テムズ川に沈んだ書体|ダヴズ・タイプ、確執と100年後の復活

テムズ川に沈んだ書体|ダヴズ・タイプ、確執と100年後の復活

目次

真夜中のロンドン西部、ハマースミス橋。1916年8月のある晩、大きなベレー帽を目深にかぶった老人が、人目を避けるように欄干へ近づきました。コートのポケットには、紙に包んで紐で縛った重い包み。橋を行き交うバスや車の音が、川面に落ちる金属の水音をかき消します。

老人の名はトマス・ジェイムズ・コブデン=サンダソン、75歳。包みの中身は、彼自身がこの世に送り出した活字――生涯の最高傑作でした。それを彼は、誰の手にも渡したくない一心で、夜ごとテムズ川へ沈めていきました。

一枚のスライドが灯した火

話は28年さかのぼります。1888年11月15日、ロンドンの美術工芸展覧協会(アーツ・アンド・クラフツ・エキシビション・ソサエティ)の一室で、一人の男が幻灯機(マジック・ランタン)のスライドを映していました。エメリー・ウォーカー。彫版師であり写真製版の専門家で、人前で話すのは大の苦手という男です。スクリーンに大きく引き伸ばされていたのは、15世紀ヴェネツィアの印刷家ニコラ・ジェンソンが切った活字でした。

聴衆の中に、ウィリアム・モリスがいました。詩人であり、壁紙やテキスタイルで名を成したデザイナー。産業革命が人間から労働の喜びを奪い、機械化が大量の醜い書物を生んでいる――そう信じていたモリスにとって、引き伸ばされた古活字の凜とした姿は衝撃でした。娘のメイ・モリスは、この夜を父にとっての「ユーレカ(発見)の瞬間」と呼んでいます。

撃たれたモリスは自ら活字を起こし、1891年にケルムスコット・プレスを興します。書物を一個の工芸品として作り直す試み。のちに「私家版印刷(プライベート・プレス)運動」と呼ばれる潮流は、この一晩の講演から流れ出しました。ウォーカーは共同経営の誘いを断りながらも、紙・インク・書体設計の助言者としてケルムスコットの屋台骨を支えます。

装飾を捨てた美しさ

1896年、モリスが世を去ります。残されたウォーカーに、新しい相棒が現れました。製本家のコブデン=サンダソン。自宅近くの「ダヴ(鳩)」という名のパブにちなんで、1893年にダヴズ製本所を構えていた人物です。「アーツ・アンド・クラフツ」という言葉を世に広めたのも彼でした。1900年、二人はダヴズ・プレスを設立します。

活字は前年の1899年に発注されました。下絵を引いたのはパーシー・ティフィン、それを鋼に彫り起こしたのは名工エドワード・プリンス。手本は、やはりジェンソンのヴェネツィア体です。モリスのケルムスコットも同じジェンソンに源を発していましたが、モリスの「ゴールデン」体が中世写本めいた重厚さをまとっていたのに対し、ダヴズの活字は線が澄み、はるかに原型へ忠実だと評されました。大ぶりの大文字、ひし形の句読点、小文字の「i」のわずかに傾いた点。細部の癖が、この書体に固有の表情を与えています。

ダヴズ・プレスの本は、同時代の私家版とは見た目から違いました。挿絵がない。罫線すらない。機械を拒んで手引き印刷機で刷られたページの上に、読みやすく端正な活字だけが、歌うように立っている――復刻を手がけたロバート・グリーンは、その佇まいをそう言い表しています。数少ない装飾のひとつが、カリグラファーのエドワード・ジョンストンが描いた頭文字でした。1900年から1916年までに刊行された全40点。なかでも1905年に完結した全5巻の『ダヴズ聖書』は、英国の印刷史に残る到達点とされています。

契約書に潜んだ時限装置

蜜月は長く続きませんでした。ウォーカーは彫版業や各種委員会を掛け持ちし、印刷所に注げる時間は限られています。コブデン=サンダソンは、それを熱意の欠如と受け取り、不満を募らせていきました。1906年ごろからウォーカーは実質的に手を引き、購読者は離れ、1908年には経営が傾きます。1909年、二人は共同経営を解消しました。

