ル・コルビュジエの軸線|パリを十字で貫こうとした男と、直線の権力

ル・コルビュジエの軸線|パリを十字で貫こうとした男と、直線の権力

目次

1925年夏、パリ。装飾芸術と現代工業の国際博覧会の一画に建てられた「エスプリ・ヌーヴォー館」を訪れた人々は、奥に置かれた巨大なジオラマの前で立ち止まった。長さ数メートルの精緻な模型——それはパリだった。ただし、誰の知るパリでもない。マレ地区もレ・アール周辺も、中世以来の路地も教会も、跡形もなく消えている。代わりに整然と並ぶのは、高さ60階の十字形のビル、18棟。タワーとタワーの間は広大な緑地。地上は歩行者、地下は自動車、と動線は完全に分離されていた。

模型の銘板にあったのは「Plan Voisin pour Paris」——パリのためのヴォワザン計画。設計者はル・コルビュジエ。スイスのジュラ山脈の時計の町から出てきてフランスに移り住んだ、当時37歳の建築家でした。彼は本気だった。本気で、セーヌ右岸の240ヘクタールを更地にして、ここに自分の都市を建てるつもりだった。

「人間はまっすぐ歩き、驢馬は曲がる」

同じ1925年に出版された『ユルバニスム』(都市計画)に、ル・コルビュジエは自分の信条を標語のように書き付けている。

「人間は目的を持って歩く。目的地が分かっているから、まっすぐ歩く。これに対して荷役の驢馬は気まぐれにジグザグに歩き、大きな石をよけ、少しの日陰を求め、抵抗の最も少ない道を行く」。そして、続けてこう書いた。「ヨーロッパ大陸のあらゆる都市は、驢馬の歩いた道で出来ている」。

これは観察ではなく、宣告でした。蛇行する街路は怠惰の遺物であり、まっすぐな道こそ理性の表現である——ル・コルビュジエは、そう信じていた。1935年の『輝く都市』では、さらに踏み込んでこう書く。「今日の都市は死につつある。なぜなら幾何学的でないからだ」。直線、グリッド、繰り返し、標準化——これらは効率の手段ではなく、それ自体が美であり倫理だった。彼にとって、まっすぐな道とは「人間が動物に勝った印」だった。

この発想は、20世紀の都市計画思想に長い影を落とすことになる。

名前は航空機メーカーから取った

ところで、なぜ「ヴォワザン」計画なのか。

ガブリエル・ヴォワザンは、1906年に世界初の民間航空機メーカーを興した航空界の先駆者で、第一次大戦後は流線型のアール・デコ調高級車を製造していた人物です。ル・コルビュジエはヴォワザンの機械的な美学に心酔していた。エスプリ・ヌーヴォー館の建設費がショートしかけたとき、彼はヴォワザンを訪ねて出資を依頼し、それを得た。返礼に、パリ再開発の模型に彼の名前を冠した。

選択は偶然ではない。ル・コルビュジエが目指していたのは、都市そのものを「機械として作る」ことだった。彼は1923年の『建築をめざして』に「住宅は住むための機械である」と書き、自動車工場の生産ラインに着想を得ていた。航空機と自動車を量産する男の名前を都市計画につけるのは、思想的にも筋が通っている。

そして、彼が描いたのは自動車中心の都市でもあった。エスプリ・ヌーヴォー館のジオラマには高速道路の高架が走り、地下にも車両動線が通っていた。歩行者と自動車を立体的に分離し、都市の中心部に直線の幹線道路を貫く——後にロサンゼルスの高速網が、そしてアジアの新都市開発が再演することになる発想は、すでにここに揃っていた。

時計の町から出てきた男

本名シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ。1887年10月6日、スイスのラ・ショー=ド=フォンに生まれた。世界中の高級腕時計のかなりの割合がいまでもこの町から出荷される、時計産業の聖地です。父親は文字盤の彫刻と七宝細工を生業とし、母親はピアノ教師だった。彼は13歳で工芸学校に入り、最初は時計の装飾を学んでいる。精密さ、規格、機械的な美への偏愛は、おそらくこの環境で形成された。

1920年、雑誌『エスプリ・ヌーヴォー』で論文を発表する際、父方の祖先の姓を変形させて「ル・コルビュジエ」と署名した。これが定着し、後にフランス国籍を取得した1930年には完全に「ル・コルビュジエ」となる。蝶ネクタイと丸眼鏡の自己演出は彼の発明であり、戦略でもあった。

その人格は複雑です。妻ヨヴォンヌ・ガリスとは長く連れ添ったが、女性関係は別の話で、有名な逸話としてはジョセフィン・ベイカーとブエノスアイレス行きの船で出会って関係を持ったエピソードが残る。一方で、自分の思想を妨げる相手には冷酷だった。

