「ナパーム弾の少女」――1972年の一枚をめぐる半世紀の検閲と論争

「ナパーム弾の少女」――1972年の一枚をめぐる半世紀の検閲と論争

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1972年6月8日の夕方、サイゴンに置かれたAP通信ベトナム支局のフォトデスクには、まだ湿ったままの白黒プリントが回されていた。煙の立ちこめる国道1号線を、衣服をすべて剥ぎ取られた9歳の少女が、口を開けて走ってくる。後方には南ベトナム軍の兵士が、何事もなかったような表情で続いている。

ネガを焼いた現像係は、配信前にもう一つの壁にぶつかった。前景の少女が全裸である。AP通信の社内規定は、児童の正面ヌードを配信ラインに乗せない、というものだった。ボツの可能性が真剣に検討された、と複数の社内証言が後に明かしている。

決定を下したのは、写真部長のホルスト・ファース。すでに自身もピューリッツァー賞を二度受賞しているベテランだった。彼はこの一枚に限って規定を例外とし、トリミングも修正もせずに配信するよう指示した。

翌朝6月9日、ニューヨーク・タイムズ朝刊一面に、その写真は載った。見出しは “South Vietnamese Drop Napalm on Own Troops”――誤爆だったことは、見出しに正確に書かれていた。

1972年6月に焼かれたこの一枚は、翌朝の一面から独立して、独自の生涯を歩みだす。反戦運動のシンボル、教科書の写真、2016年からはFacebookの検閲対象、そして2025年からは「そもそも誰が撮ったのか」を問われる係争作品。同じ一枚が、半世紀のあいだに何度も名前を付け替えられてきた。

21歳の暗室上がりのカメラマン

撮影者として記録されたのは、21歳のフィン・コン・ウト――アメリカで通用する芸名で「ニック・ウト」。1965年、APのカメラマンとして戦地に従軍していた兄を失う。享年27。その翌年、まだ15歳だった本人が暗室助手としてAP通信に雇われた。兄の遺志を継いだ、というのは本人の言葉でもある。

事件当日、彼は国道1号線沿いのチャンバン村近くで取材していた。村は北ベトナム軍に占拠されているとの誤情報が入り、南ベトナム空軍A-1スカイレイダー機がナパーム弾を投下した。実際に村にいたのは、寺院に避難していた一般住民と、9歳のファン・ティ・キム・フックを含む子どもたちだった。

ウトはシャッターを切ったあと、カメラを一度置いた。少女に水筒の水を浴びせ、自身のバンに乗せて、最寄りの病院まで運んだ。第三度熱傷が体表の30パーセントに及んでいた少女は、後にアメリカ軍の医療施設へ転院し、14ヶ月の入院を経て生き延びた。

翌1973年、写真はピューリッツァー賞スポットニュース部門、そしてワールドプレスフォト・オブ・ザ・イヤーを受賞する。正式タイトルは “The Terror of War”――戦争の恐怖。だがニュースルームでは早くから別名で呼ばれていた。Napalm Girl。

「写真が戦争を終わらせた」という神話

その後の半世紀、この一枚に関してひとつの言説が育っていく――この写真がベトナム戦争に対する米国世論を反転させた、この一枚が戦争を終わらせた、というものだ。

歴史的事実は、この言説をきれいに支持しない。ギャラップ社が継続的に実施していた世論調査で、「ベトナムに兵を送ったのは間違いだったか」に肯定的に答える割合は、1967年7月の時点ですでに反対派の比率を上回っていた。1971年初めには60パーセント近くが「間違いだった」と答えている。写真が一面を飾った1972年6月、米軍主力部隊はすでにベトナムから撤退途上だった。戦争が終結するのは、それから3年後の1975年4月、サイゴン陥落のときである。

メディア研究者のW・ジョセフ・キャンベルは、「ナパーム弾の少女が世論を変えた」という言説を「a single image myth」――一枚の画像神話――と呼んだ。写真は、すでに変わっていた世論の輪郭を、一枚に圧縮して可視化するシンボルになった。世論を作ったわけではない。象徴になった。この区別は、地味だが重要だ。写真の力を過大評価することは、戦争を終わらせるべきだった他の力――継続した抗議運動、議会内の反対派、すり減った兵士の士気――を視界の外に追いやる。

