1922年秋、ベルリン出身の23歳の女性が、ヴァイマールにあるバウハウスの教室で機織り機の前に立たされた。アンネリーゼ・フライシュマン――後にアンニ・アルバースとして知られることになる彼女は、画家になるつもりでこの学校に入った。糸を扱う仕事には何の興味もなかった。
「私の場合、糸が、本当に意志に反して、私を捕まえたのです。糸を扱うのは女々しいことだと思っていました。何か征服すべきものが欲しかった」――晩年、彼女はそう振り返っている。
その「捕まえた糸」は、半世紀以上をかけて20世紀のテキスタイル芸術を書き換えることになる。ただし、これは才能が偏見を跳ね返した美談ではない。彼女たちは「女性に向いている」という理由だけで織物工房に振り分けられ、そこから出ることを許されなかった。にもかかわらず、その閉じられた部屋は、バウハウスで最も収益を上げ、最も実験の激しい場所になっていく。そして工房が消えたあと、彼女たちの名前は美術史から静かに抜け落ちた。

「性別の区別はない」という建前
1919年4月、第一次世界大戦の敗北で混乱したドイツに、ヴァルター・グロピウスが新しい美術学校を開いた。バウハウスである。創立宣言の冒頭にこう書いた。「品行方正であれば、年齢や性別を問わず誰でも受け入れる」「美しい性別と強い性別のあいだに違いはない」。
1919年のドイツで、これは過激な宣言だった。ワイマール共和国は同年、女性に選挙権を与えたばかりで、女性が美術アカデミーに正規に入れる土壌はほぼなかった。グロピウスの言葉は、絵や彫刻を諦めかけていた女性たちを引き寄せた。
予算書の段階でグロピウスは「淑女50人、紳士100人」を想定していた。実際の創立初年度は、女性が学生の約半数。男性とほぼ同数だった。グロピウスはマスターズ・カウンシル(教授会)に書簡を送り、「特に女性は数で過剰に代表されているので、入学時から厳格な分離を」と要請した。
宣言と実態が乖離していくのに、時間はかからなかった。グロピウスは1920年に「女性部門(Frauenklasse)」を新設し、入学した女性たちを織物・製本・陶芸の三工房に振り分ける方針を打ち出す。男性の領域は建築、彫刻、絵画。女性の領域は布、本、土。女性は「二次元的にしか思考できないので三次元の仕事には向かない」というのが、当時のグロピウスの認識だった。
陶芸工房のマスター、ゲルハルト・マルクスは女性の入室を拒んだ。「彼女らの利益のためにも、工房のためにも」。製本工房は1922年に閉鎖された。残るは織物工房だけだった。
廃材の山から始まった工房
工房を引き継いだ女性たちには、満足な道具すら与えられなかった。後にグンタ・シュテルツルが回想している。「グロピウスは、ヴァイマールの何人かのお婆さんを紹介してくれた。私たちは彼女たちから、残り布、糸、レース、ヴェール、小さな真珠のバッグ、革、毛皮を譲ってもらいに行った」。
その工房に1919年、ミュンヘンから一人の女性がやってきた。グンタ・シュテルツル。1897年生まれ。ミュンヘン美術工芸学校で絵画・陶芸・美術史を学び、第一次大戦中は赤十字の看護師として戦線後方で従軍した経歴を持つ。彼女もまた、画家になりたかった一人だった。
織物工房に入った当初、技術指導者のヘレーネ・ベルナーは家政科教師(Handarbeitslehrerin)の資格しか持たず、本格的な織物技術を教える力がなかった。フォーム・マスターのゲオルク・ムッヘは絵画出身で、織物の現場には関心が薄い。
「私たちには、織物を発明している感覚があった」――シュテルツルの娘モニカ・シュタットラーは、2019年の独公共放送のドキュメンタリーで母の言葉をそう伝えている。「古い織物の伝統やパターンには興味がなかった」。
工房は、独学と共同実験の場になった。シュテルツルはヨハネス・イッテンの色彩理論、パウル・クレーの視覚思考、ワシリー・カンディンスキーの抽象絵画論をはじめバウハウス男性陣の理論を、織物の構造に翻訳していった。糸の配列で抽象絵画が組めるか。色面構成を布の上で展開できるか。

シュテルツルが工房を作り変える
1925年、バウハウスがヴァイマールからデッサウに移転すると、シュテルツルは織物工房の責任者になった。1927年には「Jungmeister(若手マイスター)」の正式称号を得る。
