リシツキー『赤い楔で白を打て』|色の対比がプロパガンダになった日

リシツキー『赤い楔で白を打て』|色の対比がプロパガンダになった日

目次

「モスクワで1918年、世界を二つに切り裂く短絡が、私の眼の前で閃いた」――エル・リシツキーは1920年代にそう書き残している。「この一撃が、現在と呼ばれる時間を、昨日と明日のあいだに楔のように打ち込んだ。今の私の仕事は、その楔をさらに深く打ち込むことだ」。

29歳になったばかりのこのユダヤ系の若い建築家が、内戦下のヴィテプスク――現在のベラルーシ北東部の古都――の版画工房で見ていたのは、一枚の試し刷りだった。赤い三角形が、白い円を斜めに突き刺している。背景は黒。文字はキリル文字で「Клином красным бей белых!」――「赤い楔で白を打て!」。

紙の払底した内戦下、刷られたポスターの多くは農村の暖炉に消えた。現存するのは数十枚。それでも三色は生き延びた――リシツキーの信じた思想からは切り離されたかたちで。楔を振り下ろす手が誰のものであれ、赤と黒と白は同じように効く。プロパガンダの旗にも、救護所の紋章にも、清涼飲料水の看板にも。

ヴィテプスクの教室で

ロシア帝国スモレンスク県の小さな町ポチノクに生まれたラザール・マルコヴィチ・リシツキーは、15歳から絵を教え始めている。サンクトペテルブルクの帝国芸術アカデミーに出願したものの、ユダヤ人だという理由で入学を断られ、ドイツのダルムシュタット工科大学に渡って建築を学んだ。1914年に帰国した彼の最初の仕事は、イディッシュ語の子ども向け絵本の挿絵だった。キエフの「文化連盟」でユダヤ文化の振興に携わるなかで、彼の絵には民俗的な記号と幾何学的な構成が同居するようになる。

1919年5月、ヴィテプスク民衆美術学校の校長を務めていたマルク・シャガールが、彼を建築と版画の講師に招いた。同年9月、もう一人の講師が赴任してくる。カジミール・マレーヴィチ。1915年に『黒の正方形』を発表し、対象を完全に消し去った絵画――シュプレマティスム――を提唱していた男だった。

マレーヴィチの抽象は、地上の意味を一切持たない。三角形は三角形であり、それ以上ではない。リシツキーはここで決定的な飛躍を行う。意味を持たないはずの幾何学に、政治の血を注ぎ込む。赤い三角形=ボリシェヴィキの赤軍。白い円=反共産主義の白軍。文字はマレーヴィチの抽象を裏切るように、画面の対角線に揃えられている。読む行為そのものが、楔の突進と一致するように設計されていた。

三色しかない、というルール

ポスターを構成する色は、赤、黒、白の三色だけ。緑も青も黄もない。リシツキー以後、政治宣伝のための「強い配色」を考えるデザイナーは、ほぼ例外なくこの三色に戻ってくる。

色彩心理学の研究は、赤が他のどの色よりも視覚的注意を奪うことを示している。瞳孔が広がり、心拍が上がり、即時の行動を促す刺激として作用する。黒はその逆で、輪郭を最大限に強める背景として機能する。白は中立であると同時に、赤と黒のあいだで爆発的な明度差を生む。この三色を組み合わせると、人間の視覚は他の選択肢をほぼ消去してしまう。

同じ時期、オランダのピート・モンドリアンが描いていた赤・青・黄のグリッドは、宇宙の調和を求めていた。デ・ステイルの三原色は、垂直と水平の均衡のなかで世界が静止する瞬間を提示する。リシツキーの三色は、そうではない。攻撃するための配色だった。

なぜ赤だったのか

赤を革命の色にしたのはリシツキーではない。1791年7月17日、パリのシャン・ド・マルスにラファイエットが掲げた赤い旗は、本来は戒厳令を告げる警告色だった。最大50人の反王党派が射殺されたとされるこの事件で、赤は支配側の暴力の記号として記憶される。それを19世紀の労働運動が殉教の色として読み替え、1848年のヨーロッパ革命、1871年のパリ・コミューンを経て、「赤=労働者の血」というコードはほぼ固まる。

1918年4月8日、ロシア共和国は赤旗を正式な国旗として制定した。リシツキーがポスターに塗った赤は、すでに政治的な意味で塗り固められた色だった。彼が発明したのは色そのものではなく、色を幾何学に閉じ込めて飛ばす技術である。

