命の友人だから」。

その年の8月、写真は突如として『パリ・マッチ』誌に出現する。「ゲリラたち」と題された記事に挿入されたものだが、撮影者のクレジットはなかった。誰がどう持ち込んだのかは、いまだに分かっていない。サルトルに渡った一枚が経由した可能性が高い、というのが定説に近い。

10月9日、ボリビアの山中でゲバラが処刑される。39歳。CIAの支援を受けたボリビア軍特殊部隊に捕らえられての銃殺だった。死は写真の運命を完全に変える。フェルトリネリは即座にコルダから受け取ったプリントを使って数千枚のポスターを刷り、抗議集会で配った。続いてゲバラの『ボリビア日記』を自社から出し、表紙にこの写真を据える。半年で200万部のポスターが売れた、という記録が残っている。10月18日にはハバナの内務省ビル正面に、五階建てに及ぶこの肖像の巨大バナーが掲げられ、100万人を超える追悼集会の背景になった。

キルキーで会った革命家、二色のシルクスクリーン

同じころ、写真にはもう一つの変換が加えられていた。アムステルダムの無政府主義雑誌『プロボ』に掲載されたコルダの写真の質のいい複製が、アイルランドのある画家の手に渡る。ダブリン出身のジム・フィッツパトリック、当時23歳。

フィッツパトリックは6年前にゲバラ本人と会っている。1961年夏、16歳のときだった。シャノン空港で霧に閉じ込められたモスクワ発の便から降りたゲバラが、海辺の町キルキーのマリン・ホテルのバーに流れ着く。ホテルでアルバイトをしていたフィッツパトリックは、髭面の男がチェ・ゲバラ本人だとすぐに気づいた。「君は知っているか、私はアイルランド人だ。父はゲバラ・リンチ」と告げ、勧められたパワーズ・ウイスキーを水割りでゆっくり飲んだという。ゲバラの父方の祖先はゴールウェイにルーツを持つリンチ家だった。一日のうちにフィッツパトリックは何度かバーに足を運ぶゲバラと言葉を交わし、写真も撮らせてもらった。

1968年、ボリビアでの処刑の報を受けたフィッツパトリックは、ロンドンでの「Viva Che」展のためにシルクスクリーン・ポスターを作る。コルダの白黒写真を二階調に還元し、赤い背景、黒い顔と髪、ベレー帽の星だけを黄色で手塗りした。視線はわずかに上向きに修正し、髪を少し長く描き加えている。「目を聖人めいた角度に向けたかった」と彼は後に語っている。当時の長髪は若者の反逆の記号でもあった。サイズは20インチ×30インチ。

著作権はあえて放棄した。「文字通り、ウサギのように増殖してほしかった。広まってほしかった」というのがフィッツパトリックの言い分である。実際に増殖した。1968年5月のパリ五月革命では、ソルボンヌのバリケードに並ぶ学生たちがこのポスターを掲げて行進する。「赤毛のダニー」ことダニエル・コーン=ベンディットのデモにも姿を見せた。アメリカの反戦集会、北アイルランドの平和行進、パレスチナ、南アフリカ。同じ顔が半世紀以上にわたって抗議の現場を歩き続けることになる。

マリリンとゲバラ

同じ60年代に、もう一つ「量産される顔」が生まれている。アンディ・ウォーホルの『マリリン・ディプティク』、1962年。マリリン・モンローの死から数週間後に発表された、銀色の二連カンバスに同じ顔を50回シルクスクリーンで刷り重ねた巨大な作品である。現在はテート・モダン所蔵。素材はモンロー本人の肖像写真ではなく、1953年の映画『ナイアガラ』のために撮影された宣材スチルだった。

並べてみると共通点が多い。出発点は一枚の既存写真。本人の死を契機に爆発的に増殖した。シルクスクリーンという複製技術と切り離せない。だが、向かう方向は正反対だった。ウォーホルは大量生産そのものをテーマにし、ビザンチン聖画の二連祭壇画めいた形式で「商品化された聖性」を皮肉る。フィッツパトリックは複製を武器に、政治的メッセージを街頭に解き放った。

