「眼」のデザイン小史|ロトチェンコ、ダリ、ビッグ・ブラザーから虹彩認証へ

「眼」のデザイン小史|ロトチェンコ、ダリ、ビッグ・ブラザーから虹彩認証へ

目次

剃刀と眼球――1929年6月のパリ

1929年6月6日、パリ五区の小さなアートシネマ、スタジオ・デ・ユルシュリーヌ。客席にはピカソ、ジャン・コクトー、ル・コルビュジエ、シュルレアリスムの面々が並んでいた。スクリーン裏では、初監督作を発表するルイス・ブニュエルがポケットいっぱいに石を詰めて立っていた。映画が暴動を引き起こした時のために、観客に投げ返す石。

上映時間およそ十六分。冒頭わずか数十秒で、月にかかる雲、剃刀を研ぐ男、椅子に座った女、男の指が女の瞼を押し開ける――そして剃刀の刃が眼球を横切る。

スクリーンに映ったのは死んだ子牛の眼だった。後年ブニュエル本人が認めている。だが客席でそれを冷静に区別できた者はほぼいなかった。観客が慣れていなかったのは、視覚そのものが攻撃される感覚だった。石は最後まで使われなかった。

ブニュエルとサルバドール・ダリの『アンダルシアの犬』は、その後パリのスタジオ28に買い取られ、八か月にわたって上映が続いた。誰もが衝撃を語った。誰もあのワンカットを忘れられなかった。

デザインの歴史のなかで、眼はほとんどいつも「見る側」の代理人だった。三角形のなかに浮かぶ神の眼、革命の未来を告げる機械の眼、独裁を可視化する巨大な顔。どれもこちらを見ている何かの記号であって、見られる側ではない。その関係が、二十一世紀に入って静かに裏返る。剃刀を向けられたあの器官は、いま読み取られ、数値化され、身分証になっている。

全能の眼、というアイデア

古代エジプトには「ウジャト」と呼ばれる眼があった。日本でホルスの目と呼ばれる、流線で囲まれた左眼の図像。神話のなかでセトに引き裂かれ、トートによって癒されたとされる眼で、保護・治癒・全体性の象徴として使われた。船首に描かれ、ミイラの胸に守りとして置かれた。

ルネサンス期、その「神の眼」がキリスト教の三位一体と結びつき、三角形のなかに眼を描く図像が成立する。1525年、ヤコポ・ポントルモが『エマオの晩餐』に描いたものが最初期の例とされる。やがてこの図像はアメリカへ渡る。1782年、合衆国の国璽の裏面に「未完成のピラミッドの上に浮かぶ眼」が採用された。フリーメイソンが眼の象徴を採用するのは1797年の『The Freemason’s Monitor』以降のことで、メイソンの発明だという説は通俗的な誤解にすぎない。

エジプトでも、ルネサンスでも、アメリカでも、共通しているのは構造だ。眼は身体の器官ではなく、人格と切り離されたシンボルとして使われる。見ているのは誰でもない。だがすべてを見ている。

見えない監視者の館

その「誰でもないが、すべてを見る」を建築に翻訳した男がいる。功利主義の哲学者ジェレミー・ベンサム。1791年、彼は弟サミュエルがロシアで設計していた円形の織物工場にヒントを得て、『パノプティコン、または監察の家』を出版した。建築家ウィリー・レヴェリーが図面を引いた。

仕組みは単純だ。円形の建物の外周に独房を放射状に配し、中央に監視塔を立てる。独房の側からは塔の内部が見えない。看守がいるのか、いないのかも分からない。囚人は常に見られている可能性のなかで生活する。実際の監視ではなく、監視されているかもしれないという感覚が行動を規定する。

ベンサムは応用先を囚人に限らなかった。学校、工場、病院、人が監督される場所すべてを射程に入れていた。生涯のうちに彼のパノプティコンは建設されなかったが、概念は生き残った。1975年、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』でこの装置を近代権力のモデルとして読み直す。視ることは権力であり、視られる側は自らを内側から規律化する。眼は、もはやデザインのモチーフを超えて、社会の構造原理になる。

