ビートルズ「アビイ・ロード」と「ホワイト・アルバム」|ポップアートを飲み込んだ10分間

ビートルズ「アビイ・ロード」と「ホワイト・アルバム」|ポップアートを飲み込んだ10分間

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1969年8月8日、金曜日の朝。ロンドン北西部、セント・ジョンズ・ウッドのアビイ・ロードに、ステップラダーを担いだひとりの男が立っていました。スコットランド出身の写真家、イアン・マクミラン。手にしているのはハッセルブラッド、レンズは50mm。絞りf22、シャッター速度は500分の1秒。EMIスタジオの真正面の横断歩道に脚立を据え、警官に交通整理を頼みます。撮影開始は11時35分。ファンに気づかれる前に終わらせるという算段でした。

ジョン、リンゴ、ポール、ジョージの順に並び、横断歩道を渡る。三度往復する。マクミランはその間に6枚のシャッターを切りました。それだけ。撮影に費やした時間はおよそ10分。ジョン・レノンはのちにこう言っています。「録音してるはずの俺たちが、ビートルズの写真のためにポーズ取らされてる、ってのが正直な気分だった」と。本人たちは早く部屋に戻りたかったわけです。同じ日の午後には「The End」「I Want You (She’s So Heavy)」「Oh! Darling」の録音作業が続いていました。

採用されたのは6枚のうち5枚目。左から右へ歩く4人を、消失点が画面中央に来る構図でとらえた一枚です。アルバム『アビイ・ロード』は同年9月26日に発売され、英国チャートで1位デビュー。表紙にバンド名もアルバム名も入っていない、英国でビートルズが出した初めてのLPでした。

日常の風景が、世界中で再現される対象になる

本来なら、これはただの近所の横断歩道です。住宅街にある、ありふれたゼブラ・クロッシング。録音技師ジェフ・エメリックがエベレストという銘柄のタバコを吸っていたことから、アルバムの仮タイトルは『Everest』になり、ジャケットも雪山の前で4人が並ぶ案だったといいます。ネパールまで行くのは現実的じゃない、ということで没になり、ポール・マッカートニーが「スタジオの前で撮ろう」と提案して、自分でラフスケッチを描きました。マクミランはそれをもう少し丁寧な下絵に起こし、撮影に臨んだ。

つまり、ジャケット写真はもともと「特別な場所」を撮るための企画ではなかった。スタジオから出てすぐの、徒歩30秒の場所が、わざわざ選ばれた。むしろ「どこにでもある日常」のほうが、画面に意図せず織り込まれた。

そして41年後、2010年12月。この横断歩道は英国政府によってグレードIIの指定文化財に登録されます。観光大臣のジョン・ペンローズはこう述べました。「このロンドンの横断歩道は、城でも大聖堂でもありません。けれども1969年のあるひと夏の朝の10分間の撮影のおかげで、私たちの遺産の一部であると主張するに十分な資格を持っています」。道路標示が文化財に指定されるのは英国で初めてでした。住宅街にあるごく普通の歩行者用横断歩道が、国家登録番号1396390として、城や大聖堂と同じリストに名を連ねることになった。

現在、ウェストミンスター区の道路当局は、3か月に1度のペースで白線を塗り直しています。世界中のファンが横断歩道で写真を撮るために行列を作るからです。ストリート・サイン――「Abbey Road NW8」の道路標識は、訪問者に何度も持ち去られた結果、通常より高い位置に移設されました。アルバム裏面に写っていた標識は、現在は存在しないアレキサンドラ・ロードとの交差点で撮影されたものです。

前年の白――何もない表紙のほうが、雄弁だった

『アビイ・ロード』の前年。1968年11月22日、ビートルズは別の意味で型破りなアルバムを世に出していました。タイトルは『The Beatles』。ただそれだけ。ジャケットは真っ白の二つ折りスリーブで、表面はぴかぴかに光沢のあるラミネート紙。中央からやや右下に、エンボス(浮き出し)加工で「THE BEATLES」とだけ刻まれている。最初の200万枚には右下に黒インクで打刻されたシリアルナンバーが入っていました。それ以外には、何もありません。

