ロトチェンコのカメラ|「斜め」と「トリミング」が写真を変えた

ロトチェンコのカメラ|「斜め」と「トリミング」が写真を変えた

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モスクワ、ミャスニーツカヤ通り14番地。1925年、ロトチェンコの住むアパートの裏側には、鉄柵に囲まれたバルコニーが上へ上へと積み重なっていた。ある日、彼は通りに立ち、カメラのレンズを空に向けた。

写真は、人間が立った姿勢のまま顔の高さで撮るもの。当時は誰もそう信じていた。19世紀以来の絵画的構図の常識が、そのまま写真機の上に乗り移っていたからです。

しかしロトチェンコは、その作法を一発で破った。建物の正面ではなく、足元から急角度で見上げる視線。フレームの中で、無数のバルコニーがリズミカルに後退していく。背の高さの目線ではとうてい捉えられない、街路の鉛直方向の構造。これが、のちに『Balconies』(1925)として知られる一枚です。

同じ年に撮られた『Fire Escape』もそうでした。母親が階段を昇る場面を、彼は階段の上から真下に向けて切り取った。母親も子も、フレームの対角線上に斜めに配置されている。

「水平な視線」から離れること。それだけのことが、写真の文法を根本から動かしました。

「われわれの義務は、実験することだ」

アレクサンドル・ロトチェンコ。1891年、サンクトペテルブルクの劇場小道具係の家に生まれた。母親は洗濯婦。階級的には、芸術家になるはずのない出自です。

1917年のロシア革命が、彼の運命を変えた。当時の構成主義者たちは、芸術はもはや個人的な自己表現ではなく、新しい社会の道具であるべきだと考えていた。ロトチェンコもそこに加わる。1921年、彼は絵画を捨て、家具、衣服、舞台、ポスター、書籍装幀、そして写真へと活動を広げました。

写真を本格的に始めたのは1924年。マヤコフスキーとともにLEFや『新LEF』の表紙を作り、エイゼンシュテイン監督の映画『戦艦ポチョムキン』(1925) のポスターも手がけている。1925年のパリ装飾美術博覧会ではソ連館のデザインを担当し、銀メダルを4個獲得した。

ライカを手に入れたのは1928年。LEFの誌面には「ライカで撮影、シネマフィルム使用」というキャプションがついた写真も載っています。当時、カメラの機種を明示することは普通ではなかった。彼はわざわざ革命的な小型カメラの存在を読者に知らせたかった。

ロトチェンコの宣言は、ひとつの短い言葉に凝縮されている。「われわれの義務は、実験することだ」。

そして1928年の論考『注意せよ』ではこう書いた。同じ被写体に対して、複数の異なる位置と状況から撮影せよ、と。鍵穴をいつも同じ方向から覗くのではなく、対象を立体的に巡って何度も見るように。

これは単なる構図の話ではない。文学理論家ヴィクトル・シクロフスキーが「異化」(オストラネーニエ) と呼んだ仕掛けの、写真版でした。見慣れたものを見慣れない角度から提示することで、観る側の知覚を一度ほどく。日常を再び驚きの対象に戻す。ロトチェンコが見上げた階段や仰角で撮った少年は、そのための実験装置だった。

1914年、絵画はすでに傾いていた

ロトチェンコの斜めの視線は、突然空から降ってきたわけではなかった。10年前のロンドンで、すでに画面を傾ける革命は始まっていた。

1914年6月。ウィンダム・ルイスという英国の画家が、けばけばしいマゼンタ色の表紙の雑誌を世に送り出します。タイトルは『BLAST』。副題に「The Great English Vortex」と謳ったこの雑誌は、英国アヴァンギャルドの最初の声でした。

ルイスは当時、グレート・オーモンド通り38番地に「レベル・アート・センター」という拠点を構え、ロジャー・フライのオメガ工房から飛び出してきた若い画家たちの中心にいた。彼に「ヴォーティシズム」(渦巻派)という名前を与えたのは詩人エズラ・パウンドです。パウンドは英国に来たマリネッティの未来派演説を聞いて、それより激しい何かを必要としていた。