1926年に撮影されたバウハウス・マスターズの集合写真がある。ヨゼフ・アルバース、マルセル・ブロイヤー――並ぶ男たちのなかに、女性はシュテルツルひとり。バウハウス初の女性マスターだった。「マスター」の肩書きは、誰かに授けてもらう前に、彼女が自分のIDカードを書き換えて主張した称号でもあった。
彼女が指揮を執ると、工房は急速に変わった。手織りから機械織りへの橋渡しを設計し、量産可能なテキスタイルの試作にも乗り出す。マルセル・ブロイヤーが設計した鋼管椅子の張地をはじめ、家具や建築への素材供給も担当した。バウハウス展(1923年)の翌年には、工房は約900点もの織物パターンの権利を登録している。
「形態的にも技術的にも、私たちは絶え間なく発明していた」――シュテルツルはそう書き残している。
「女々しい仕事」と軽蔑されていた領域は、バウハウスで最も収益の高い部署になった。彫刻家オスカー・シュレマーが残した「ウールがあるところには、ただ時間を潰すために織る女がいる」という侮蔑的な記述は、もはや事実と合わなくなっていた。
代表作《スリット・タペストリー 赤と緑》(1927–28年、バウハウス・アルヒーフ蔵)では、経糸と緯糸が描き出す格子の上で、赤と緑の色面が大胆に対比される。横方向のスリット(切れ目)が画面を裂き、織機の構造そのものが構図の要素になっている。美術史家アニー・ボーノフはこの作品を、「タペストリーが絵画の翻訳ではなく、織物自体の可能性の探求になったとき、何になりうるかを問うている」と評した。
アンニ・アルバースとセロハンの壁
アンニ・フライシュマンは1923年、織物工房の生徒として再出発する。本来はガラス工房に入りたかったが、当時そこに在籍していた唯一の生徒、年上のヨゼフ・アルバースに席を取られていた。皮肉なことに、その二人は1925年に結婚する。工房で彼女は、抽象芸術の言語を糸に翻訳する方法を学ぶ。クレーから音楽的な構造を、シュテルツルから糸への身体的な感覚を受け取った。後に彼女は、シュテルツルのことを「織物に対するほとんど動物的な感覚を持っていた」と評している。
1929年、バウハウス第二代校長ハンネス・マイヤーが、ベルナウのADGB(ドイツ労働組合連盟)学校の講堂の壁面装飾をアルバースに委嘱した。新築の講堂は天井付近に一列の窓があるだけで、光が偏って差し込む。隣には食堂とロビーがあり、音が漏れてくる。光を反射し、かつ音を吸収する素材が必要だった。そんな素材は、当時どこにも存在しなかった。
手がかりは、イタリアで買ったセロハン製のかぎ針編みの帽子だった。解いて糸に戻し、似た繊維を作って実験を始める。試行錯誤の末、片面にシェニール(綿のパイル糸)を、反対面に綿とセロハンを織り込んだ二層構造の織物を作り上げた。シェニール面が音を吸収し、セロハン面が銀色に光を反射する。
完成した壁面装飾は約300メートル。ベルナウの講堂内に光をやわらかく散らし、隣室からの騒音を遮断した。光学機器メーカーのツァイス社が分析を行い、その反射性能を確認したという記録が残っている。アルバースはこの仕事でバウハウスの卒業証書を取得した。テキスタイルが建築の機能要素として組み込まれた、史上ほぼ最初の例である。彼女自身は後にこの仕事を「テキスタイル・エンジニアリング」と呼んだ。

工房に集ったほかの女性たち
織物工房に集まったのはシュテルツルとアルバースだけではない。
オッティ・ベルガー。1898年、オーストリア=ハンガリー帝国領のズマヤヴァツ(現クロアチア)生まれのユダヤ系。1927年元日にデッサウのバウハウスに入学した。素材実験に没頭し、工業生産向けの合成繊維にも踏み込む。バウハウスのデザイナーで唯一、自作の織物に特許を申請した人物でもある。難聴を抱えながら、後にベルリンで自分のスタジオを開いた。
リリ・ライヒ。1885年ベルリン生まれ。1932年1月、第三代校長ミース・ファン・デル・ローエに招かれて、バウハウス・デッサウの内装/仕上げ部門と織物工房の責任者になった。「マスター」の称号を得た女性はシュテルツルに次いで二人目。1929年のバルセロナ・パビリオンの内装はミースとの共同設計だが、ライヒの仕事が対等な作家性として認められたのは近年になってからである。
