ウェス・アンダーソンの色彩設計|なぜグランド・ブダペストのピンクは記憶に残るのか

ウェス・アンダーソンの色彩設計|なぜグランド・ブダペストのピンクは記憶に残るのか

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2013年の春、ドイツとポーランドの国境にほど近いゲルリッツという小さな町で、アメリカ人のプロダクションデザイナーが百年前の百貨店の扉を開けた。1913年築のアールヌーヴォー建築、ゲルリッツァー・ヴァレンハウス。長らく営業を停止していたものの、中央吹き抜けの彫刻、装飾的な階段、エレベーターの細工は、奇跡的なほど良好に残っていた。アダム・ストックハウゼンは天井を見上げ、心の中でこう呟いたという。「完璧だ。完全に完璧だ」。

彼がここで建てようとしていたのは、ホテルだった。それも、実在しないホテル。架空の中欧国「ズブロウカ共和国」の山あいにそびえる、コットンキャンディのようなピンク色の社交場。映画『グランド・ブダペスト・ホテル』のセットだ。後に第87回アカデミー賞で美術賞を含む4部門を獲得し、製作費2500万ドルに対して世界興行1億7460万ドルを叩き出すことになるこの作品は、廃墟の百貨店から始まった。

監督の頭の中には、最初、別のピンクがあった。1930年代のホテルは、脱色された古写真のように褪せた色で撮る予定だった。だがカラリストが土壇場でそれを覆す。廃墟の百貨店で始まった撮影が、やがてSNSのフィルターにまで届く十年の間に、あの目に焼き付くコットンキャンディ色は何度も設計し直された。あの一色を辿ることは、そのまま色彩設計という仕事の内実を辿ることでもある。

テキサスからウィーンへ

ウェス・アンダーソンは1969年、テキサス州ヒューストンに生まれた。広告業の父と、不動産業を営みながら考古学を学んだ母のもとで育ち、両親は彼が8歳のときに離婚している。テキサス大学オースティン校でオーウェン・ウィルソンと出会い、ふたりで書いた脚本がデビュー作『アンソニーのハッピー・モーテル』(1996年)になった。最新作『フェニキアン・スキーム』(2025年)まで、長編監督作は12本を数える。

彼の映画には、ある共通点がある。色が、ほとんど登場人物のように振る舞う。『ムーンライズ・キングダム』のくすんだ黄土とオリーブ。『フレンチ・ディスパッチ』の沈んだ青と黄。そして『グランド・ブダペスト・ホテル』のあのピンク。無作為に並べた色ではない。撮影前に決められた数色を、衣装、壁紙、小道具、照明、最後にカラーグレーディングまで、すべての工程に通底させる方式である。

映画教育サイトNo Film Schoolの分析によると、『グランド・ブダペスト・ホテル』では60%のピンクと30%の深紅、そして10%の金または白という比率が基調になっているという。建築家やインテリアデザイナーが使う「60-30-10ルール」の応用だ。ひとつの画面に色が三つ以上踊らない。だから飽和した色を大胆に使っても、画面が騒がしくならない。

三つの時代を、三つの色で

『グランド・ブダペスト・ホテル』は、四重の入れ子構造で語られる。1985年から1968年へ、1968年から1932年へと時間を遡る。アンダーソンと撮影監督ロバート・ヨーマンは、時代ごとに画面のアスペクト比そのものを変えた。1930年代パートはほぼ正方形に近い古い規格(アカデミー比1.37:1)、1960年代は横に細長いワイド画面(シネマスコープ2.35:1)、現代パートは現行の映画サイズ(1.85:1)。色についても、別々のパレットが割り当てられた。

1930年代は淡いピンクと深い赤と紫。最も華やかで、最も儚い。1960年代は緑とオレンジの暖色寄り、ただし褪せた印象。冷戦下の東欧で、かつてのホテルが安宿に身を落とした時代の色。現代パートはずっと中性的に、ほぼ無色に近づく。同じ建物の同じロビーが、時代によって別人のように見える。

