手塚治虫『新宝島』|漫画にモンタージュを持ち込んだ1947年の衝撃

手塚治虫『新宝島』|漫画にモンタージュを持ち込んだ1947年の衝撃

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1947年1月、戦後二度目の冬を迎えた大阪。物資不足のなか、粗悪な紙に印刷された〈赤本〉と呼ばれる漫画が街頭の露店に並んでいた。その中の一冊、『新寶島』と書かれた約190ページの長編が、子どもたちの間で異様な噂となって広まる。

噂の中心は物語ではなかった。最初の数ページだった。

波止場へ急ぐピート少年。船はもうすぐ出航する。コマには少年の顔のクローズアップ、ハンドルを握る運転手の手元、海岸線を疾走する車のシルエットが、視点を変えながら次々と現れる。それまでの漫画なら、一コマか二コマで済ませる導入だった。スピード、焦り、距離感が、セリフではなく画面そのものから立ち上がってくる。

「あれを読んだ瞬間、自分が漫画を描きたかった理由が分かった気がした」——後年、何人もの漫画家が同じ趣旨の述懐を残している。藤子不二雄、石ノ森章太郎、ちばてつや、楳図かずお、さいとう・たかを、松本零士、辰巳ヨシヒロ。リストはどこまでも伸びる。発行部数は当時としては破格の40万部前後と伝えられ、大阪の赤本ブームを点火させた。

書き手は当時18歳。大阪帝国大学附属医学専門部の二年生だった、手塚治虫である。

だが、その数ページを手塚が無から発明したわけではない。視点の切り替えも、時間の引き伸ばし方も、それを支えた思想も、敗戦前後の日本に流れ込んでいた別々の水源から来ている。ディズニーの流麗な動き、エイゼンシュテインのモンタージュ理論、戦前の子ども漫画がすでに手にしていた構文。手塚が果たしたのは、散らばっていたそれらを200ページという前例のない規模で束ね直すことだった。技法は、束ねられた瞬間から文法に変わりはじめる。文法になったものは、やがて誰の目にも映らなくなる。

4コマが「マンガ」だった時代

戦前から戦後直後にかけて、日本の子ども向け漫画は田河水泡『のらくろ』に代表される連載短編か、新聞の4コマが主流だった。物語の進行は登場人物のセリフで説明され、画面は舞台劇のように正面から捉えられる。1ページあたりの情報量は少なく、テンポも一定。読者は俯瞰の観客席に座らされたまま、ページをめくっていた。

『新寶島』はそんな表現が当たり前の時代に現れた、書き下ろし200ページ近い長編である。企画自体が前代未聞で、紙不足の時代に贅沢の極みだった。原案・構成として連名されていたのは関西漫画界の長老格、酒井七馬。手塚の起用は、1946年に同人誌『まんがマン』の例会で出会った酒井からの「好きなように描いていい」という依頼に始まる。

物理的に焼け野原だった大阪の片隅で、戦後マンガの起点が静かに切られた。

クローズアップ、パン、カット割り

『新寶島』が見せた具体的な技法は、三つに整理できる。

第一に、視点の自由な移動。同じ場面を遠景から近景へ、横から正面へと、コマごとに切り替えていく。読者は一つの出来事を複数の角度から目撃する。

第二に、時間の引き伸ばし。1秒の出来事に複数のコマを与え、観客の体感時間を意図的に遅らせる。波止場へ向かう車の場面が象徴的で、それまでなら一コマで終わる状況に8ページ近くが費やされた。

第三に、コマとコマのつなぎ方。前のコマで人物がコマ外の何かを見つけ、次のコマでその対象が読者の視界に現れる——映画の切り返しショットを紙面に置き換えた構文である。漫画研究者の竹内オサムはこれを「同一化技法」と呼び、読者を作中人物の視点と感情に同期させる装置だと論じた(この主張をめぐっては、漫画批評家の伊藤剛との間で長い論争が続いている)。

セリフによる説明から、画面そのものによる語りへ。技法の数だけ、手塚以前のマンガとの距離が広がっていた。

17歳の少年が観た『桃太郎』

これらの技法を、若い手塚はどこから学んだのか。

直接の源泉として手塚自身が繰り返し挙げているのが、1945年4月に公開された『桃太郎 海の神兵』である。海軍省の依頼で松竹が制作した日本初の長編アニメーション映画で、監督は瀬尾光世。手塚は敗戦間際の大阪松竹座でこれを観て涙し、後年「私は一生に一度、必ずこのようなアニメを創りたいと決心し、漫画家になり、そしてアニメを創り始めたのです」と公式に語っている。観たのは敗戦の年、16歳の夏のことだった。

『桃太郎 海の神兵』には、当時の日本では稀だった二つの要素が同居していた。一つはディズニー型の流麗なフルアニメーション。瀬尾は1940年公開の『ファンタジア』を、日本軍が戦地で接収したフィルムから海軍省経由で観る機会を得ており、その表現を参考にしていた。もう一つが、ソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインの理論に由来するモンタージュ的なカット割りだった。