同じ年、もう一つの旗

1920年の夏、ミュンヘンのある政党が、新しい党旗を採用した。赤地に白い円、その中央に黒い鉤十字。色を選んだのは党首のアドルフ・ヒトラーで、後に『わが闘争』(1925)で彼は次のように書く――「無数の試行ののち、私はついに最終形に到達した。赤地、白い円盤、その中心の黒い鉤十字」。

組み合わせは、リシツキーの『赤い楔』と同一である。

ヒトラーが赤・白・黒を選んだ理由は明白で、1871年から1918年まで続いたドイツ帝国旗の色だった。ワイマール共和国の黒・赤・金(金は黄)への反発として、戦前ドイツの強さを思い出させる配色を意図的に選んでいる。

二つの図像は、思想の対極にあった。ボリシェヴィキの赤い楔は、反ファシズム戦争の最終局面でナチス・ドイツと戦うことになる。ユダヤ系のリシツキーは1941年12月30日、結核に倒れる直前まで「もっと戦車を!」と叫ぶフォトモンタージュをモスクワで設計し続けた。

同じ配色を、二つの全体主義がほぼ同時に発見したという事実が、残った。

赤と白の系譜

赤・白・黒が政治のための強い配色として固定されていった一方で、別の道筋で同じ家族の配色が世界に広がっていた。

1863年、スイスの実業家アンリ・デュナンが組織した負傷兵救護の団体は、新しい紋章を採用する。スイス国旗の赤と白を反転させた、白地に赤十字。政治的・宗教的な含意を持たない中立性の象徴として設計されたこの図像は、戦場での識別性能において人類が発明した最も成功した記号の一つになった。デュナンの第一次ジュネーヴ条約は1864年に署名され、彼は1901年に第一回ノーベル平和賞を受賞する。

アメリカ南部では、もっとゆっくりと同じ発見が起きていた。コカ・コーラは1887年の初期広告から、白地に赤い筆記体という配色を採用していた。樽の塗装を赤にしたのは、税務職員にアルコール樽と区別させるための実務的な選択だったとされる。1934年の改稿で社名のロゴは現在の鮮やかな赤に統一され、1941年に仕様が確定する。広告に黒の文字が組み合わされたとき、コカ・コーラの全コーポレートシステムは、赤・白・黒の三色の上に乗ることになった。

赤十字、ナチスの旗、リシツキーのポスター、コカ・コーラの赤――社会的な機能はまったく違うのに、図像の核に置かれたのは同じ家族の配色だった。視覚的に逃げ場を失わせる、という人類普遍の認知反応をめぐる、独立した発見だった。

楔は配られた

1921年、リシツキーはソビエト・ロシアの文化大使としてワイマール時代のドイツに赴任する。彼が持ち込んだロシア構成主義の手法――非対称構成、サンセリフ書体、対角線の活用、純色の使用――は、まずバウハウスに、続いてヤン・チヒョルトに伝わった。チヒョルトは1925年、雑誌『Typographische Mitteilungen』の特集号「Elementare Typographie」でこれらの原則を体系化し、1928年の『Die neue Typographie』で完全な理論書を出版する。リシツキーの名は本文に何度も現れる。20世紀のグラフィックデザインの基本文法は、ここで定まった。

ポスター本体の運命は、皮肉なものだった。ロシア内戦中に大量生産されたはずの『赤い楔』は、現物のほとんどが燃料として消費されてしまう。リシツキーがドイツに移った1921年以降、西側の出版物がこのイメージを再発見し、ロシア内戦を象徴する図像として広めていく。作者がもとの政治的文脈とは別の文脈で評価されることになった。

1985年11月21日、ロンドンの国会議事堂。サッチャー保守党政権の三選を阻止するため、ビリー・ブラッグとポール・ウェラーを中心とするミュージシャン連合「Red Wedge」が発足する。命名はリシツキーの1919年のポスターから採られた。ロゴをデザインしたのは、当時雑誌『The Face』のアートディレクターとして頭角を現していたグラフィックデザイナーのネヴィル・ブロディだった。

残ったもの

非常停止ボタンは赤い。スイス国旗の白十字は今日も白い。Netflixのロゴ、YouTubeの再生ボタン、消防車の塗装、選挙ポスターの背景、ファストフードの看板――赤・黒・白の組み合わせが視覚に強いことは、誰も疑問に思わないほど自明になっている。