写真の中の少女、その後の人生

写真の中心にいた9歳の少女、ファン・ティ・キム・フックは、14ヶ月の入院を終えたあとも、首・背中・腕にケロイドを残した。1980年代にハバナで医学を学び、ベトナム政府が彼女を「戦争の生き証人」として観光客向けに繰り返し登場させ続けたことに耐え兼ね、1992年に夫とともにカナダへ亡命する。

彼女はその後の30年間を、UNESCO平和文化親善大使として、また自身が設立したKim Foundation Internationalを通じて、戦争被害を受けた子どもたちの支援に費やした。2017年に出版した回想録 “Fire Road” は10言語に翻訳されている。

写真と彼女のあいだの距離は、長かった。「ずっとあの写真が嫌いだった」と、本人は2025年9月、ランドルフ大学での講演で語った。「身体的にも精神的にもすべてを失った気がしていた。消えてしまいたかった」。転機は1990年代初頭、トロントで第一子を腕に抱いたときだという。「自分の腕の中の子を見て、心の深いところで何かが変わった。あの写真を、ひとつの贈り物として受け取り直そうと決めた」。

彼女は今もウトを「ウトおじさん」と呼ぶ。

2016年9月、Facebookが「児童ヌード」と判定した日

写真の運命に、もう一つの段がついたのは2016年9月だった。ノルウェーのスリラー作家トム・エーゲランが、「戦争を変えた7枚の写真」というFacebook投稿の中に “The Terror of War” を含めた。Facebookはこれを「児童ヌードに関するコミュニティ規定違反」として削除。エーゲランのアカウントを停止した。

ノルウェー最大の日刊紙アフテンポステンが事件を報じると、紙面のFacebook投稿そのものが削除された。9月8日、編集長エスペン・エギル・ハンセンは紙の一面全体を使って、Facebook創業者マーク・ザッカーバーグへの公開書簡を掲載する。見出しは “Dear Mark Zuckerberg”。書簡はこう告発した。Facebookは「世界で最も強力な編集者」になっており、共通の歴史そのものを編集している、と。

ノルウェーのエルナ・ソルベルグ首相も自身のFacebookページに同写真を投稿、これも削除された。事態は外交的衝突に近づいた。

48時間以内に、Facebookは方針を撤回する。声明はこう述べた――「歴史的に重要なアイコン画像であることを考慮すると、共有を許可する価値が、コミュニティ保護の価値を上回る」。謝罪ではなく、例外措置の通知である。

この事件が露出させたのは、二つの構造だった。一つ目――プラットフォームのコンテンツ規定は、被写体の文脈(歴史的・報道的・芸術的価値)を判定する能力を持たない。アルゴリズムが見るのは画像のピクセル配置だけで、「これは1972年の戦争の記録である」とは読めない。二つ目――何が見えるかを決める権限が、もはやAP通信や新聞編集者ではなく、メンロパークに本社を置く一企業の手に移っている。アフテンポステンの一面は、この権限移行への異議申し立てだった。

2025年、そもそも誰が撮ったのかが問われる

2025年1月25日、サンダンス映画祭で一本のドキュメンタリーが上映された。タイトルは “The Stringer”――契約フリーランス記者を意味する業界用語だ。監督はバオ・グエン、製作は元戦争カメラマンのギャリー・ナイトが率いるVIIファウンデーション。上映日程は土壇場で追加されたという。

映画の主張は衝撃的だった。”The Terror of War” を撮ったのはニック・ウトではない。NBC契約のドライバーで、フリーランス・カメラマンも兼ねていたグエン・タイン・ゲーが本当の撮影者である、と。ゲーはその日、現像していないネガをAP通信に持ち込み、翌日プリント一枚と20ドルの現金、新しいフィルム二本を受け取って帰った。クレジットがどう処理されたかは、その時点では知らなかった――それが映画の主張である。当時のAP写真エディターだったカール・ロビンソンが、上司から「ニック・ウトの名前に書き換えろ」と指示されたと証言したことが、調査の発端となった。