参考にしたのは、チェコ西部のカルロヴィ・ヴァリにある実在の温泉ホテル、グランドホテル・プップ。ストックハウゼンはチームを率いてチェコと東ドイツを巡り、淡いタンジェリン、ピスタチオ、黄土色に塗られた中欧の建物の列をフィールドリサーチした。さらに米国議会図書館のフォトクロム絵葉書コレクション——1900年前後にモノクロ写真に手作業で色を載せた印刷物——を片端から参照している。「すべてはリサーチから始まります。情報のパレットを構築するんです」と、ストックハウゼンはVice誌に語った。

14フィートのミニチュアと、煤の中の砂糖菓子

ホテルの外観は、実物ではない。14フィート×7フィート(約4.3×2.1メートル)の精密なミニチュアモデルと、書き割りの風景画の合成で作られた。実在の建物を撮るのではなく、模型と絵を組み合わせる手法は、デジタル合成全盛の時代にはむしろ古典的に映る。アンダーソンは初期作品から、視覚効果よりも工芸品的な手仕事を好んできた。

内部はゲルリッツァー・ヴァレンハウスの吹き抜けに、二つのセットを組んだ。1930年代の華やかなロビーと、1960年代の寂れたロビー。同じ空間で、別の時代を撮るためだ。劇中の老舗パティスリー「メンドルズ」が登場する場面で、ストックハウゼンは煤で覆われた空間にピンク、緑、黄色のフロスティングが見えた瞬間の手応えを後年語っている。汚れと甘さの対比は、戦間期のヨーロッパそのものを画面に持ち込む装置として機能した。

原作はない。原案は、オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイク(1881-1942)の小説と回想録に発想を得ている。ウィーンに生まれ、両大戦間期に最も翻訳された作家のひとりとなり、ナチスの台頭で亡命を重ね、1942年にブラジルで自殺したユダヤ系の文人。彼の自伝『昨日の世界』に描かれる、戦争で消滅したコスモポリタンなヨーロッパが、ホテルというひとつの建物に凝縮されている。

「脱色しよう」、そして撤回した判断

撮影が終わった後の話だ。カラリストのジル・ボグダノヴィッチが呼ばれ、ロサンゼルスのTechnicolorで作業を始めた。デジタル時代のカラリストは、撮影された全フレームの色を一枚ずつ調整する役割を担う。アンダーソンの当初の指示は明快だった。1930年代のシーンは、いかにも「古い時代風」に脱色気味で、褪せた印象にしたい。

試した。うまくいかなかった。

「もし自分が30年代に身を置いたなら、すべてが褪せて見えるわけがないでしょう」——ボグダノヴィッチは塗料メーカー、シャーウィン・ウィリアムズとの対談でそう振り返っている。古い時代を再現することと、古い時代の人々が当時見ていた色を再現することは、別の作業だ。彼女は方針転換を提案した。手持ちのものでやりましょう。色を祝いましょう、と。

ピンクが押し出された。紫のスーツが押し出された。赤じゅうたんが押し出された。アンダーソンが当初思い描いていたノスタルジックな脱色は捨てられ、ハイパーリアルな色彩へと舵が切られた。完成した画面のピンクは、戦間期の現実ではなく、戦間期に対する憧憬の色になった。色は物語を語る。色が観客を物語から引き離してしまえば、自分の仕事は果たせていない——それがカラリストの信条だった。

アカデミー賞と、「美学が物語を覆っている」という声

2015年2月、第87回アカデミー賞で『グランド・ブダペスト・ホテル』は美術賞、衣装デザイン賞、メイクアップ&ヘアスタイリング賞、作曲賞の4部門を獲得した。ストックハウゼンが手にしたのは美術賞である。後にこの作品はアメリカ議会図書館のナショナル・フィルム・レジストリーにも登録された。

批判が皆無だったわけではない。「アンダーソンの完璧主義的な視覚設計は、登場人物の感情を覆い隠している」「中身よりもキッチュな表面の方が雄弁になっている」という指摘は、当時から繰り返されてきた。実際、彼の作品では喪失、家族の崩壊、孤独といった重い主題が、ショーケースに飾られた砂糖菓子のような色で包まれている。映画教育サイトStudio Binderはこれを「明るい色と暗い主題のミスマッチ」と表現した。