問題は、その何年も前に交わした約束でした。「もし共同経営を解消するときが来たら、ウォーカーは自分用の活字一式を受け取れる」。コブデン=サンダソンはこの取り決めから逃れようとします。怒ったウォーカーは、印刷所の完全閉鎖と資産の半分を求めて法的手段に訴えました。1909年当時、ダヴズ・プレスに残された唯一の値打ちある資産が、ほかならぬあの活字でした。

見かねた友人サー・シドニー・コッカレルが仲裁に入り、妥協が成立します。コブデン=サンダソンは存命のあいだ自由に活字を使ってよい。ただし彼が死ねば、活字はウォーカーのものになる――ウォーカーが先に死ななければ。紙の上の一行が、静かに時を刻みはじめました。自分の死後、「自分の」書体が他人の手で、与り知らぬ本に組まれていく。その想像が、彼には耐えられませんでした。

テムズ川への「遺贈」

復讐は、道具から始まりました。1913年の聖金曜日、彼はまず活字を鋳造するための母型と、字面を刻んだ鋼の原型であるパンチを橋から川へ落とします。これで活字を新たに鋳直す術は断たれました。

活字本体の投棄が本格化するのは、1916年8月31日の真夜中から。日記に彼はこう書きつけています――「ちょうどふさわしい夜、ふさわしい時刻に思われた」。以後、衰える体に鞭打って、ほとんど毎晩のように橋へ通いました。12ポンドずつ紙に包んだ活字を、欄干から暗い水へ。1917年1月末までに、その回数およそ170回。沈めた金属は、ゆうに1トンを超えました。

「テムズ川に遺贈した」。1917年3月、ダヴズ・プレスの閉鎖を告げたとき、コブデン=サンダソンはそう記します。総数およそ50万個の活字が、川底の泥に消えた計算になります。彼自身は5年後の1922年に没しました。書体は永遠に失われた――誰もがそう信じます。

九十七年後、ふるいの底から

2010年ごろ、自分でも私家版印刷をやってみようと考えたロンドンのグラフィックデザイナー、ロバート・グリーンが、ダヴズの活字に魅せられました。現物は川の底。そこで彼は、かつてダヴズ・プレスが刷った本を手がかりに、文字の輪郭を一画ずつ起こし、デジタルフォントとして甦らせる作業へ取りかかります。最初の版を公開したのが2013年でした。

ところが、印刷物からの復元には限界がありました。インクのにじみ、かすれ、複雑な曲線の解読。原型に当たれない以上、どうしても推測が混じります。グリーンは納得しませんでした。マッドラーキング(テムズ川の干潟での遺物採集)の許可証を取り、コブデン=サンダソンの日記を読み込んで投棄地点を割り出し、2014年10月、干潮の干潟へ降りていきます。

二十分ほどで、活字を3個見つけました。

確信したグリーンは、ロンドン港湾局(PLA)に連絡します。グレイヴゼンドから3人の潜水士を乗せた船が到着し、川底をバケツでさらっては、台所用のふるいで選り分けました。九十分ほどして、網の上に小さな金属の文字が現れはじめます。最終的に潜水士たちが引き揚げた活字は147個。グリーンが先に拾った3個と合わせ、およそ150個が、ほぼ一世紀ぶりに陽の光を浴びました。

これを参照しながら、グリーンはフォントの精度を高めます。回収した現物に基づく改訂版が世に出たのは2015年。その後も別のマッドラークたちが活字を拾い続け、ルカシュ・オルリンスキという人物は500個以上を発見しています。2020年12月には、引き揚げられた活字の一部が、エメリー・ウォーカー財団へ寄贈されました。

書体は、誰のものか

ここに皮肉がいくつも折り重なっています。コブデン=サンダソンが活字を渡すまいとした相手、エメリー・ウォーカー。その彼こそ、1888年のあの幻灯講演で私家版印刷運動の口火を切り、ジェンソンの活字をモリスとコブデン=サンダソンの目の前に差し出した張本人でした。源流をたどれば、ダヴズの活字はウォーカーの目と知識から生まれたものでした。いま、川から戻ったその活字が、ウォーカーの名を冠した財団に収まっている。

ダヴズ・プレスの本に頭文字を寄せたエドワード・ジョンストンにも、後日談があります。彼は1916年、ちょうどコブデン=サンダソンが活字を沈めはじめた年に、フランク・ピックの依頼でロンドン地下鉄のための書体を完成させました。企業のブランド統一のために作られた書体の先駆けとされ、世界初の近代的サンセリフのひとつにも数えられるこの書体は、1980年代まで地下鉄の顔であり続けます。ちなみに1979年、これを改刻して「ニュー・ジョンストン」として現代へ橋渡ししたのは、河野英一という日本人デザイナーでした。