機械の眼が世界を読む

1924年のモスクワ、革命の熱がまだ覚めない時期に、別の眼が現れる。ジガ・ヴェルトフという二十八歳の映像作家が、新しい記録映画のシリーズを発表した。タイトルは『キノ・グラース』――映画の眼。人間の眼より速く、より正確に、より客観的に世界を捉える機械の眼。ヴェルトフはマニフェストでおよそ次のように宣言した。私はキノ・グラースである、私は機械の眼である、私だけが見ることのできる世界を人間に見せる、と。

このシリーズのポスターを担ったのが、構成主義の中心人物アレクサンドル・ロトチェンコ。1924年に制作された一枚は、上半分に巨大な眼を据え、その下に「КИНО ГЛАЗ」の太いロシア文字を配した。眼の下部には小さく観衆の顔と映写機が並ぶ。眼そのものはやや幾何学的に処理され、人格を持たない機械装置のように見える。リトグラフの版面サイズは92.7×69.9センチ。現在ニューヨーク近代美術館が所蔵している。

このポスターはグラフィックデザインの実験であり、同時にイデオロギーの宣言でもあった。写真と幾何学タイポグラフィの合成、過剰なまでに大きな視覚の中心。社会主義リアリズムが体制の規範として定着する前のごく短い期間、ソヴィエト前衛は機械の眼を未来の象徴として真剣に賛美した。「見ること」は革命の側にあった。

眼を切る、という宣言

そのわずか五年後、パリで前衛は別の方向に進む。

ブニュエルが二十九歳、ダリが二十五歳。二人がそれぞれ見た夢――月を斜めに切る雲と、蟻が湧く手のひら――を持ち寄ったところから『アンダルシアの犬』の脚本は始まった。執筆期間は一週間足らず。ブニュエルは後年こう書いている。「私たちが採用したルールはひとつだけだった。合理的な説明・心理的な理由・文化的な背景を要求するイメージはすべて拒絶する」。

剃刀の場面は冒頭に置かれた。これから映画を観るための器官を、最初に潰してみせる。眼を切るという身振りは、見ることへの攻撃である以前に、見たがる観客への攻撃でもあった。ロトチェンコが「機械の眼で世界を読みましょう」と呼びかけたとすれば、ブニュエルとダリは「読むのをやめろ」と返したことになる。両者の距離はわずか五年と数千キロ。同じ前衛が、正反対の方向から眼に手を伸ばしていた。

『アンダルシアの犬』の主演を務めたシモーヌ・マルイユは、その後数十年を経て1954年に自死している。共演のピエール・バチェフは1932年に若くして自ら命を絶った。映画史に残る一場面の代償と呼ぶには大きすぎる偶然だ。二人の死は、あの剃刀のシーンの解釈に長く影を落とすことになる。

45歳の男の口髭

第二次大戦が終わり、別の眼が登場する。1949年、ロンドン。結核を患いながら最後の力を振り絞ったジョージ・オーウェルが、ある小説を書き上げた。

『1984』の主人公ウィンストン・スミスは、ヴィクトリー・マンションの入口で一枚のポスターと出会う。一メートル幅の巨大な顔。黒い口髭、頑強な顎、四十五歳ほどの男。「ビッグ・ブラザー・イズ・ウォッチング・ユー」という文字が下にある。オーウェルは丁寧に書き添えている。「それは、視点が動いても眼がこちらを追ってくるように描かれた、あの種の絵だった」。

肖像画における「眼が追ってくる」効果は、ルネサンス以来知られていた古典的な絵画技法だ。オーウェルはそれを全体主義のプロパガンダ装置に転用した。ビッグ・ブラザーは「眼」のロゴでも紋章でもなく、ひとりの人間の顔として現れる。だが小説の中盤、その顔のモデルとなる「ビッグ・ブラザー本人」が実在するかどうかは決して明らかにされない。眼はあるが、本体は不在。ベンサムのパノプティコンと同じ構造が、二十世紀の独裁体制の比喩として書き直された。

「ビッグ・ブラザーが見ている」は、その後あらゆる監視批判の合言葉になる。だがオリジナルが、口髭の生えた一個人の顔だったことは、いまではほとんど忘れられている。

魔除けと商標

1951年10月20日、土曜日の夜のアメリカ。テレビ放送のステーション・ブレイクで、ジャック・ベニーやフランク・シナトラ、ジョージ・バーンズらが「この眼から目を離さないで」と語りかけた。CBSテレビが新しいシンボルを発表した瞬間である。