誰もこのアルバムをタイトル通り「The Beatles」とは呼びません。世界中で「ホワイト・アルバム」と呼ばれている。表紙を表す言葉が、作品そのものの名前になった。デザインのほうが作品本体を上書きしてしまった、稀有な例です。

デザインしたのはリチャード・ハミルトン。当時46歳の英国人アーティストでした。ポール・マッカートニーは前作『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』(1967年)で、ピーター・ブレイクとジャン・ハワースが手がけた極彩色のコラージュ表紙の次に、なにを置くかを考えていた。色とアイコンで埋め尽くされたサージェント・ペパーズの祝祭感を、どう乗り越えるか。

解決策を提示したハミルトンは後年こう振り返っています。「ポールはサージェント・ペパーズの蛍光色の爆発と、できる限り対照的なデザインを求めた。それを受け取った」。空白の白。サージェント・ペパーズが「すべて入れる」だったのに対して、ホワイト・アルバムは「すべて引く」だった。

ハミルトンとポールを引き合わせたのは画廊主のロバート・フレイザー。当時のロンドンの現代美術シーンの中心にいた人物で、ポールとも親しかった。フレイザーがハミルトンの作品の取り扱いを担当していたことから、ふたりのコラボレーションが実現します。前年1967年にハミルトンがテート・ギャラリーでマルセル・デュシャンの大規模回顧展を組織したことも、ビートルズが彼に注目するきっかけでした。

「500万部の限定版」という皮肉

ハミルトンが最初に提案した案は、もう少し攻めていた。表紙にコーヒーカップの輪染みを残す、アップル・コープス社のロゴにちなんでりんごの果肉を表紙紙に練り込む、といったアイデアもあったといいます。どちらも実用面で却下されました。最終案は、ただの白。ただし、コピーごとに固有のシリアルナンバーを打刻する、というアイデアが添えられていた。

ハミルトン自身の言葉によれば、これは「500万部規模のものに『限定版』というラベルを貼るという、皮肉な状況を作り出すため」のものでした。エディション(限定版)という発想は、もともと美術品の世界のルールです。ひとりの版画家が刷る枚数を制限して、希少性を担保する。エディション100枚であれば、市場には100枚しか存在しない。ハミルトンはこれを音楽産業のスケールで作動させた。500万枚すべてに番号を振り、しかも同じ番号が複数枚存在していました。当時の英米合計12のプレス工場が、それぞれ同じシリアルナンバー体系を使っていたからです。番号「0000001」が世界に12枚存在することになる。エディションの概念そのものを、内側から皮肉る仕掛けでした。

シリアルナンバー「0000005」が、ビートルズ自身に確保された4枚を除いた、最初に一般販売されたコピーだとされています。番号1の所在については諸説あり、リンゴ・スターの所蔵していた「0000001」は2015年12月5日、慈善オークションで79万ドル(当時のレートで約9,500万円)で落札されました。バーバラ・バックの慈善団体ロータス財団のための個人コレクション売却の一環でした。ジョン・レノンが最も低い番号を確保した、という証言もあるため、誰が真の「1番」を所有していたのかは今でも議論が続いています。12工場で番号体系が重複していた事実を思い出せば、この議論自体がハミルトンの仕掛けた構造に巻き込まれた格好です。

1956年、ハミルトンが「ポップ」を発明した日

ホワイト・アルバムの白を理解するには、ハミルトンが12年前に行っていたことを知る必要があります。

1956年。ロンドンのホワイトチャペル・ギャラリーで「This Is Tomorrow(これが明日だ)」という展覧会が開かれていました。建築家、デザイナー、画家が混じり合った前衛グループ「インディペンデント・グループ」が組織した展示です。ハミルトンはここに、わずか26×24.8センチ――ハードカバーの本ほどの大きさのコラージュを出品しました。タイトルは『Just what is it that makes today’s homes so different, so appealing?(今日の家がこれほど違って、これほど魅力的なのはなぜか?)』。雑誌や広告から切り抜いた、ボディビルダー、ヌード写真、ステレオ装置、テレビ、掃除機、缶詰のハム、ポップ・キャンディー、リビングの家具。アメリカ的な大量消費生活のあらゆる断片が、ひとつの居間に詰め込まれていた。