コブデン=サンダソンは、書体を「殺す」ために生涯の最後の数年を費やしました。母型を沈め、パンチを沈め、活字を一粒残らず沈めた。物質としての書体は、たしかに消えました。けれど、書物に刷られたインクの形まで流し去ることはできません。一冊の本が残れば、文字は読み取れる。読み取れれば、甦らせられる。グリーンが証明したのは、つまるところそういうことでした。

いまダヴズ・タイプは、世界中の何千という人々の画面とプリンタの中で生きています。橋の上の老人がもっとも恐れた未来が、皮肉にも、もっとも美しいかたちで叶ってしまった。書体は誰のものか――その問いに、テムズ川は百年がかりで、ひとつの答えを返したのかもしれません。

基本データ

書体名
ダヴズ・タイプ(Doves Type)
発注・サイズ
1899年発注/16ポイント
字母彫刻
エドワード・プリンス(下絵:パーシー・ティフィン)
原型
ニコラ・ジェンソンの15世紀ヴェネツィア体
使用印刷所
ダヴズ・プレス(1900年設立/ロンドン・ハマースミス)
共同設立者
T・J・コブデン=サンダソン(1840–1922)/エメリー・ウォーカー(1851–1933)
代表作
『ダヴズ聖書』全5巻(1905年完結)
投棄
1913年に母型・パンチ、1916年8月〜1917年1月に活字本体。ハマースミス橋より約170回、総量1トン超(約50万個)
回収
2014年、ロバート・グリーンとロンドン港湾局の潜水士が約150個を引き揚げ
デジタル復刻
2013年初版/2015年改訂版(Typespecより販売)

Q&A

ダヴズ・タイプはなぜテムズ川に捨てられたのですか?
共同経営の解消にあたり、コブデン=サンダソンの死後に活字がエメリー・ウォーカーへ渡るという取り決めがありました。「自分の」書体を他人に使われたくない一心で、彼は活字そのものを破壊し、誰も使えない状態にしてしまいました。
投げ込まれた活字はどれくらいの量だったのですか?
総数およそ50万個、重さにして1トン超とされます。12ポンドずつ紙に包み、1916年8月から1917年1月にかけて約170回、ハマースミス橋から投棄したと伝えられています。
川から見つかった活字は、どう書体の復活に役立ったのですか?
グリーンは先に印刷物からデジタル復元(2013年)を作っていましたが、精度に不満が残りました。2014年に回収した現物の金属活字を参照することで、より正確な改訂版(2015年)を仕上げることができました。
ダヴズ・タイプはいま使えるのですか?
使えます。グリーンによるデジタル復刻版がTypespecから販売され、世界中で利用されています。皮肉にも、コブデン=サンダソンがもっとも避けたかった「誰もが使える」状態になりました。
エメリー・ウォーカーとはどんな人物ですか?
彫版・写真製版の専門家です。1888年の幻灯講演でウィリアム・モリスを触発し、ケルムスコット・プレス、ひいては私家版印刷運動の火付け役となりました。ダヴズ・プレスの共同設立者でもあります。

参考文献

The lost Doves Type: A Thames mystery solved|London Museum
https://www.londonmuseum.org.uk/blog/doves-type-thames-mystery-mudlarking/
The Doves Type® revival|Typespec
https://typespec.co.uk/doves-type-revival/
Doves Press|Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Doves_Press
T. J. Cobden-Sanderson|Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/T._J._Cobden-Sanderson
The Ideal Book: William Morris and the Kelmscott Press|The William Morris Society
https://williammorrissociety.org/the-ideal-book-william-morris-and-the-kelmscott-press/
Kelmscott Press|Emery Walker’s House
https://www.emerywalker.org.uk/kelmscott-press
Remnants of a Legendary Typeface Have Been Rescued From the River Thames|Artnet
https://news.artnet.com/art-world/doves-typeface-2454807
Edward Johnston: the man behind London’s lettering|London Transport Museum
https://www.ltmuseum.co.uk/collections/stories/people/edward-johnston-man-behind-londons-lettering

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