デザインしたのはCBS広告販促部のクリエイティブ・ディレクター、ウィリアム・ゴールデン。製図を実際に担当したのはグラフィック・アーティストのカート・ワイス。インスピレーションの出どころは、ペンシルバニア・ダッチ地帯のバーン(納屋)に描かれていたヘックスサイン――魔除けのために塗られた幾何学的な紋章――と、シェーカー教徒の図案集に収録されていた眼を模した素朴な図像だった。アレクセイ・ブロドヴィッチが編集したアートディレクション誌『Portfolio』創刊号(1950年)に掲載された「The Gift to Be Simple: Shaker design」という記事に、その眼の図版があった。それをゴールデンが拾い、修正し、CBSの記号にした。

魔除けの民間意匠が、放送局のロゴになった。プロヴィデンスの眼から二百五十年。意味論はずいぶん変わっている。神の眼でも監視の眼でもなく、商売の眼。「視聴者の眼を集める」装置がついに、それ自体「眼」の形をして公衆の前に立った。

ゴールデンには、この仕事についての有名な言葉がある。ロゴというものは、デザイナーがそれに飽きはじめた頃になってようやく、公衆の眼にとまりはじめる、と。CBSの眼は1951年から実質的に形を変えていない。七十五年同じ場所に立ち続けてきた。

眼を読み返す技術

二十世紀の眼は、見る側のメタファーだった。二十一世紀の眼は、読まれる側になる。

1985年、二人の眼科医レナード・フロムとアラン・サファイアが「虹彩バイオメトリー」の特許を米国で出願した。同じ人間でも左右の虹彩は異なる。一卵性双生児でも一致しない。指紋より情報量が多く、しかも一生変わらない――1980年代に眼科で確認されたこの事実が、認証技術の基盤になった。1990年代半ばに最初の商用システムが登場。2005年に基本特許が満期を迎えると、国境管理、難民キャンプ、空港のe-Gate、スマートフォンのロック解除へと用途は広がっていった。

2021年、サム・アルトマンらが立ち上げたWorldcoin(2024年にWorldへ改称)は、銀色の球体「オーブ」と呼ばれる装置を世界各地に配置し、虹彩スキャンと引き換えに暗号通貨と「World ID」を配布した。AIが生成した偽人格と本物の人間を区別するため、というのが大義名分だ。同社の発表によれば2026年までに160か国で約1800万人の虹彩がスキャンされた。ケニアやブラジル、スペイン、香港、フィリピンなど複数の国で規制当局が運用を制限・停止している。

百年前、ロトチェンコは「機械の眼」のポスターを設計した。百年後、機械のほうが眼を読みにくる。ベンサムの監視塔が「不在の権力」を建築化したとすれば、Worldのオーブは「個人の身体」を識別データに翻訳する。視るほうから視られるほうへ。眼は記号から器官へ戻り、器官のままシステムに組み込まれる。

『アンダルシアの犬』で剃刀が眼球を横切ったとき、観客は自分の眼が攻撃されたかのように身をすくめた。冷静に考えれば、それは死んだ子牛の眼だった。死んだ子牛の眼であってさえ、観客は自分のものとして受け取った。それから百年近く経って、空港のゲートで、暗号通貨のアプリで、人は自分の虹彩のパターンを暗号化されたコードとして差し出している。見ることと見られることを同じ器官で引き受ける――剃刀から虹彩スキャナまでの百年、デザインの歴史が眼の周りを離れなかった理由は、たぶんそこにある。