翌1957年1月16日、ハミルトンは建築家のアリソン&ピーター・スミッソン夫妻に宛てた手紙で、新しい運動の特徴を箇条書きにします。

「Pop Artは――大衆向け(マス・オーディエンス向けにデザインされている)、一時的(短期の解決策)、使い捨て(簡単に忘れられる)、低価格、大量生産、若さ志向(若者向け)、機知に富み、セクシーで、ギミック的で、グラマラスで、ビッグ・ビジネスである」。

これがポップ・アートという用語に対する、最初の公式定義です。「Pop Art」という言葉は、コラージュに描かれていた男性ボディビルダーが手にしている棒つきキャンディー「Tootsie Pop」に由来する、という説が広く信じられています。「永遠」「真摯さ」「希少な物質的価値」といった伝統的なファインアートの属性を、ハミルトンは全部ひっくり返してみせた。大量生産で安く、若くて、すぐ忘れられる――それこそがアートの新しい形だ、と。

日常がアートに、アートが日常に

ハミルトンの定義から数年遅れて、大西洋の向こうでも同じ衝動が動き始めていました。ニューヨーク。1954年から55年にかけて、24歳のジャスパー・ジョーンズが『Flag(旗)』を制作します。エンコースティック(蜜蝋を熱で溶かして顔料を混ぜる古代の技法)で、アメリカ国旗そのものを描いた。新聞紙のコラージュを下敷きにし、その上から赤、白、青の蝋を塗り重ねた。サイズは107.3×153.8センチ。現在はニューヨーク近代美術館(MoMA)が所蔵しています。

ジョーンズは「すでに心が知っているもの」を描きたかった、と言っています。星条旗。標的。アルファベット。地図。数字。誰もが見たことのある、見慣れすぎて目を素通りするもの。それを絵画の中に持ち込めば、人々はもう一度それを「見る」ことを強いられる。1954年の夢の中で、巨大な星条旗を描いている自分を見たことが直接のきっかけだった、という有名な逸話があります。完成までに1年以上かかったのは、星条旗そのものを描くことの政治的な重さを、絵画の表面にしみ込ませる必要があったからかもしれません。

その8年後、1962年7月9日。アンディ・ウォーホルがロサンゼルスのフェラス・ギャラリーで初の個展を開きます。展示されたのは51×41センチのキャンバスが32枚。それぞれにキャンベル・スープの缶が一個ずつ描かれている。トマト、チキンヌードル、コンソメ、グリーンピー、クリーム・オブ・マッシュルーム――1962年当時に販売されていた全32種類の味。32枚は棚状の台の上に、スーパーマーケットの陳列棚のように並べられていました。

ウォーホルは後に語っています。「なぜスープ缶を描いたか? 飲んでたからだよ。20年間、毎日同じ昼食だった。同じものを、何度も何度も」。抽象表現主義の重鎮、ウィレム・デ・クーニングはウォーホルを「美の殺し屋(killer of beauty)」と呼びました。当時の批評の多くは冷淡で、ある評論家は「この若い『アーティスト』は、頭の柔らかい愚か者か、頭の硬い詐欺師のどちらかだ」と書いています。スーパーで25セントで買える缶詰を、なぜキャンバスに描かなければならないのか――それが当時の常識だった。

アルバム表紙、という新しいキャンバス

ジョーンズが旗を描き、ウォーホルが缶を描いた。ハミルトンは1956年に居間のコラージュを作り、ポップ・アートを定義した。ここまでは美術館の中の話です。ところが1968年、ハミルトンに別の機会が訪れる。500万人が買う、12インチ四方の真っ白なキャンバス。それが彼の手元に降ってきた。