エイゼンシュテインのモンタージュ論は、戦前の日本でも『キネマ旬報』などを通じて研究の対象になっていた。研究者の大塚英志は、戦時下の日本のメディアがエイゼンシュテイン理論を消化しながら独自のカット割り文化を作り上げ、それが瀬尾の作品を経て手塚に流れ込んだ、と論じている。手塚自身も戦時中、瀬尾の作品を日記に丁寧に書きつけていた。

ディズニーとエイゼンシュテイン。性質の異なる二つの源流が、敗戦直前の日本のスクリーンで奇妙に合流し、その光を浴びた少年が二年後に200ページの漫画を描いた。系譜はそういう形をしている。

「神話」をめぐる、もう一つの議論

『新寶島』が戦後マンガの出発点である——という評価は、半世紀以上にわたって定説の座を占めてきた。だが2000年代以降、複数の研究者がこの「手塚神話」を再検証している。

評伝『謎のマンガ家・酒井七馬伝』を著した中野晴行は、共作者の酒井七馬が元アニメーターであったことを重視する。映画的表現は手塚一人の発明ではなく、酒井の知見と指導が大きく寄与した可能性がある——というのが中野の見立てだ。手塚自身が1984年の全集リメイク版あとがきで「構成の草案は自分がした」と書いていることは確かだが、宝島制作期の日記が数か月分欠落していることも、議論の余地を残している。

加えて、近年の研究では、手塚以前の1930年代の子ども漫画にすでに「映画的な」コマ運びが存在したことが指摘されている。新関青花の冒険漫画や大城のぼるの作品には、主人公の視点を経由するショット切り返しの構文が認められる。手塚はゼロから映画的手法を発明したわけではなく、戦前から蓄積されていた表現を、長編という器に注ぎ込んで結晶化させた人物だった——そういう輪郭が、いま少しずつ描き直されている。

英雄譚を疑うのは、英雄を貶めるためではない。系譜の中に正しく置き直すためである。

「劇画」という反逆

『新寶島』の衝撃を最も深く浴びた一人が、辰巳ヨシヒロである。少年時代、辰巳は宝塚の手塚邸を何度も訪ね、自作を見てもらった。漫画少年たちの神様だった。

その辰巳が、1957年末に名古屋の貸本誌『街』へ寄稿した『幽霊タクシー』の表紙に、見慣れない四文字を書き入れる。「劇画」。

意図は明確だった。手塚的な、丸みのある記号的な絵柄、子ども向けのテンポ、明るい結末——そうした既存のマンガとは別物だと、自分のハードボイルドな短編を区別したかった。やがてさいとう・たかをらと「劇画工房」を結成し、貸本市場に劇画ブームを起こす。

手塚はこの動きにノイローゼ気味の反応を示した。自分のアシスタントまでが劇画を山ほど借りてくる時期があり、精神鑑定を受けたという挿話が残っている。それでも手塚は屈さなかった。1957年の『黄金のトランク』を皮切りに、自作に劇画タッチを取り入れ、1967年には雑誌『COM』を創刊して、つげ義春らが集う『ガロ』に対抗した。火の鳥はこの時期の連載である。

弟子的存在が反逆者として立ち上がり、師がそれを取り込んで先へ進む。後年の手塚は、自身の最大のライバルを「自分自身」だと答えるようになる。

大友克洋のAKIRA、鳥山明のアトム

時代が下って1980年代、手塚の前にもう一人の異質な才能が現れる。大友克洋。『童夢』『AKIRA』で発揮された写実的な書き込みと、擬音や効果線に頼らないコマ運びは、劇画とも手塚とも違う第三の文法を提示した。手塚は周囲に「大友克洋さんの出現によって、劇画はトドメをさされた」と漏らした。少ない線、白っぽい画面、それでいて劇画以上のリアリティが出せることを、大友は証明してしまった。

新人時代の大友が初めて手塚に会った夕食会で、手塚は虫眼鏡まで持ち出して大友の絵を称賛した上で、こう告げたという——「でも僕も、あの絵は描けるんですよ。描こうと思えば、誰の絵でも」。嫉妬と承認が同じ口から出てくる、手塚らしい場面だった。大友のほうは、単行本『AKIRA』の最終巻に手塚への謝辞を入れている。劇画と手塚をともに吸収しながら、その先で別の地平を切り開いたという自覚の表明である。

もう一人、別の方向から手塚を継いだ作家がいる。鳥山明。少年時代の鳥山は『鉄腕アトム』のロボットを毎日いたずら描きしていたと語っており、『Dr.スランプ』のオボッチャマンを「アトムへのオマージュ」と公言している。孫悟空のあの逆立った髪型も、アトムの頭の二本角を変奏した造形だ。世界中の子どもが知るドラゴンボールのシルエットの中に、1947年の系譜は今も生きている。

紙の中の映画は止まらない

現代のマンガを開いてみれば、手塚が持ち込んだ文法が消えていないことに気づく。あるいは、消えていないどころか、それが「マンガとはこういうもの」という前提そのものになっている。クローズアップで感情を見せ、効果線で動きを示し、複数のコマで一つの瞬間を引き伸ばす——韓国のウェブトゥーン、フランスのバンド・デシネ、アメリカン・コミックスの近作にまで、この文法の影は伸びている。