製作チームはフランスの独立調査NGO Indexに分析を委託した。現場で同日撮影された数十枚の写真と動画を3Dモデルで再構成し、各カメラマンの立ち位置を再現する作業である。出てきた結論は、ウトが立っていたとされる位置からあの構図のショットを撮れた可能性は極めて低い、というものだった。さらにAP通信が同年5月に公表した報告書でも、ネガの分析から「使われたカメラはペンタックスである可能性が高い」と結論づけられた。ウトが半世紀にわたって主張してきた撮影機材は、ライカM2である。

AP通信は2025年5月、長文の社内調査報告書を公表した。結論はこうだ。「ウトが撮影した可能性はある。だが、ウトが撮らなかったことを決定的に示す証拠もない。AP通信の基準では、撮影者表記を外すのは、その人物が撮らなかったことが決定的に証明された場合のみ。よって表記は維持する」。撤回ではなく、条件付きの維持である。

ワールドプレスフォトの判断はもう一段踏み込んだ。同年5月、同団体は1973年受賞時のクレジットを「保留」――suspend――した。「視覚的・技術的証拠は、別の撮影者(グエン・タイン・ゲー、もしくは現場にいたフィン・コン・フックの可能性を含めて)を示唆している」と発表した。

ウト本人は怒りを表明している。2025年初頭の声明で「半世紀後にこんな主張を受けるのは、平手打ちのようだ」と書き、法的措置を予告した。AP通信のフィルム照合システムは「fail-proof(間違いようがない)」だったとも主張した。一方、キム・フック自身は短い声明を出して、こう述べている――「ニックがあの写真を撮った。彼はその栄誉に値する」。

2026年5月現在、決着はついていない。”The Stringer” は2025年中にNetflixで全世界配信が始まった。AP通信のクレジット表記はそのまま。ワールドプレスフォトのクレジットは保留のまま。

一枚の写真は何度でも書き換わる

写真の中央には9歳のキム・フックがいるが、彼女のうしろを走っていたのは家族と従兄弟たちだった。左から、片目を失った弟のファン・タイン・タム、最年少の弟のファン・タイン・フォック、キム本人、そして従兄弟のホー・ヴァン・ボンとホー・ティ・ティン。視線がキムに集中することで、残る4人の名前は時間のなかで小さくなっていった。

写真が写したのは、子どもたちが国道を走る一瞬だった。だが写真が記録しつづけているのは、その後の半世紀、私たちが画像をどう扱ってきたか、誰の権限で見せたり消したりしてきたか、誰の名前を表紙に書いてきたか、という別の歴史でもある。

あの日、国道1号線にカメラを構えていたのは、一人ではなかった。少なくとも十数人のカメラマンとジャーナリストが、煙の中に立っていた。誰のシャッターが、後世にこれほど重い意味を負わされることになるか――その時点では誰も知らなかった。

Q&A

“The Terror of War” は本当に「ベトナム戦争を終わらせた一枚」なのですか?
結論から言えば、その言説は実証的に支持されていません。米国の対ベトナム戦争世論は、写真が公開された1972年6月よりはるか前――1967年7月の段階で――すでに反戦に傾いていました。Gallup調査では1971年初頭に60%近くが「派兵は誤りだった」と回答しています。写真は世論を変えた原因というより、すでに変化していた世論を一枚に圧縮して可視化するシンボルになった、というのが現在の歴史学的合意です。
ナパーム弾はアメリカ軍が落としたのですか?
違います。投下したのは南ベトナム空軍のA-1スカイレイダー機で、地上の南ベトナム軍と一般住民を北ベトナム軍と誤認した誤爆でした。事件直後のニューヨーク・タイムズ一面見出しも “South Vietnamese Drop Napalm on Own Troops”(南ベトナム、自軍にナパームを投下)と正確に伝えています。「米軍がやった」という誤解は、1972年大統領選で民主党候補ジョージ・マクガバンが演説でこの写真に言及した時期から広がりました。
2016年のFacebook削除事件は結局どう決着したのですか?
削除の発端から約48時間後、Facebookは方針を撤回し、写真の投稿を許可しました。声明は「歴史的に重要なアイコン画像であることを考慮すると、共有を許可する価値が、コミュニティ保護の価値を上回る」というもので、謝罪ではなく例外措置の通知でした。この事件は、プラットフォーム企業が文脈(歴史的・報道的価値)を判定する能力の限界を露出させ、編集権限がメディア企業からプラットフォームに移行した状況への問題提起となりました。
2025年の “The Stringer” 論争で、結局のところ撮影者は誰だと結論されたのですか?
2026年5月時点で、決着はついていません。AP通信は2025年5月の社内調査報告書で「ウトが撮らなかったことを決定的に示す証拠はない」として表記を維持しました。一方、ワールドプレスフォトは同月、1973年受賞時のクレジットを「保留(suspended)」状態にしました。ニック・ウト本人は法的措置を予告、キム・フックはウトを擁護する声明を出しています。Indexの3D再構成分析やネガのカメラ機種鑑定など新しい証拠が出ていますが、半世紀前の出来事ゆえ、関係者の多くが亡くなっており、AP通信の言葉を借りれば「私たちが答えを出せない問いが残る」状況です。
ファン・ティ・キム・フックは今、何をしているのですか?
1992年に夫とともにカナダへ亡命して以降、UNESCO平和文化親善大使を30年以上務め、自身が設立したKim Foundation Internationalを通じて戦争被害を受けた子どもたちの支援を続けています。2017年に回想録 “Fire Road” を出版(10言語に翻訳)、2025年にはランドルフ大学からパール・S・バック賞を受賞しました。「ウトおじさん」と呼ぶニック・ウトとは、現在も友人として交流が続いています。