「すべてのアルバム所有者は、リチャード・ハミルトンのオリジナル・プリントを所有していることになる」――ホワイト・アルバム研究プロジェクトの中で、こんな指摘がされています。ハミルトンはアルバム購入者ひとりひとりに、自分のサインの代わりにユニークなシリアルナンバーを渡した。500万人の自宅に届く美術作品。これはハミルトンが1957年に書いていた「大衆向け、大量生産、低価格」というポップの定義そのものでした。彼は自分の言葉に、ようやく規模で追いつく機会を手にしたことになる。

ホワイト・アルバムには大型ポスターが同封されていました。ハミルトンがデザインしたこのポスターには、ビートルズの私的なスナップ写真や舞台裏写真のコラージュが印刷されています。表紙の白は「空白」ですが、内側のポスターは「過剰」。表は引き算、中身は足し算。ジャケットの外側ですべての装飾を消し、内側で爆発させる。サージェント・ペパーズが表で爆発させていたものを、ハミルトンは内側に押し込めて、ふたをした。

「白い表紙」のもうひとつの伏線として、しばしば言及されるのが当時のアップル・ブティックの逸話です。1967年12月にロンドンのベイカー・ストリートに開店したビートルズの直営ショップは、フール(The Fool)というコレクティブによる極彩色のサイケデリック壁画で覆われていました。ところがウェストミンスター市議会から「景観を損ねる」と苦情が来て、1968年5月までに上から白く塗りつぶされた。サイケデリックの極致を、白がのみ込んだ瞬間です。これがホワイト・アルバムのコンセプトに何らかの影響を与えたのではないか――断言はできませんが、時期と場所がそう囁いている。

何もない、が最も雄弁だった

『Flag』が当時の人々に与えた違和感は、「これは旗そのものなのか、絵画なのか」という問いでした。あまりにそれそのものに見えるので、絵画として鑑賞するための距離が取れない。ウォーホルのスープ缶も同じです。32枚並ぶと、もはやスーパーの陳列棚と区別がつかない。ジョーンズもウォーホルも、見慣れたものの「見えなさ」を引き戻すために、それを丁寧に手で再現するという奇妙な迂回路を選んだ。

ハミルトンがホワイト・アルバムでやったのは、もっと過激な操作です。彼は何も描かなかった。ただ、印刷物の表面を真っ白なラミネートで覆い、文字を浮き出させ、番号を打刻しただけです。これは「絵を描く」ことの放棄であると同時に、「絵を描かない」ことそのものを美術品にしてしまう操作でもある。コンセプチュアル・アートの一手法を、500万部の規模で実行した。

1968年夏のシングル『Hey Jude』、秋のホワイト・アルバム、翌年1月のルーフトップ・コンサート、その年の夏にアビイ・ロードの横断歩道。ホワイト・アルバムの「絵を描かない」操作は、アビイ・ロードの「何も特別ではない場所」の選択へとつながっていきます。スタジオの目の前の歩道を撮るのは、写真撮影として極端に消極的な選択です。ロンドンの名所ではない。エキゾチックな背景でもない。レコーディングの合間に、徒歩30秒で撮れる場所。マクミランが6枚しか撮らなかったのも、「特別なものを撮ろう」とする力が抜けているからでしょう。

引き算したものが、結果的に足し算では決して得られない規模を呼び寄せた。ハミルトンが何も描かなかった白い表紙は、ロックンロール史上もっとも語られるジャケットになった。マクミランが特別に選ばなかった近所の横断歩道は、英国の登録文化財になった。

ポップカルチャーがアートを飲み込んだ瞬間

1960年代後半は、ポップカルチャーとファインアートの境界線が、それまでにない強さで揺さぶられた時期です。ハミルトンが12年かけて美術館の中で築き上げた「日常がアートになる」という発想は、ビートルズの仕事を媒介にすると、桁が二つほど跳ね上がった規模で世界に拡散されました。500万人がリビングに飾る「美術作品」。世界中の観光客が再現する「路上のアイコン」。これは美術館では絶対に実現できないスケールです。