アンダーソンを擁護する側は、そのギャップこそが彼の作家性であると答えてきた。装飾的な画面と陰鬱な物語の温度差そのものが、彼の作品で起きていることなのだと。批判する側は、ギャップではなくキッチュな装飾過多だと指摘した。どちらの議論にも、ピンクという色が中心にあった。

偶然のウェス・アンダーソン

2017年6月、ニューヨーク在住のウォーリーとアマンダ・コヴァル夫妻が、ささやかな趣味としてインスタグラムのアカウントを始めた。世界中で見つけた、左右対称で、パステル色で、まるでアンダーソンの映画から抜け出してきたような実在の建物の写真を集めるという企画。名前は「Accidentally Wes Anderson」、偶然のウェス・アンダーソンである。

ニュージーランドの小さな図書館、カナダ沿岸の灯台、プラハの古いホテル、東京駅の警備員——ユーザーから世界中の建物が短い歴史解説とともに投稿されはじめた。フォロワーは2023年時点で180万人を超え、2020年には書籍化された。書籍にはアンダーソン本人が序文を寄せている。2022年にはウェビー賞を二つ獲得した。実在の建物がアンダーソンの映画から「漏れ出てきた」ように見える、という奇妙な発見が、世界規模の写真投稿コミュニティを生んだ。

26億回再生、そしてAIが作ったスター・ウォーズ

2023年4月、TikTokで「#WesAndersonTrend」が爆発的に拡散した。朝のコーヒーを淹れる、電車に乗る、子どもが生まれる——ありふれた日常を、対称構図と固定カメラとパステルカラーで撮る短い動画。TikTok公式の集計では年間累計再生数26億回。同年の「Year on TikTok」でトップトレンドのひとつに選ばれた。

同じ頃、生成AIで作られた「もしウェス・アンダーソンが撮ったら」という偽予告編が次々に公開された。スター・ウォーズ版、ロード・オブ・ザ・リング版、デューン版、ハリー・ポッター版。どれもSNSで数百万回再生され、AIアートの是非をめぐる議論を引き起こした。

当のアンダーソン本人の反応は、冷ややかだった。「友人にあれを送られたら、すぐに消すように頼んでいます。『これが自分のやっていることなのか、自分が言いたいことなのか』と考え始めたくないので」——タイムズ紙の取材にそう答えている。「Accidentally Wes Anderson」を運営するコヴァル夫妻もVariety誌に懸念を述べた。アンダーソンという作り手を、その美学だけに矮小化してほしくない、と。

飛び込みたくなる、ということ

『グランド・ブダペスト・ホテル』のピンクは、廃墟になった百貨店、消滅した中欧の文化、亡命中に自ら命を絶ったツヴァイクという作家——失われたものへの追悼の上に塗られている。ピンクは華やかさの色であると同時に、必ず終わるものの色だ。1930年代の戦間期のホテルは、まもなくナチスの灰色に塗り潰される運命にある。物語の中で、観客は最初からそれを知っている。

観客があの画面に飛び込みたくなるのは、画面の中だけが整っているからではない。整いの裏側に、何かが終わってしまったという感覚があるからだ。AIで生成されたパステル画像が「アンダーソン風」になり切れないのは、おそらくこの部分——終わりの匂いと、それでも色を祝おうとする意志——を、トレンドフィルターでは複製できないからだろう。

ピンクは選ばれた色ではなく、決断された色である。脱色しようとして撤回された色、廃墟の中に建てられた色、終わりに先立って祝われた色。色彩設計とは、最終的にそのレベルでの判断の連続だった。