手塚は1989年に亡くなった。享年60。『新寶島』の発表から42年、漫画家になるきっかけとなった『桃太郎 海の神兵』を観た日からは44年が経っていた。

紙の上で動かしてみせた一台の車は、いまも誰かのページの中で、波止場へ向かって走っている。

基本データ

作品名
新寶島(しんたからじま、新宝島)
原案・構成
酒井七馬
作画
手塚治虫
発行年
1947年(昭和22年)1月
発行元
育英出版
形式
書き下ろし単行本(赤本)
ページ数
約190ページ
発行部数
約40万部
ジャンル
冒険長編漫画
題材
ロバート・ルイス・スティーヴンソン『宝島』、ロビンソン・クルーソー、ターザンを組み合わせた翻案
手塚治虫 生没年
1928年11月3日 – 1989年2月9日
発表時の手塚治虫の年齢
18歳(大阪帝国大学附属医学専門部 二年生)
酒井七馬 生没年
1905年4月26日 – 1969年1月23日
酒井七馬 経歴
漫画家・元アニメーター、関西漫画界の長老格

Q&A

『新宝島』は手塚治虫一人で描いた作品なのですか?
表紙には「原案・構成 酒井七馬/作画 手塚治虫」と連名されています。手塚自身は1984年の全集リメイク版あとがきで「構成の草案は自分がした」と書いていますが、評伝作家の中野晴行は、共作者の酒井が元アニメーターであったことから、映画的表現の発案には酒井の寄与もあったのではないかと指摘しています。完全な単独作とは言い切れない、というのが現在の研究状況です。
なぜ『新宝島』はあまり再版されなかったのですか?
手塚は出版時、酒井によって自分の原稿が無断で60ページ削られ、セリフやキャラクターの顔まで描き変えられたことに強い不満を抱きました。著作権上の権利関係も曖昧だったため、生前は再版を許可せず、長く「幻の作品」となります。1984年に手塚が記憶を頼りに再描画したリメイク版が全集に収録され、1947年版の初版本は古書市場で数百万円の値がつくこともある稀覯本となりました。
ディズニーとエイゼンシュテインの影響は、手塚が直接観て学んだのですか?
ディズニーについては、戦前から父親所有の家庭用映写機で短編を観ていた経験があり、また戦後はバンビを80回以上観たという有名な逸話もあります。エイゼンシュテインのモンタージュ理論は、1945年に観た瀬尾光世監督の『桃太郎 海の神兵』を介して間接的に吸収したと考えられています。この映画は、戦地で接収された『ファンタジア』のフィルムを参考にディズニー的流麗さを取り入れつつ、戦時下日本で発達したエイゼンシュテイン由来のカット割りを採用しており、両者を一つの作品で体験できる稀有な機会でした。
「劇画」が登場する前は、マンガと劇画は同じものだったのですか?
「劇画」という言葉自体が、1957年末に辰巳ヨシヒロが造語したものです。辰巳は手塚的な丸みのある記号的絵柄を「子ども向け」と捉え、自分のハードボイルドな貸本短編をそれと区別するために新しい呼称を必要としました。つまり「劇画」は、最初から手塚マンガへのアンチテーゼとして生まれた言葉でもあります。手塚自身もやがて自作に劇画タッチを取り入れ、両者は徐々に融合していきます。
大友克洋と手塚治虫の関係は、対立的だったのですか?
単純な対立ではなく、相互承認と緊張が混ざった複雑な関係でした。手塚は大友の画力を高く評価し、「大友克洋の出現によって劇画はトドメをさされた」と認めながら、本人に向かっては「でも僕もあの絵は描けるんですよ」と告げたという有名な逸話が残っています。大友の側は『AKIRA』最終巻に手塚への謝辞を記しており、敬意は明確に表明されています。世代の異なる巨匠どうしの、ライバル意識を伴う敬意関係でした。

参考文献

新宝島 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/新宝島
手塚治虫 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/手塚治虫
新寳島|マンガ|手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL
https://tezukaosamu.net/jp/manga/207.html
戦争とマンガ映画:手塚治虫と戦争:TezukaOsamu.net(JP)
https://tezukaosamu.net/jp/war/entry/18.html
桃太郎 海の神兵 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/桃太郎_海の神兵
手塚治虫の何が新しかったのか — Google Arts & Culture
https://artsandculture.google.com/story/twVxHS43JkMsKg
Tezuka, Osamu | Encyclopedia.com
https://www.encyclopedia.com/arts/culture-magazines/tezuka-osamu-0
大塚英志インタビュー「からっぽな日本と近代をあるように見せることに特化した戦時下のモンタージュ」 – 集英社新書プラス
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/japan_culture_montage/32646
辰巳ヨシヒロ – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/辰巳ヨシヒロ
Tezuka Osamu Outwits the Phantom Blot – The Comics Journal
https://www.tcj.com/tezuka-osamu-outwits-the-phantom-blot-the-case-of-new-treasure-island-contd/

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