ヴォーティスト宣言『BLAST』には、11人の画家が署名している。ルイスの代表作のひとつ『Workshop』(1914-1915、テート所蔵)を見ると、画面はすべて鋭い対角線で構成されている。建築の梁、機械の歯車、都市のクレーン。それらが水平でも垂直でもなく、フレームを斜めに横切る。

静止した絵画に運動を持ち込む方法として、人類は何世紀も「構図」を発明してきました。古典絵画では人物のポーズや視線で動きを示し、バロックでは光の劇場性で動きを演出した。しかしヴォーティストたちは、もっと単純で過激な手段を選んだ。フレーム全体を傾ける。

ティッセン=ボルネミッサ美術館にあるルイスの『Composition in Red and Mauve』では、太い黒の対角線が画面の左下から右上へと突き抜けるように走っている。バウハウスの構成感覚や、その後の構成主義のグラフィックの、原型の風景です。

ルイスは1916年に従軍し、ヴォーティシズムは戦争の中に消えました。雑誌『BLAST』はわずか2号で廃刊。けれども、彼らが画面に持ち込んだ「対角線の暴力」は、戦後の欧州大陸でかたちを変えて受け継がれていきます。

コンパスと眼を、ひとつのフレームに

その受け継ぎ手のひとりが、ロシアの構成主義者エル・リシツキー(1890-1941)でした。

1924年、彼はスイスのサナトリウムで結核の療養をしていた。生死の境にあるそのとき、ベッドの上で一枚の自画像を作ります。のちに『The Constructor』として知られる小さな作品です。

10.6 × 11.6センチ。手のひらに乗る大きさ。

ところが画面の構造は劇的でした。コンパスを持つ自分の手を真正面から撮影した一枚と、自分の顔を撮影した一枚。それを重ね合わせる。グラフ用紙の背景、コンパスが描く弧、左上に「XYZ」と書かれた印刷文字。リシツキーは6回の異なる露光を一枚に焼き込んだとされています。

ここで起きていることは、ロトチェンコのカメラ角度とは別種の革命でした。

手と顔は、本来なら同じスケールで写るべきものです。リシツキーは違った。コンパスを握る指先は画面を支配するほど大きく、彼の顔はその後ろに、まるで遠くの建物のように小さく溶け込んでいる。近景と遠景の極端な対比。これにより、平面の写真が突然、深さと階層を獲得しました。

彼の意図は明快だった。眼から手へ、手から生産の道具へ。芸術家の構想は、視覚から物質へ滑り落ちる。MoMAは『The Constructor』を所蔵展示する際、リシツキーが「直接撮影された写真が単一のありのままの真実を提供する」という考えに反対し、層を重ねるモンタージュこそ世界を再考させると考えていた、と解説しています。

ヴィクトリア&アルバート美術館の記述によれば、この作品の元になった二枚の写真には『The Architects Equipment』(製図道具を持つ手) と『Self Portrait』というタイトルがついていた。技師の手と芸術家の顔。新しい社会が求めるのは、その両者を兼ねる存在だ、というメッセージでした。

「これは新しい工場の写真ではない」

ロトチェンコの代表作のひとつ『Pioneer with a Trumpet』(1930年夏) は、彼の方法論の到達点であると同時に、彼の苦難の始まりでもありました。

少年は赤いネッカチーフを巻いた共産主義少年団員。ロトチェンコは少年の顔を真下から、極端な仰角で撮った。トランペットを構えた口元、見開いた目、空に向かって伸びる首筋。フレームは斜めに切り取られ、若い顔の彫りの深さが彫像のように強調される。

この一枚をソビエト体制の側は問題視しました。

1928年から、ロトチェンコは「フォルマリズム」の非難を浴びるようになっていた。形式実験は革命の道具ではなく、ブルジョワ的自己満足ではないか、と。1930年前後には、自分が共同設立した10月芸術家グループ(Октябрь)から追放されます。理由は、スタイルを「新しい時代」に合わせて変えることを拒んだから。