展覧会や見本市には、作家名を伏せて作品を出品する慣行があった。バウハウス・デッサウ財団のアーカイブには、何人かの女性織工がこれに「反抗した」という記述が残っている。「女々しい仕事」は引き受けても、匿名で消費されることは拒んだ。
1931年、扉のスワスティカ
1931年、ナチスがドイツ各地で議席を伸ばすなか、デッサウのシュテルツルの自宅の扉に鉤十字が描かれる事件が起きる。彼女は1929年にユダヤ系建築家のアリー・シャロン(後にイスラエルで国家建築家になる人物)と結婚していた。地元の右翼にとって、彼女は二重の意味で標的だった。
校長ミース・ファン・デル・ローエは、学校を守るためにシュテルツルに辞任を求めた。学生たちは抗議し、学内新聞の一号をまるごとシュテルツル擁護に充てた。だが彼女は同年、スイスに移った。
後任として一時的に工房を率いたのがオッティ・ベルガー。だが彼女もユダヤ系で、ナチスが政権を取った1933年以降、ドイツでの活動を禁じられた。1936年に自分のスタジオを閉鎖。ロンドンに逃れ、ラースロー・モホイ=ナジが招くシカゴの「ニュー・バウハウス」に渡米しようとビザを申請するが、認められなかった。1938年、病気の母を看護するため故郷に戻る。1944年4月、家族とともにアウシュビッツに移送され、同年、命を落とした。45歳だった。
アンニとヨゼフのアルバース夫妻は1933年にナチスから逃れ、ノースカロライナの実験的な学校ブラック・マウンテン・カレッジで職を得た。建築家フィリップ・ジョンソンが手を回し、彼らの渡米を実現させた。バウハウスの織物工房そのものは、1933年4月、ナチスの圧力で閉鎖された。
1949年、MoMAの孤独な勝利
1949年9月14日、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で《アンニ・アルバース・テキスタイルズ》展が始まった。会期は11月6日まで。
MoMAが個人のテキスタイル作家に個展を捧げた、史上初の事例だった。建築家フィリップ・ジョンソンが設営を担当。会場には、天井から吊り下げられた「ルーム・ディバイダー(間仕切り)」が浮かび、アルバースが「ピクトリアル・ウィービング(絵画的織物)」と呼んだ抽象織物が壁を飾った。展覧会は1950年から1953年にかけて全米とカナダの26館を巡回している。
「画廊や美術館は織物を展示しなかった。それはずっと工芸とみなされ、芸術ではなかった――紙の上に描けばそれは芸術になるのに」――アルバースは生前、そう繰り返している。
彼女は1959年に『On Designing』を、1965年には織物理論の集大成『On Weaving(織物について)』を出版する。後者は、織物を技術書ではなく、視覚言語と構造の探求として書いた一冊だった。
それでも、彼女はずっと「ヨゼフ・アルバースの妻」として紹介され続けた。亡くなる1994年まで、夫の影が消えることはなかった。シュテルツルは1983年にチューリッヒで没した。ベルガーは戦後ほぼ忘却された。
2018年、テート・モダンが始めた再評価
2018年10月11日、ロンドンのテート・モダンで《Anni Albers》展が開幕した。会期は2019年1月27日まで。バウハウス創立100周年の前年というタイミング、そして英国初の本格的な回顧展だった。
会場には350点以上の作品が並んだ。来場者を入口で迎えたのは、絵画や彫刻ではなく、アルバースの機織り機そのものだった。「絵画や彫刻の展覧会ならプロセスや道具を中央に置く必要はないかもしれない。けれどこれは織工の生涯の仕事なのだから」と、展示を見た織工エレナー・プリチャードは記録している。
「いまだに多くの美術史の教科書から名前が抜け落ちていて、ずっと夫ヨゼフと結びつけて語られてきて、その専門領域であるテキスタイルが世界の主要美術館からいまも軽視されている女性アーティストを、テートが認知する機会です」――展覧会のキュレーター、アン・コクソン(テート・モダン国際美術部門)は開幕時にそう語っている。