同時に、ポップカルチャー側にとっても、ファインアート側からの「逆流」が大きな意味を持ちました。サージェント・ペパーズの表紙はピーター・ブレイクという美術家が手がけたコラージュ作品で、これだけでも当時のロックアルバムとしては異例でした。続くホワイト・アルバムでは、ポップ・アートの理論的支柱であるハミルトン本人が、極端なコンセプチュアルな操作を持ち込んだ。アルバム表紙という商業デザインのフォーマットが、現代美術の実験場として、こんな贅沢な使われ方をした事例は他に見当たりません。

2010年に英国政府が横断歩道を文化財に指定したとき、ある事態が成立しました。普通の道路標示が、「ポップ・アートとしての価値」のために国家の保護対象になった。ハミルトンが1957年に「Transient(一時的)」「Expendable(使い捨て)」と書いた性質が、半世紀後には「永久保存」されることになった。皮肉な状況です。ハミルトンが好きそうな皮肉でもあります。

2026年の現在、アルバムジャケットを物体として手に取る機会は、ほとんどなくなりました。スマートフォンの画面に表示されるサムネイル。プレイリストの中の小さな正方形。けれども、その正方形のなかでもっとも記憶に残るのは、いまだに「何も描かれていない白」と「ありふれた横断歩道」だったりします。日常をアイコンにする逆説、何もないことを充実させる逆説。ハミルトンが手紙で書き残した11個の形容詞は、その後60年の視覚文化の輪郭線を、たしかに引いていたわけです。

Q&A

ホワイト・アルバムのシリアルナンバー「0000001」は本当にジョン・レノンが持っていたのですか?
これには諸説あります。リンゴ・スターの所蔵していた「0000001」は2015年12月5日に79万ドルで落札されており、リンゴ自身が「ジョンが最大の声で番号1を要求した」と語った記録もあります。重要なのは、当時12のプレス工場で同じシリアルナンバー体系が使われていたため、世界には「0000001」が複数枚存在していたことです。リチャード・ハミルトンが仕掛けた「限定版という皮肉」のシステムの中では、誰が「真の1番」を持っていたかという問い自体が、答えのないように設計されています。
『Just what is it that makes today’s homes so different, so appealing?』というタイトルは何を意味しているのですか?
これは1955年の雑誌『Ladies Home Journal』に掲載された広告のキャッチコピーから取られたものです。コラージュに描かれているリビングルームの構図自体も、この広告に由来しています。ハミルトンは大衆雑誌の文章をそのままアートのタイトルにすることで、「広告と芸術の境界線をどこに引くのか」という問いを観客に投げかけました。タイトルの「Pop」=Tootsie Pop(キャンディー)から、ポップ・アートという呼称が広まったという説があります。
アビイ・ロードのジャケット写真でビートルズはなぜスタジオから「離れる」方向に歩いているのですか?
レコーディング・エンジニアのジェフ・エメリックは2014年の『MusicRadar』誌のインタビューで「彼らはスタジオに向かって歩いているのではなく、離れる方向に歩いている。これは意図的だった」と語っています。バンドの解散が現実味を帯びていた時期で、アルバムが事実上の最終作になることを4人は察していました。エメリックは「写真を見たとき、メッセージを送っているのだと思った」と述べています。ただし、これはあくまで関係者の証言であり、ビートルズ自身が公式に意図を表明したわけではありません。
イアン・マクミランはなぜビートルズの専属写真家になれたのですか?
マクミランはもともとスコットランド出身のフリーランス写真家で、1966年にオノ・ヨーコがロンドンのインディカ・ギャラリーで個展を開いた際、ヨーコから展覧会のドキュメント撮影を依頼されたのが最初の縁でした。この仕事を通じてジョン・レノンと知り合い、その後ジョンの推薦でアビイ・ロードのジャケット撮影を任されています。ビートルズ写真家の中ではロバート・フリーマンやリンダ・マッカートニーほど有名ではありませんが、6枚で歴史を変えた写真家として記憶されています。
ホワイト・アルバムにはハミルトン以外にどんなデザインが含まれていますか?
ハミルトンは折り込みの大型ポスター(約24×36インチ)もデザインしました。これにはビートルズの私的なスナップ写真のコラージュが印刷され、裏面には全曲の歌詞が並んでいます。さらに付属品として、写真家ジョン・ケリーが1968年秋に撮影した4人の個別ポートレート(約8×10インチ、4枚組のカード)が同梱されていました。表紙の極端な白さに対して、付属物は徹底的にビジュアルが詰め込まれている――この対比そのものがハミルトンの設計です。