『Pioneer with a Trumpet』は、その追放の口実のひとつになった。少年団員の凛々しい姿を撮るのに、なぜ歪んだ仰角を使うのか。社会主義リアリズムが台頭する時代、それは答えるのが難しい問いでした。

ロトチェンコ自身の答えは、すでに1928年の論考に書かれていた。「新しい工場の写真は、その建物の写真であってはならない」。

工場という現代の現象を撮るのに、19世紀の風景画と同じ視点を使うことは、現代を撮ることにならない。建築物そのものではなく、それが生み出した新しい知覚を撮ること。彼の仰角と俯瞰は、その思想の物理的な裏返しでした。

1930年代後半、ロトチェンコは写真の最前線から退き、絵画やサーカスの撮影に戻っていく。1956年、フルシチョフがスターリンの犯罪を糾弾するその年、彼は世を去りました。

オデッサの階段、シュトゥットガルトの会場、プラハの塔

ロトチェンコの方法論は、彼の作品の中だけにとどまらなかった。

エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』(1925) のオデッサの階段シーン。母親が階段を下りようとして撃たれ、乳母車が転がり落ちていく場面は、映画史でも屈指の対角線構図です。階段は画面を上から下へ斜めに走り、視線は何度も急角度で切り替わる。ロトチェンコは同じ年、エイゼンシュテイン映画のポスター制作にも関わっていた。映画の側でも、構成主義写真の側でも、同じ視覚言語が同時に発酵していた。

1929年、シュトゥットガルトでドイツ工作連盟主催の展覧会『Film und Foto』が開かれます。ハンガリーから来たモホイ=ナジが企画に深く関わり、ロトチェンコの写真も展示された。これがヨーロッパに「ニュー・ヴィジョン」(新しい視覚)という名前で構成主義写真を広めるきっかけになります。バウハウスの教育プログラムに仰角・俯瞰の構図実験が組み込まれ、ドイツ語圏とフランス語圏の写真家たちが斜めのフレーミングを試し始めた。

チェコでは1926年から、ヤロミール・レスラーが構成主義の精神でパリのエッフェル塔やプラハのペトシーン塔を対角線構図で撮り始めます。同時期に活動したヤロミール・ファンケは、工業製品や建築の幾何学に同じ感受性を向けていた。ロトチェンコの『Balconies』と同じ手つきで、彼らは塔を真下から仰ぎ見ました。

iPhoneの中の1925年

2026年のいま、スマートフォンの画面をスクロールすれば、ロトチェンコの斜め視線はそこら中で見つかる。

セルフィー文化の仰角ショット。ドローンが捉える真俯瞰の田畑や群衆。建築写真家が好む鉛直の見上げ構図。TikTokのリール動画で繰り返される、斜めに切り取られた人物の身体。Instagramのフィードに並ぶ広告写真の多くも、水平視線ではなく斜めの構図で組まれている。

シクロフスキーが「異化」と呼んだ仕掛けは、もはや日常の視覚言語に組み込まれている。100年前のモスクワのアパートで、ロトチェンコがバルコニーを下から見上げたとき、彼は誰も知らない言語の最初の一語を発音していた。