Q&A

『アンダルシアの犬』の眼球カットで、本当に女優の眼を切ったのですか?
切っていません。ブニュエル自身が後年に語っているとおり、実際に切られたのは死んだ子牛の眼です。シモーヌ・マルイユが眼を開けるシーンと、子牛の眼に剃刀を当てるクローズアップを編集でつなぎ、人間の眼が切られているように見せています。
CBSの眼のロゴはなぜ「シェーカー」と「ペンシルバニア・ダッチ」の両方が出典として挙げられるのですか?
ウィリアム・ゴールデンはペンシルバニア・ダッチ地帯を車で通った際に、納屋に描かれていた魔除けの紋章(ヘックスサイン)に着目したと語っています。同時期に手にしたアレクセイ・ブロドヴィッチ編集の雑誌『Portfolio』のシェーカー特集に、眼を模した素朴な図案が掲載されており、これも参考にしたとされます。両者は別の宗教共同体ですが、ゴールデンは複数の源泉を組み合わせて最終形に至りました。
ベンサムのパノプティコンは実際に建設されたのですか?
ベンサム自身が構想した形では建設されませんでした。ただし放射状の独房配置という発想は後世に大きく影響し、キューバのプレシディオ・モデロ(1926-28年)、米国イリノイ州のステイトヴィル矯正センター(1919年)などにその痕跡が残っています。フーコーが『監獄の誕生』(1975年)でパノプティコンを近代権力のモデルとして再評価したことで、建築よりも概念として広く知られるようになりました。
プロヴィデンスの眼はフリーメイソンが作ったシンボルですか?
違います。三角形のなかに眼を描く図像は、1525年のヤコポ・ポントルモの絵画『エマオの晩餐』にすでに見られ、キリスト教の三位一体を象徴する図像として中世末から使われてきました。1782年にアメリカ国璽の裏面に採用されたのも、芸術顧問ピエール・ウジェーヌ・デュ・シミティエールの案によるもので、フリーメイソンが正式にこの図像を採用したのは1797年以降。むしろメイソンが既存の宗教図像を借用した、というのが順序として正確です。
Worldcoin(現World)の虹彩スキャンは安全ですか?
同社は虹彩画像そのものは即座に削除し、暗号化された数値コード(IrisCode)のみを保存していると説明しています。ただし、ドイツ、ブラジル、スペイン、香港、ケニア、フィリピンなど複数の国で個人情報保護やインフォームド・コンセントの観点から規制当局が運用停止や調査を命じており、安全性についての国際的な合意はまだ形成されていません。

基本データ

ホルスの目(ウジャト)
起源:古代エジプト / 意味:保護・治癒・健康 / 関連神話:ホルスとセトの闘い
パノプティコン
提案者:ジェレミー・ベンサム / 刊行年:1791年 / 作図:ウィリー・レヴェリー / 再評価:ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(1975)
『キノ・グラース』ポスター
デザイン:アレクサンドル・ロトチェンコ / 制作年:1924年 / 寸法:92.7×69.9 cm / 所蔵:ニューヨーク近代美術館(MoMA)
『アンダルシアの犬』
監督:ルイス・ブニュエル / 共同脚本:サルバドール・ダリ / 公開:1929年6月6日(パリ、スタジオ・デ・ユルシュリーヌ) / 上映時間:約16分 / 主演:シモーヌ・マルイユ、ピエール・バチェフ
『1984』
著者:ジョージ・オーウェル / 刊行:1949年6月 / 主人公:ウィンストン・スミス / 舞台:オセアニア国・ヴィクトリー・マンション
CBSの眼のロゴ
デザイン:ウィリアム・ゴールデン / 作画:カート・ワイス / 初公開:1951年10月20日 / 着想源:ペンシルバニア・ダッチのヘックスサイン、シェーカーの図案
虹彩認証バイオメトリー
特許出願:1985年(レナード・フロム、アラン・サファイア) / 基本特許満期:2005年 / 現代の事例:World(旧Worldcoin)のOrb、空港e-Gate、スマートフォン

参考文献

Un Chien Andalou (Wikipedia)
https://en.wikipedia.org/wiki/Un_Chien_Andalou
Aleksandr Rodchenko. Kino Glaz (Film Eye), 1924 – MoMA
https://www.moma.org/collection/works/7274
Panopticon | Surveillance, Discipline, Control – Britannica
https://www.britannica.com/technology/panopticon
CBS Logo by William Golden, 1951 – Logo Histories
https://www.logohistories.com/p/cbs-logo-william-golden-lou-dorfsman-history
The Evolution of the CBS Eye – CBS News
https://www.cbsnews.com/pictures/the-evolution-of-the-cbs-eye/
1984 Quotes: Big Brother Quotes – SparkNotes
https://www.sparknotes.com/lit/1984/quotes/symbol/big-brother/
Eye of Horus | Description & Myth – Britannica
https://www.britannica.com/topic/Eye-of-Horus
Iris Recognition Technology – Ophthalmology Journal
https://www.aaojournal.org/article/S0161-6420(16)30676-5/fulltext
US tech embraces Sam Altman’s World iris-scan ID – Rest of World
https://restofworld.org/2026/sam-altman-worldcoin-zoom-tinder-partnerships/

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