参考文献

The Beatles Bible|8 August 1969: The Abbey Road cover photoshoot
https://www.beatlesbible.com/1969/08/08/the-abbey-road-cover-photography-session/
Historic England|Zebra Crossing Near Abbey Road Studios (Grade II Listing #1396390)
https://historicengland.org.uk/listing/the-list/list-entry/1396390
Sotheby’s|The White Album: How Richard Hamilton Brought Conceptual Art to the Beatles
https://www.sothebys.com/en/articles/the-white-album-how-richard-hamilton-brought-conceptual-art-to-the-beatles
Artsy|How Richard Hamilton Made the Beatles’s White Album a Pop Art Icon
https://www.artsy.net/article/artsy-editorial-richard-hamilton-made-beatless-white-album-pop-art-icon
Art UK|Richard Hamilton: the pioneer of British Pop Art
https://artuk.org/discover/stories/richard-hamilton-the-pioneer-of-british-pop-art
MoMA|Andy Warhol. Campbell’s Soup Cans. 1962
https://www.moma.org/audio/playlist/3/4286
MoMA|Jasper Johns. Flag. 1954-55
https://www.moma.org/audio/playlist/297/41
Abbey Road Studios|Deconstructing the Abbey Road Cover Photography Session
https://www.abbeyroad.com/news/deconstructing-abbey-road-cover-photography-session-2588

基本データ

アルバム『Abbey Road』ジャケット撮影
1969年8月8日(金)午前11時35分頃、撮影時間約10分、6枚撮影、採用は5枚目
撮影者
イアン・マクミラン(Iain Macmillan、1938年10月20日 – 2006年5月8日、スコットランド出身)
撮影機材
ハッセルブラッド、50mmレンズ、f22、1/500秒
撮影場所
ロンドン、セント・ジョンズ・ウッド、アビイ・ロードNW8、EMIスタジオ正面のゼブラ・クロッシング
アルバム『Abbey Road』発売
1969年9月26日(英国)、英国チャート初登場1位
アビイ・ロード横断歩道のGrade II指定
2010年12月21日、Historic England登録番号1396390(横断歩道としては英国初)
アルバム『The Beatles(White Album)』
1968年11月22日発売、2枚組30曲のダブルアルバム
ホワイト・アルバムのジャケット・デザイナー
リチャード・ハミルトン(Richard Hamilton、1922年2月24日 – 2011年9月13日、イギリス出身)。ポール・マッカートニーとの共同作業
『Just what is it that makes today’s homes so different, so appealing?』
リチャード・ハミルトン作、1956年、コラージュ、26×24.8 cm、Kunsthalle Tübingen(ドイツ)所蔵。「This Is Tomorrow」展(ホワイトチャペル・ギャラリー)カタログ用に制作
ポップ・アートの定義(ハミルトンによる)
1957年1月16日、アリソン&ピーター・スミッソン夫妻への書簡で提示:「Popular, Transient, Expendable, Low cost, Mass produced, Young, Witty, Sexy, Gimmicky, Glamorous, Big business」
『Campbell’s Soup Cans』
アンディ・ウォーホル作、1961-62年、合成樹脂塗料、各51×41 cm、32枚組、初公開1962年7月9日、フェラス・ギャラリー(ロサンゼルス)。MoMA所蔵
『Flag』
ジャスパー・ジョーンズ作、1954-55年、エンコースティック・油彩・コラージュ、布を合板に貼付、107.3×153.8 cm、MoMA所蔵

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