基本データ

作品タイトル
The Terror of War(戦争の恐怖) / 通称 “Napalm Girl”
撮影日
1972年6月8日
撮影場所
南ベトナム、テイニン省チャンバン村近郊、国道1号線
クレジット撮影者
Nick Ut(フィン・コン・ウト / Huỳnh Công Út、1951年3月29日生、当時21歳、AP通信スタッフ)
使用カメラ
ライカM2(ウト本人の主張) / ペンタックスである可能性が高いとの2025年AP独立鑑定もある
フィルム
コダック Tri-X 400(現地で入手可能だった400と200のうち400を使用)
被写体中央
ファン・ティ・キム・フック(Phan Thi Kim Phuc、1963年4月2日生、当時9歳)
初出
1972年6月9日、The New York Times 朝刊一面ほか各紙
受賞
1973年 ピューリッツァー賞 スポットニュース写真部門 / 1973年 ワールドプレスフォト・オブ・ザ・イヤー(2025年5月、World Press Photoが撮影者クレジットを保留)
主な事件
2016年9月 Facebookによる「児童ヌード」判定削除と方針撤回 / 2025年1月 ドキュメンタリー “The Stringer” サンダンス上映、撮影者を巡る論争

参考文献

World Press Photo – 1973 Photo Contest, Statement on investigations regarding authorship
https://worldpressphoto.org/gallery/themes/36311/6
‘Napalm Girl’: World Press Photo ‘suspends’ attribution for iconic Vietnam War image (CNN, 2025年5月20日)
https://www.cnn.com/2025/05/19/style/napalm-girl-world-press-photo-nick-ut-hnk-intl
After Lengthy Investigation, the AP Will Not Change Nick Ut’s Credit on ‘Napalm Girl’ Photo (PetaPixel, 2025年5月6日)
https://petapixel.com/2025/05/06/after-lengthy-investigation-the-ap-will-not-change-nick-uts-credit-on-napalm-girl-photo/
Facebook backs down from ‘Napalm Girl’ censorship (France24, 2016年9月10日)
https://www.france24.com/en/20160910-facebook-backs-down-censorship-napalm-girl-photo
50 years after ‘Napalm Girl,’ myths distort the reality behind a horrific photo of the Vietnam War (The Conversation)
https://theconversation.com/50-years-after-napalm-girl-myths-distort-the-reality-behind-a-horrific-photo-of-the-vietnam-war-and-exaggerate-its-impact-183291
Love Over War: Kim Phuc Phan Thi shares how compassion can overcome even the deepest scars (Randolph College, 2025年秋)
https://www.randolphcollege.edu/news/2025/11/love-over-war-kim-phuc-phan-thi-shares-how-compassion-can-overcome-even-the-deepest-scars/
The Terror of War (Wikipedia)
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Terror_of_War

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