1940年にフランスがドイツに敗れ、ペタン元帥のヴィシー政権が成立すると、ル・コルビュジエは積極的にこの権威主義政権に接近している。母への手紙で、敗戦が「金、ユダヤ人、フリーメイソン、すべてを正しい法のもとに置く大掃除」をもたらすと書いたことが、後の研究で明らかになった。1941年にはアルジェの都市計画でヴィシー政府の正式な委員に任命され、1943年には優生学者アレクシス・カレルの「人間問題研究フランス財団」で技術顧問の地位に就いている。最終的に彼が大きな権限を得ることはなく、18ヵ月でヴィシーを去っているが、従兄弟ピエール・ジャンヌレがレジスタンスに参加して二人は袂を分かった。

2015年、ジャーナリストのグザヴィエ・ド・ジャルシーと建築批評家のフランソワ・シャスランがそれぞれ評伝を出版し、ル・コルビュジエのファシズム的傾向を強い言葉で告発した。ル・コルビュジエ財団はこの解釈に強く反発しており、評価は今も定まっていない。確実なのは、彼が直線で都市を整理する思想と、強い権力が降りてきて社会を整理することへの誘惑のあいだに、強い親和性を見ていたことだ。

計画は却下された。思想は残った。

パリ市当局はヴォワザン計画を即座に却下した。1913年制定の歴史的記念物保護法に真っ向から抵触するうえ、戦後の財政状況で240ヘクタールの中心市街を取り壊す予算がフランスにあるはずもない。博覧会の建設委員会はエスプリ・ヌーヴォー館を目隠しで覆い隠そうとし、美術大臣の介入でかろうじて阻止された——という逸話まで残っている。

ジオラマは博覧会終了とともに解体された。マレ地区は無事だった。

けれど、ル・コルビュジエは挫折しなかった。彼は計画の論理を1935年の『輝く都市』にまとめ直し、1933年のCIAM(近代建築国際会議)アテネ会議で都市計画の国際的な原則として流通させた。「居住、労働、休息、移動」の4機能に都市を分けて配置するという発想——「アテネ憲章」——は、戦後の都市計画教科書に染み込んでいくことになる。

幻のパリは、建てられなかったまま、別のかたちで世界に広がっていった。

インドの平原、ブラジルの荒野

1947年、英国領インドが分断され、パンジャーブ州の州都ラホールはパキスタン領となった。新州都を必要としたインド政府は、当初アメリカ人建築家アルバート・メイヤーに計画を委ねたが、共同設計者マシュー・ノヴィッキーが1950年に飛行機事故で死亡。1951年、ル・コルビュジエが招聘された。

彼が引き受けたチャンディーガル計画は、ヴォワザン計画の論理が初めて実際の土地に降りた瞬間だった。メイヤーの曲線的なファン状のプランを、ル・コルビュジエは長方形のグリッドに書き換える。800メートル×1200メートルの「セクター」を基本単位とし、行政機能(キャピトル・コンプレックス)を「頭」、商業地区(セクター17)を「心臓」、産業地区を「内臓」と人体に喩えた都市像。完全に直交する高速道路網。彼が忌避した第13番セクターは、いまも存在しない。

1956年、ブラジル大統領ジュセリーノ・クビチェックは「50年の進歩を5年で」というスローガンを掲げ、内陸の何もない高原に新首都を建設するという計画を承認した。設計コンペで勝ったのはル・コルビュジエの教え子ルシオ・コスタ。曲線美で知られる建築家オスカー・ニーマイヤーが政府庁舎群を担当した。コスタは「アテネ憲章」を全面的に採用した。

完成したブラジリアの平面図は、上空から見ると飛行機の形になっている。胴体にあたるのが幅250メートルの「モニュメンタル軸」——ギネス世界記録に登録された世界一広い道路です。両翼は曲線を描く「住居軸」で、スーパーブロック型集合住宅が等間隔に並ぶ。三権広場には議会、大統領府、最高裁判所が幾何学的に配置される。1960年4月21日、コスタがコンペで勝ってからわずか3年余りで都市は正式に首都となった。

そこに住むはずだった50万人の市民は、来なかった。

正確には、来たのは建設労働者と政府職員、そして彼らの家族で、計画が想定した中産階級ではなかった。1980年までに、ブラジリアの人口の75パーセントは、設計図にない衛星都市に住んでいた。整然とした幾何学の外側に、計画されなかった「現実の街」が広がっていった。アメリカの人類学者ジェームズ・ホルストンは1989年の研究で、この乖離をブラジリアの根源的な失敗として記述している。