置かれる場所も対照的だ。ウォーホルのマリリンはテート・モダンの壁の中で、美術品として「鑑賞される」対象だ。フィッツパトリックのゲバラは、街頭の壁に貼られ、Tシャツに転写され、文字どおり群衆の体に着られた。前者は美術館の照明の下で完結している。後者はいまだに完結していない。

スモノフ・ウォッカと2000年の訴訟

二十一世紀に入る頃には、ゲバラの顔は別の意味でも完結を拒んでいた。ありとあらゆる商品の表面に貼り付いていたのである。Gap、アーバンアウトフィッターズ、ベルスタッフ、ヴァンズ。シャネルがクルーズ・コレクションでベレー帽の星をCCマークに置き換えたこともあった。ジェイ・Zは2003年の楽曲「Public Service Announcement」で「俺はチェ・ゲバラだ、ブリン(派手な装身具)付きの」と歌い、プリンス・ハリーはコスプレで着てみせた。2008年公開の記録映画『チェボリューション』は、世界の複製総数を約20億点と見積もっている。

コルダ自身は、コピーされることを基本的に歓迎していた。「私はチェ・ゲバラの理想を支持する者として、彼の記憶や社会正義の理念を広めようとする人々が写真を複製することに反対はしない」と語っている。問題は、ゲバラなら賛同しなかったであろう商品に顔が使われたときだった。

2000年、英国の広告代理店ロー・リンタスが、スモノフ・ウォッカの広告にこの肖像を使った。「Be part of the revolution」というコピー付きで。コルダは初めて法的措置を取る。「ゲバラは下戸だった」と彼の弁護士は法廷で述べた。「彼の家族はキューバで、酒の宣伝に顔が使われていることを特に怒っていた」。ロンドン高裁での示談は約5万ドル。コルダはその金をキューバのカルデナス市にある小児病院に全額寄付した。世界でもっとも複製された写真が初めて作者に金銭をもたらしたのは、皮肉にもアメリカ資本のウォッカ広告だった。コルダ自身は翌2001年に72歳で亡くなる。

残った顔、残らなかった顔

なぜこの一枚だけが残ったのだろうか。同じ時期、ゲバラを撮った写真家は他にも多くいる。穏やかに笑う家族写真、葉巻をくわえた閣議の様子、ボリビアの山中での疲れ切った表情。それらの大半は、いま大学の写真史の教科書を開かなければ見られない。

残った要因の半分は、コルダの構図だ。下からのアングル、垂直の構図、顔の周囲に余分なものが何もない。前景と背景がぎりぎりまで削ぎ落とされ、表情だけが残る。コルダ自身の言葉では、ゲバラの顔は「絶対的な揺るぎなさ」を湛えていた。怒りと痛みが同時に閉じ込められた表情だった。

残りの半分は、フィッツパトリックの介入だった。元の写真は陰影に富んだ報道スナップである。それを赤と黒の二階調に還元したとき、写真は記号になった。顔の半分は影になり、髪と帽子の輪郭が明確な図形として立ち上がる。Tシャツに刷っても、A4のチラシに縮小しても、ステンシルでスプレー描きしても、認識できる。複製耐性の高い記号としての「ゲバラ」が、ここで完成した。

フェルトリネリが200万枚のポスターを刷り、フィッツパトリックがロイヤリティを放棄し、当時のキューバがベルヌ条約に加盟していなかった——この三つが重なって、画像は誰のものでもなくなった。誰のものでもないことが、無限の増殖を可能にした。ウサギのように、と本人が望んだ通りに。その同じ「誰のものでもなさ」が、ウォッカの広告に、ハンドバッグに、ビキニに、顔を運んでいった。コルダがスモノフを訴えたあと、フィッツパトリックも2010年に著作権の主張へ動き、ハバナの小児心臓病院ウィリアム・ソラーへの権利譲渡を目指している。象徴の所有権を、革命の側に取り戻す試み。だが、もう手遅れかもしれない。20億の複製は、すでに世界中の壁とTシャツの胸の上に貼り付いてしまっている。