翌2019年のバウハウス創立100周年で、再評価は一気に加速した。同年刊行の『Bauhaus Women: A Global Perspective』は、45人の女性バウハウス会員のキャリアを掘り起こしている。2024年には、ベルリンのバウハウス・アルヒーフでオッティ・ベルガーの本格的な回顧展《Otti Berger: Weaving for Modernist Architecture》が開かれた。死から80年を経ての再発見だった。
糸はいま、どこにあるか
アルバースの織物理論は、20世紀後半のファイバー・アート運動から、現代のジェネラティブ・アートの実践者にまで影響を及ぼしている。代表作《Six Prayers》(1965–66年)はホロコースト犠牲者を悼む作品としてニューヨークのユダヤ博物館に収蔵された。彼女の最後の織物作品である。シュテルツルの《壁掛け》(1923年)は、東京国立近代美術館にある。麻と綿とウールに化繊を交ぜて手で織られた、縦2メートル36センチの一枚である。
問いはこうだ。アンニ・アルバースは「織物工房に押し込められた女性」だったのか、それとも「織物工房という制約のなかで、糸の可能性を全部使い切った革命家」だったのか。
おそらく、その両方だ。バウハウスは彼女たちに自由を約束しながら、同時に制約を課した。彼女たちはその制約のなかで、誰も予想していなかった種類の自由を発明した。グロピウスが「女性は二次元的にしか考えられない」と書いた、その二次元の領域で。
基本データ
- アンニ・アルバース(Anni Albers)
- 本名 Anneliese Elsa Frieda Fleischmann。1899年6月12日ベルリン生まれ、1994年5月10日コネチカット州オレンジ没。バウハウス織物工房に1922年入学、1930年卒業。代表作にベルナウ労働組合学校壁面装飾(1929年)、《Six Prayers》(1965–66年)、著書『On Weaving』(1965年)。1949年MoMAで個人テキスタイル作家として史上初の個展。
- グンタ・シュテルツル(Gunta Stölzl)
- 本名 Adelgunde Stölzl。1897年3月5日ミュンヘン生まれ、1983年4月22日チューリッヒ没。バウハウスに1919/20年入学。1925年デッサウ移転とともに織物工房を実質的に率い、1927年に若手マイスター(Jungmeister)の称号を取得。バウハウス初の女性マスター。代表作《スリット・タペストリー 赤と緑》(1927–28年、バウハウス・アルヒーフ蔵)。1931年政治的圧力で解任され、スイスに移住。
- オッティ・ベルガー(Otti Berger)
- 1898年10月4日ズマヤヴァツ(現クロアチア)生まれ、1944年アウシュビッツ強制収容所没。1927年バウハウス入学。シュテルツル辞任後、織物工房を一時的に率いた。バウハウスのデザイナーで唯一、自作の織物に特許を取得。1936年ユダヤ系として活動を禁じられ、1944年4月家族とともに強制収容所に移送された。
- リリ・ライヒ(Lilly Reich)
- 1885年6月16日ベルリン生まれ、1947年12月14日ベルリン没。1932年1月、ミース・ファン・デル・ローエに招かれてバウハウス内装/仕上げ部門と織物工房の責任者に。バウハウス2人目の女性マスター。バルセロナ・パビリオン(1929年)の内装をミースと共同設計。
- バウハウス織物工房
- 1919年バウハウス開校時に開設、1933年4月閉鎖。デッサウ移転後(1925年〜)に最盛期を迎え、量産可能なテキスタイルの試作と工業連携を担い、学内で最も収益性の高い工房となった。マスター在任順は ベルナー(技術)→ ムッヘ(フォーム)→ シュテルツル(1925〜31)→ ベルガー(1931–32、代行)→ ライヒ(1932–33)。
- 主要な再評価展
- 《Anni Albers》(テート・モダン、2018年10月11日〜2019年1月27日、英国初の回顧展、350点以上)。《Anni Albers: Touching Vision》(グッゲンハイム・ビルバオ、2017年・2024年)。《Otti Berger: Weaving for Modernist Architecture》(バウハウス・アルヒーフ、2024年、80周忌の本格回顧展)。
Q&A
- バウハウスは「性別を問わない」と宣言していたのに、なぜ女性は織物工房に集められたのですか?