1919年のヴィテプスクで29歳のユダヤ系の若い建築家が刷り上げた数十枚のポスターは、そのほとんどが暖炉で燃やされた。残った数十枚と、残った配色のコードだけが、20世紀の視覚言語を整え直していった。

色を武器として使う、という発想は、戦後のミニマリズムやスイス・タイポグラフィにも引き継がれていく。それでも、出発点には常に一つの図形が立っている。白い円を斜めに貫く、赤い三角形。

基本データ

作品名
赤い楔で白を打て(Клином красным бей белых! / Beat the Whites with the Red Wedge)
作者
エル・リシツキー(Lazar Markovich Lissitzky)
制作年
1919-1920年
技法
リトグラフ(石版画)、紙
所蔵(現存例)
ボストン美術館、ニューヨーク近代美術館(MoMA)、テートほか。当時刷られたうち現存するのは数十枚とされる
作者の生没
1890年11月23日(ロシア帝国スモレンスク県ポチノク)― 1941年12月30日(モスクワ)
関連運動
シュプレマティスム、ロシア構成主義、UNOVIS
関連人物
カジミール・マレーヴィチ(師)、マルク・シャガール(同僚)、ヤン・チヒョルト(後続のタイポグラフィ理論家)
使用色
赤・黒・白の3色のみ

Q&A

『赤い楔で白を打て』の「白」は、なぜ「白軍」のことなのですか?
ロシア内戦(1918-1922)でボリシェヴィキの赤軍と戦った反共産主義の連合軍が「白軍(White movement)」と呼ばれていたためです。白は18世紀のフランス王党派の伝統色でもあり、ヨーロッパでは保守・反革命のシンボル色として通用していました。リシツキーは色そのものに、政治的な意味を二重写しにしています。
リシツキー以前にも赤と黒の組み合わせは使われていましたよね?
19世紀の労働運動旗、無政府主義の赤黒旗、伝統的な葬礼や儀式まで、赤と黒の対比そのものは古くから存在します。リシツキーが新しかったのは、これらを純粋な幾何学形態にまで還元し、政治的メッセージを最短経路で伝える「攻撃のための文法」として整理した点です。
ナチスがリシツキーの影響を受けて配色を決めた、ということですか?
直接の影響関係を示す資料は確認されていません。ヒトラーは『わが闘争』で帝国時代のドイツ国旗(赤・白・黒)から引いたと明記しています。同じ配色が、まったく独立した経緯で、ほぼ同時期に二つの全体主義によって採用されたという事実だけが残ります。視覚的なインパクトという観点での収束進化のような現象だった、と整理するのが妥当です。
リシツキーが日本のデザインに与えた影響はあるのですか?
直接的な接触は限定的ですが、間接的な影響は深く流れています。チヒョルトの『Die neue Typographie』を経由して、リシツキーの構成原則は世界中のグラフィックデザイン教育に組み込まれました。戦後の日本のグラフィックデザインも、対角線の構成、純色の使用、サンセリフ書体への偏愛といった面で、ロシア構成主義の影響を間接的に引き継いでいると指摘されています。
『赤い楔で白を打て』の現物を見ることはできますか?
ボストン美術館、ニューヨーク近代美術館、テートなどが現存するわずかな印刷物を所蔵しています。常設展示ではない場合が多いため、訪問前にコレクション情報の確認をおすすめします。

参考文献

Beat the Whites with the Red Wedge – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Beat_the_Whites_with_the_Red_Wedge
Suprematism, Part II: El Lissitzky – Smarthistory
https://smarthistory.org/suprematism-part-ii-el-lissitzky/
El Lissitzky | Russian Constructivist Artist & Designer | Britannica
https://www.britannica.com/biography/El-Lissitzky
Masterpiece Story: Beat The Whites With The Red Wedge by El Lissitzky – DailyArt Magazine
https://www.dailyartmagazine.com/beat-the-whites-with-the-red-wedge/
History of the emblems – ICRC(赤十字国際委員会)
https://www.icrc.org/en/article/history-emblems
History of the Swastika & Its Use as a Nazi Symbol – United States Holocaust Memorial Museum
https://encyclopedia.ushmm.org/content/en/article/history-of-the-swastika
Flag of Nazi Germany – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Flag_of_Nazi_Germany
Red Wedge – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Red_Wedge

コメント (0)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です