Q&A

なぜコルダの新聞は撮影直後にこの写真を載せなかったのですか。
同じ日にカストロがサルトル夫妻と並んで写ったショットがあり、フランス実存主義の巨匠夫妻のキューバ訪問のニュースバリューが圧倒的だったためです。コルダ自身は手元のプリントの力を理解していて、スタジオの壁に7年間飾っていました。
フィッツパトリックは元のコルダの写真をどう変えましたか。
陰影に富んだ報道写真を、赤い背景に黒一色の顔という二階調に還元しました。視線をわずかに上向きに修正し、髪を当時の若者文化を反映して少し長く描き、ベレー帽の星だけを黄色で手塗りしています。複製しても認識できる記号への変換が決定的な操作でした。
ウォーホルのマリリンとはどう違うのですか。
どちらも既存写真の複製、本人の死を契機にした増殖、シルクスクリーン技法という共通点があります。違いは方向性で、ウォーホルは大量生産そのものを批評対象にし美術館の中で完結させました。フィッツパトリックは複製を政治的拡散の道具として街頭に解き放ち、いまだに増殖を止めていません。
なぜ20億枚も複製されたのに、コルダはほとんど収入を得なかったのですか。
当時のキューバがベルヌ条約に加盟しておらず、著作権が国際的に保護されていなかったためです。加えてコルダ自身が、革命の理念を広める手段としての複製を歓迎していました。2000年のスモノフ訴訟は、彼が初めて法的措置を取った例で、得た示談金はキューバの小児病院に寄付されています。
商品化のなかで、本来のチェ・ゲバラ像は失われていますか。
批判的な見方は確実にあります。映画監督ブルース・ラブルースは「Tシャツを着ている人がチェ・ゲバラを知らないとき、ラディカリズムの記号は空っぽにされ、ファッションとして使われる」と述べました。一方で、抗議の現場でいまも掲げられ続けてもいる二重性を持つ画像でもあります。

基本データ

原写真タイトル
Guerrillero Heroico(英雄的なゲリラ戦士)
撮影者
アルベルト・コルダ(本名アルベルト・ディアス・グティエレス、1928–2001、キューバ)
撮影日・場所
1960年3月5日、ハバナ・コロン墓地、ラ・クーブル号爆発犠牲者追悼集会
機材
ライカM2、90mmレンズ、コダック・プラスX
ポスター制作者
ジム・フィッツパトリック(1944年生まれ、アイルランド・ダブリン)
ポスタータイトル・発表年
Viva Che!(1968年、ロンドンでの同名展示会のために制作)
ポスター技法・サイズ
シルクスクリーン、赤・黒二色+黄色手彩色、20×30インチ
比較作品
Marilyn Diptych(アンディ・ウォーホル、1962年、シルクスクリーン、205.4×289.6cm、テート・モダン所蔵)
主要な訴訟
2000年・コルダ対ロー・リンタス&レックス・フィーチャーズ(スモノフ・ウォッカ広告)、約5万ドルで示談、カルデナス小児病院へ全額寄付

参考文献

Guerrillero Heroico – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Guerrillero_Heroico
The Story Behind Che’s Iconic Photo – Smithsonian Magazine
https://www.smithsonianmag.com/travel/iconic-photography-che-guevara-alberto-korda-cultural-travel-180960615/
Che Guevara, Jim Fitzpatrick and the making of an icon – History Ireland
https://historyireland.com/che-guevara-jim-fitzpatrick-and-the-making-of-an-icon/
Modern Ireland in 100 Artworks: 1968 – Viva Che, by Jim Fitzpatrick – The Irish Times
https://www.irishtimes.com/culture/modern-ireland-in-100-artworks-1968-viva-che-by-jim-fitzpatrick-1.2425999
Jim Fitzpatrick and the meeting that inspired the creation of an icon – Kilkee Heritage
https://kilkee.clareheritage.org/people/jim-fitzpatrick-and-the-meeting-that-inspired-the-creation-of-an-icon
Smarthistory – Andy Warhol, Marilyn Diptych
https://smarthistory.org/warhol-marilyn-diptych/
How the Che Guevara t-shirt became a global phenomenon – Dazed
https://www.dazeddigital.com/fashion/article/32208/1/how-the-che-guevara-t-shirt-became-a-global-phenomenon
Iconic photo of Che Guevara taken | March 5, 1960 – HISTORY
https://www.history.com/this-day-in-history/march-5/iconic-photo-of-che-guevara-taken

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