皮肉なのは、その言語があまりに普遍化したこと。いま「異化」の力を取り戻しつつあるのは、むしろ水平でまっすぐな視線の方かもしれません。

カメラを傾けるか、まっすぐに構えるか。100年経って、その判断の意味は反転しつつあるように思えます。

基本データ

アレクサンドル・ロトチェンコ
1891-1956 / ロシア(ソ連) / 構成主義の中心人物。画家、グラフィックデザイナー、写真家。代表作:『Balconies』『Fire Escape』(1925)、『Stairs』(1929)、『Pioneer with a Trumpet』(1930)
ウィンダム・ルイス
1882-1957 / カナダ生まれ・英国で活動 / ヴォーティシズムの創始者。雑誌『BLAST』(1914-1915、全2号)編集長。代表作:『Workshop』(1914-1915、テート所蔵)
エル・リシツキー
1890-1941 / ロシア(ソ連) / 構成主義・シュプレマティスム。代表作:『The Constructor (Self-Portrait)』(1924、V&A・MoMAなど所蔵)、『USSR im Bau』(1932-40)の編集
関連する理論
ヴィクトル・シクロフスキー(1893-1984)の「異化」(オストラネーニエ、1917年提唱)、ニュー・ヴィジョン(1920年代-30年代の写真運動)、ロトチェンコの宣言「われわれの義務は、実験することだ」
波及した代表的な接点
エイゼンシュテイン『戦艦ポチョムキン』(1925)のオデッサの階段シーン、シュトゥットガルト『Film und Foto』展(1929)、バウハウス、チェコのヤロミール・レスラーやヤロミール・ファンケら

Q&A

ロトチェンコ以前にも、カメラを傾けて撮った写真家はいなかったのですか?
19世紀末から仰角や俯瞰の写真自体は存在しましたが、それは特殊な状況下で「仕方なく」生まれたもの。ロトチェンコは「水平視線そのものが知覚を麻痺させる」という理論的立場から、意図的に角度をずらしました。彼の革新は構図そのものより、構図についての考え方の方にあった、と整理できます。
ウィンダム・ルイスは画家として以外にどんな顔を持っていましたか?
ルイスは画家であると同時に小説家・思想家でもありました。代表作の小説『ターア』は英国モダニズム文学の重要作とされます。1920年代以降は具象絵画と肖像画に転じ、1930年代にはナチズムへの宥和的姿勢を示したことで批判を浴びた。戦後は長く影に追いやられましたが、再評価はこの数十年で進んでいます。
リシツキーの『The Constructor』はどこで実物を見られますか?
ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館とニューヨークのMoMAが代表的な所蔵先。複数の複製プリントが存在するため、リシツキー単独展や1920-30年代の構成主義・アヴァンギャルド展でも目にする機会があります。
ロトチェンコの晩年はどうなりましたか?
1930年代後半、彼は写真の最前線から退き、サーカスや家族・友人の日常風景の撮影に移ります。仰角や俯瞰の極端な構図も使われなくなり、より穏やかな構図へ変わっていきました。1956年没。多くの実験的写真は子孫の運営するロトチェンコ/ステパノヴァ・アーカイブ(モスクワ)で保管されています。
ロトチェンコの理論は具体的に誰に影響を与えましたか?
バウハウスのモホイ=ナジは構成主義写真をドイツに広めた中心人物で、1929年のシュトゥットガルト『Film und Foto』展でロトチェンコを紹介しました。チェコのヤロミール・レスラーやヤロミール・ファンケ、ソ連のグスタフ・クルツィスやボリス・イグナトーヴィッチなど、欧州全域に「ニュー・ヴィジョン」運動として拡散しています。

参考文献

Aleksandr Rodchenko – Russian Photography | Nailya Alexander Gallery
https://www.nailyaalexandergallery.com/russian-photography/aleksandr-rodchenko/featured-works
Back to the Material: Rodchenko’s Photographic Ideology | Artforum
https://www.artforum.com/features/back-to-the-material-rodchenkos-photographic-ideology-209333/
Rodchenko Paintings, Bio, Ideas | The Art Story
https://www.theartstory.org/artist/rodchenko-alexander/
El Lissitzky. Self-Portrait. 1924 | MoMA
https://www.moma.org/slideshows/1/7
Self-Portrait: Constructor | V&A Collections
https://collections.vam.ac.uk/item/O136602/self-portrait–constructor-photograph-lissitzky-el
Wyndham Lewis and Vorticism | Tate Britain
https://www.tate.org.uk/whats-on/tate-britain/wyndham-lewis-and-vorticism
Pioneer with a Trumpet | The Museum of Fine Arts, Houston
https://emuseum.mfah.org/objects/32913/pioneer-with-a-trumpet
El Lissitzky | Monoskop
https://monoskop.org/El_Lissitzky

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