Q&A

『グランド・ブダペスト・ホテル』のピンクには、具体的な参照モデルがあるのですか?
チェコ西部の温泉地カルロヴィ・ヴァリにある実在の高級ホテル、グランドホテル・プップが主要な参照源です。プロダクションデザイナーのアダム・ストックハウゼンは中欧をフィールドリサーチし、淡いタンジェリン、ピスタチオ、黄土色に塗られた建物の連なりに着想を得たと語っています。さらに米国議会図書館のフォトクロム絵葉書コレクションも参照されました。
ホテルの外観は、実際の建物ではないのですか?
外観のロングショットは、14フィート×7フィート(約4.3×2.1メートル)の精密なミニチュアモデルと書き割りの風景画の合成で撮影されました。内部のロビーやレストランは、ドイツ・ゲルリッツにある1913年築の旧百貨店ゲルリッツァー・ヴァレンハウスの吹き抜けにセットを組んで撮影されています。
アンダーソンは色を最初から決めているのですか、それとも撮影中に変わりますか?
撮影前に決められたパレットを、衣装・美術・小道具・照明・カラーグレーディングのすべてに通底させるプリプロダクション主導の方式です。ただし最終工程のカラーグレーディングで方針が変わることもあります。本作のカラリスト、ジル・ボグダノヴィッチは1930年代パートを当初の指示通り脱色気味に試したものの、うまくいかず、「色を祝う」方針に転換したと証言しています。
「Accidentally Wes Anderson」とは何ですか?
2017年6月にニューヨークのウォーリーとアマンダ・コヴァル夫妻が始めたインスタグラムのキュレーションアカウントです。アンダーソンの映画に出てきそうな、左右対称・パステル色の実在建築を世界中から集めて投稿しています。2020年に書籍化され、アンダーソン本人が序文を寄せました。2022年にウェビー賞を獲得しています。
アンダーソンは2023年のTikTokトレンドをどう受け止めましたか?
否定的でした。タイムズ紙の取材に対し、友人から送られても即座に消去するよう頼んでいると答え、「これが自分のやっていることなのか、自分が言いたいことなのかと考え始めたくない」と語っています。

参考文献

Lights, Camera, Color with Wes Anderson’s Colorist(Sherwin-Williams STIR)
https://www.sherwin-williams.com/architects-specifiers-designers/inspiration/stir/SW-ART-STIR-WES-ANDERSON
We Talked to ‘The Grand Budapest Hotel’ Production Designer About Pastries, Postcards, and Taxidermy(VICE)
https://www.vice.com/en/article/the-grand-budapest-hotel-production-designer/
Behind the Scenes: Grand Budapest Hotel(Dwell)
https://www.dwell.com/article/behind-the-scenes-grand-budapest-hotel-65ab4652
How Wes Anderson Uses the “3 Color Rule” to Master the Palate(No Film School)
https://nofilmschool.com/wes-anderson-color-palatte
Accidentally Wes Anderson Creator on Asteroid City, Wes Anderson Trend(Variety)
https://variety.com/2023/film/features/accidentally-wes-anderson-wally-koval-aesthetic-memes-trend-1235647142/
Wes Anderson is not a fan of his viral TikTok trend(NME)
https://www.nme.com/news/film/wes-anderson-is-not-a-fan-of-his-viral-tiktok-trend-3454631
The Rise And Fall Of Stefan Zweig, Who Inspired ‘Grand Budapest Hotel'(NPR)
https://www.npr.org/2014/04/02/298340082/the-rise-and-fall-of-stefan-zweig-who-inspired-grand-budapest-hotel
The Grand Budapest Hotel(Wikipedia)
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Grand_Budapest_Hotel

基本データ

監督
ウェス・アンダーソン(Wesley Wales Anderson, 1969年5月1日生まれ、テキサス州ヒューストン出身)
主要参照作品
『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014年、米独合作、100分、コメディドラマ)
製作費 / 興行収入
製作費2500万ドル / 世界興行1億7460万ドル
プロダクションデザイナー
アダム・ストックハウゼン(Adam Stockhausen)。本作で第87回アカデミー賞 美術賞を受賞
撮影監督
ロバート・ヨーマン(Robert Yeoman)
カラリスト
ジル・ボグダノヴィッチ(Jill Bogdanowicz)
主要ロケーション
ゲルリッツァー・ヴァレンハウス(1913年築、ドイツ・ザクセン州ゲルリッツの旧アールヌーヴォー百貨店)
主な参照源
シュテファン・ツヴァイク(オーストリアの作家、1881-1942)、グランドホテル・プップ(チェコ・カルロヴィ・ヴァリ)、米国議会図書館所蔵のフォトクロム絵葉書
関連現象
Accidentally Wes Anderson(2017年6月開設、創設者ウォーリー&アマンダ・コヴァル夫妻、2022年ウェビー賞受賞) / TikTok #WesAndersonTrend(2023年4月拡散、年間累計26億回再生)

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