1972年7月15日、午後3時32分

幾何学への信仰を最初に正面から疑ったのは、職業建築家ではなく、ニューヨークの街路を歩いていたジャーナリストだった。

ジェイン・ジェイコブズが1961年に出版した『アメリカ大都市の死と生』は、ル・コルビュジエの「公園のなかの塔(Towers in the Park)」思想を、街路の生命を殺すものとして告発した本です。彼女は具体的な街路の観察から始める。歩道を歩く人の流れ、店先のおばさんの目、子どもの遊ぶ騒音、配達員の足音。これらの雑多な「目」が街路の安全を作っている——上空からの図面では決して見えないこの密度こそが、都市を都市たらしめている。「健全な都市は、密接で複雑な多様性に依拠する」というジェイコブズの主張は、グリッドと機能分離の思想と正面から衝突した。

ジェイコブズの本が世に出てから十年あまり経った1972年3月16日、セントルイスでミノル・ヤマサキが設計したプルーイット・アイゴー公営住宅団地——ル・コルビュジエの「輝く都市」を直接の参照とした33棟の11階建て住宅——の最初の棟が爆破された。建築批評家チャールズ・ジェンクスは1977年の著書でこう書いた。「現代建築は1972年7月15日午後3時32分、セントルイスで死んだ」。

(プルーイット・アイゴーの失敗の原因は建築様式そのものより、人種差別的な住宅政策、メンテナンス予算の枯渇、経済的衰退の重なりにあった、というのが現在の修正主義的な見方だ。ただし、当時のジェンクスのインパクトのある宣告は、近代主義都市計画の権威を決定的に揺るがした)

1998年、アメリカの政治学者ジェームズ・C・スコットは『国家のように見る』で、ブラジリア、チャンディーガル、ソ連の集団農場、タンザニアのウジャマー村を並列に分析し、これらをまとめて「ハイ・モダニズム」と名付けた。共通する病理は、上から見た「読みやすさ(legibility)」への偏愛、現場の知恵(metis)への軽蔑、そして単純化された設計図への信仰だった。直線で社会を組み立てようとする発想は、ひとりの建築家の趣味ではなく、20世紀という時代の特徴的な誘惑だった——スコットの議論は、ル・コルビュジエを「建築の天才」と「20世紀的災禍の象徴」の中間に置く。

蛇行する東京と、新しい直線たち

東京は、ル・コルビュジエが何度か訪れたが、設計するチャンスのなかった都市だ。彼の弟子だった前川國男、坂倉準三、吉阪隆正が戦後日本のモダニズム建築を牽引したが、街路の構造そのものは江戸の地割をかなり保ったまま現在に至っている。蛇行する小道、突然行き止まりになる路地、迷い込んだ先で見つける小さな飲み屋——ヴォワザン計画から見れば、これらはすべて驢馬の道だ。だがそこにこそ、ジェイコブズが愛したような都市の生命が息づいている。

とはいえ、直線が完全に敗北したわけではない。1970年代以降の都市計画教科書からル・コルビュジエの図面が消えても、ハイ・モダニズムは別のかたちで生き続けている。中国の新都市開発が描く格子状のメガブロック。シリコンバレーが提案する効率最適化されたスマートシティ。アルゴリズムが推奨する最短ルート。「これが合理的だから」という言葉で多様性を整理しようとする身振りは、コンピュータの時代にも更新されながら残っている。

ル・コルビュジエは1965年8月27日、医師の制止を振り切って地中海で泳ぎ、心臓発作を起こして死んだ。77歳。直線的な生に幕を引いたのは、海という最も曲線的な存在だった。

彼が夢見た十字形のタワーは、パリには建たなかった。けれど、その思想は地図のかたちで、計画書のかたちで、いまも世界のあちこちで何かを試している。直線は本当に理性なのか、それとも力か。あるいは——直線を選んだ瞬間、私たちは何を見えなくしているのか。

基本データ

人物
ル・コルビュジエ(本名シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリ)
生没
1887年10月6日、スイス・ラ・ショー=ド=フォン生 — 1965年8月27日、フランス・ロクブリュヌ=カップ=マルタン没(享年77)
国籍
スイス出身、1930年にフランス帰化
プロジェクト名
ヴォワザン計画(Plan Voisin pour Paris)
発表年
1925年(1925年装飾芸術と現代工業の国際博覧会・エスプリ・ヌーヴォー館にて発表)
計画対象地
パリ右岸、マレ地区を中心とする約240ヘクタール
構成
60階建ての十字形(クルシフォーム)超高層ビル18棟、整然としたグリッド街路、立体的に分離された自動車・歩行者動線、広大な緑地
命名由来
計画の出資者である航空機・自動車製造業者ガブリエル・ヴォワザンに由来
主要関連著作
『建築をめざして』(1923)、『ユルバニスム/都市計画』(1925)、『輝く都市』(1935)
実現された後継計画
チャンディーガル(インド、1951年〜)、ブラジリア(ブラジル、1957年コンペ・1960年首都化、設計ルシオ・コスタ&オスカー・ニーマイヤー)