- 創設者ヴァルター・グロピウスの個人的な認識に、「女性は二次元的にしか思考できないので三次元の仕事には向かない」という偏見が含まれていたことが大きな要因です。加えて、想定を超えて女性入学者が殺到したため、グロピウスはマスターズ・カウンシルに「女性を入学時から分離するべき」と要請しました。結果として、女性は織物・製本・陶芸の三工房に振り分けられ、製本工房は1922年に閉鎖、陶芸工房は男性マスターが女性を拒否したため、実質的に織物工房だけが女性の選択肢になりました。
- アンニ・アルバースとグンタ・シュテルツルはどのような関係だったのですか?
- 師弟関係であり、職業的な同志でもありました。アンニ・アルバースは1923年から織物工房の生徒としてシュテルツルのもとで学び、後にアシスタント、そして1929〜31年に工房の代行責任者を務めています。アルバースはシュテルツルのことを「織物に対するほとんど動物的な感覚を持っていた」と評しています。シュテルツルが1931年に辞任した後も、二人はそれぞれスイスとアメリカで作家活動を続け、シュテルツルは1965年にアルバースの古いタペストリーを再織りで複製したこともあります(《Black White Yellow》、メトロポリタン美術館蔵)。
- ベルナウのADGB労働組合学校の壁面装飾はいまも見られるのですか?
- 講堂の建物はベルナウのバウハウス記念館として現存し、2017年にユネスコ世界遺産に登録されました。ただし、アルバースが1929年に制作した約300メートルの壁面装飾の原物は、ナチス政権による接収や戦災で失われています。サンプル断片(10cm×10cm程度の小片)が、ヨゼフ&アンニ・アルバース財団、MoMA、ベルナウのバウハウス記念館、バウハウス・アルヒーフ・ベルリンなどに分散して保存されており、これらから当時の素材と構造を確認できます。
- 「ピクトリアル・ウィービング(絵画的織物)」とは何ですか?
- アンニ・アルバースが提唱した、機能を持たず壁掛けとして自立する織物作品のカテゴリーです。家具の張地やカーテンといった用途に従属する織物ではなく、絵画と同じように壁に掛けられ、視覚言語として鑑賞される作品群を指します。アルバースは、織物が建築の素材としてだけでなく、抽象芸術としても成立することを示すために、この用語を意識的に使いました。1949年のMoMA個展では、《Ancient Writing》(1936年)などの代表作が「pictorial weavings」として展示され、織物を芸術として位置づける転機になりました。
- なぜテート・モダンは2018年にアンニ・アルバース展を開いたのですか?
- 2019年のバウハウス創立100周年を翌年に控えたタイミングが大きな要因です。同時に、テート・モダンが進めていた「テキスタイルで活動した作家を再評価する」という方針の一環でもありました。キュレーターのアン・コクソンは、アルバースが美術史の教科書から名前が抜け落ちている状況、夫ヨゼフ・アルバースの影に置かれてきた歴史、そしてテキスタイルが主要美術館でいまも軽視されている現状を、開幕時に明確に問題提起しています。同展はテート史上の織物展として記録的な動員になり、その後の世界的なバウハウス女性再評価の起点になりました。
参考文献
- Anni Albers – Press Release | Tate
- https://www.tate.org.uk/press/press-releases/anni-albers
- Anni Albers | German Textile Artist & Bauhaus Designer | Britannica
- https://www.britannica.com/biography/Anni-Albers
- Gunta Stölzl | Bauhaus Kooperation
- https://bauhauskooperation.com/wissen/das-bauhaus/koepfe/biografien/biografie-detail/person-1254
- Anni Albers. Wall-Covering Material for the Bundesschule Auditorium in Bernau, Germany. 1929 | MoMA
- https://www.moma.org/collection/works/3579
- 300 metres of “silver fabric” for the auditorium | Bauhaus-Denkmal Bernau
- https://www.bauhaus-denkmal-bernau.de/en/trade-union-school/inventory/300-meters-of-silver-fabric-for-the-lecture-hall-anni-alberss-bauhaus-diploma-thesis.html
- Weaving walls: how Anni Albers challenged Bauhaus prejudice | The Art Newspaper
- https://www.theartnewspaper.com/2018/10/07/weaving-walls-how-anni-albers-challenged-bauhaus-prejudice
- Slit Tapestry Red-Green | Bauhaus Kooperation
- https://bauhauskooperation.com/knowledge/the-bauhaus/works/weaving/slit-tapestry-red-green
- Anni Albers – Weaving a discipline of resilience | The Textile Atlas
- https://www.thetextileatlas.com/craft-stories/anni-albers
コメント (0)