Q&A

ヴォワザン計画はなぜ実現しなかったのですか?
主に三つの理由があります。1913年に制定されていた歴史的記念物保護法と真っ向から抵触したこと、第一次大戦後の財政難で240ヘクタールの中心市街を取り壊す予算がフランスになかったこと、そしてパリ市民と市当局の強い反発です。ル・コルビュジエの母校でもある名門エコール・デ・ボザールを中心とする建築界の伝統派からも厳しい批判を受けました。博覧会の建設委員会はエスプリ・ヌーヴォー館を目隠しで覆い隠そうとしたほどです。
「ヴォワザン」とはどういう意味ですか?
計画の出資者ガブリエル・ヴォワザン(1880-1973)の名前です。彼は1906年に世界初の民間航空機メーカーを興した航空界の先駆者で、第一次大戦後は高級自動車「アヴィオン・ヴォワザン」を製造していました。エスプリ・ヌーヴォー館の建設費が底をつきかけたとき、ル・コルビュジエが出資を依頼して受け入れられ、返礼として模型に彼の名前を冠しました。自動車中心の都市を描く計画に自動車メーカーの名がついたわけで、思想的にも筋が通っています。
チャンディーガルやブラジリアは「失敗」だったのですか?
単純な失敗とは言えませんが、当初の理念と現実は大きく乖離しました。ブラジリアは1980年までに人口の75%が計画外の衛星都市に住むようになり、計画区域は中産階級の住宅地として機能した一方で、労働者階級は外部に押し出されました。両都市はそれぞれ1987年、2016年にUNESCO世界遺産に登録されており、近代建築の傑作として評価されています。一方で、上空から見た図面の美しさと、地上で実際に暮らす人々の経験の落差が、ハイ・モダニズム批判の格好の事例とされています。
ル・コルビュジエは本当にファシストだったのですか?
これは現在も議論の続いている問題です。彼が1940-42年にヴィシー政権に積極的に接近し、1943年に優生学者アレクシス・カレルの研究機関で技術顧問を務めた事実、母への手紙で反ユダヤ的な記述を残した事実は、複数の研究で裏付けられています。2015年にグザヴィエ・ド・ジャルシーとフランソワ・シャスランがそれぞれ評伝を出版し、より強い言葉で告発しましたが、ル・コルビュジエ財団はこの解釈に反発しています。「militant fascist(戦闘的ファシスト)」というラベルが妥当かは見方が分かれるところですが、権威主義的な政治体制への共感と都市計画思想の親和性は、彼自身の選択の中に確かに見出せます。
ル・コルビュジエの思想は日本にどう影響しましたか?
戦後日本のモダニズム建築は、ル・コルビュジエのもとで働いた3人の弟子——前川國男、坂倉準三、吉阪隆正——が中核を担いました。彼の唯一の日本作品は国立西洋美術館(東京・上野、1959年)で、2016年にUNESCO世界遺産に登録されています。ただし都市計画レベルでは、東京の街路は江戸の地割をかなり保っており、ヴォワザン計画的な全面的グリッド化は起きませんでした。戦後復興期に丹下健三らが大規模都市再編構想を提示しましたが、実装は限定的です。

参考文献

Plan Voisin — Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Plan_Voisin
Le Corbusier — Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Le_Corbusier
Projects > Plan Voisin, France, 1925 — Fondation Le Corbusier
https://www.fondationlecorbusier.fr/en/work-architecture/projects-plan-voisin-france-1925/
Le Corbusier’s Plan To Overhaul Paris — The Daily Beast
https://www.thedailybeast.com/le-corbusiers-plan-to-overhaul-paris/
The Death and Life of Great American Cities — Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Death_and_Life_of_Great_American_Cities
Seeing Like a State — Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Seeing_Like_a_State
LE CORBUSIER’S MASTER PLAN — Chandigarh Administration 公式
https://chandigarh.gov.in/know-chandigarh/planning-architecture/le-corbusiers-master-plan
The Le Corbusier Scandal, or, was Le Corbusier a Fascist? — Brill / Fascism Journal
https://brill.com/view/journals/fasc/6/2/article-p196_196.xml?language=en
AD Classics: Pruitt-Igoe Housing Project — ArchDaily
https://www.archdaily.com/870685/ad-classics-pruitt-igoe-housing-project-minoru-yamasaki-st-louis-usa-modernism

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