1802年6月23日、エクアドル。雲のなかに浮かぶ円錐形の山——チンボラソ。当時、世界最高峰と信じられていたこの火山の斜面で、ひとりのプロイセン貴族が、震える手でノートを開いていました。手袋もないむき出しの両手は、鋭い岩で擦れて血がにじみ、唇と歯茎からも出血が止まりません。それでも彼は、気圧計、温度計、湿度計、そして青色計(空の青さを測る装置)を取り出し、淡々と数値を書き留めていきました。

その人の名は、アレクサンダー・フォン・フンボルト、32歳。同行はフランス人植物学者のエメ・ボンプラン、エクアドル人カルロス・モントゥファル、そして数名の現地の案内人。彼らはこの日、5,878メートル地点まで到達します。これは欧州人として当時の世界記録でした(インカの民は何世紀も前に、これより高地の儀式遺跡を残しています)。
南米遠征の出発時、フンボルトとボンプランがスペインの港町ラ・コルーニャからピサロ号に積み込んだ機器の数は、五十点を超えていたといいます。望遠鏡、六分儀、磁気偏角計、空の青さを測る「青色計(シアノメーター)」——どれもこの時代の最先端でした。彼らはオリノコ川を遡り、アマゾン水系との連結を確認し、コロンビアの鉱山を踏査し、3年に及ぶ蓄積を経て、ついにアンデスの巨峰に挑んでいたのです。
しかし、この登山でフンボルトが本当に欲しかったのは「最高到達点」という栄誉ではありません。彼が欲しかったのは、データでした。標高ごとの気温、気圧、湿度、空の色、そして「何メートルにどんな植物が、何メートルにどんな動物が生息するか」という、徹底的に体系化された自然の地図。それを携えて山を下りた彼は、5年後、人類史上初の「インフォグラフィック」と呼ばれる一枚の絵を世に送り出すことになります。
なぜ、データに「絵」を添えたのか
18世紀末から19世紀初頭にかけて、ヨーロッパでは観測機器の精度が飛躍的に向上し、自然科学者たちは膨大な数値データを抱えるようになっていました。気温、気圧、緯度経度、磁気偏角、植物の分布——どれも単独では意味を持ちにくく、また数表のまま並べても、その関係性は見えてきません。
「データをどう見せるか」。この問いに、当時すでに先駆者がいました。スコットランドの技術者ウィリアム・プレイフェア(1759–1823)は、1786年に折れ線グラフと棒グラフを発明し、1801年には円グラフを世に出しています。経済データを線と面で表現する手法は、フンボルトにも強い影響を与えたとされています。
しかし、フンボルトの野心はもう一段階先にありました。彼が見せたかったのは、抽象的な数字ではなく、「自然そのものの全体像」だったのです。山の形、植生の帯、雪線の高さ、麓の村、空気の組成。それらが互いに作用し合いながらひとつの「絵」を成す。彼はこれをドイツ語でNaturgemälde(ナトゥアゲメルデ)と呼びました。直訳すれば「自然の絵」。しかしこの言葉には「統一」という意味も重ねられていたといわれます。
『植物の地理学』に挟まれた、一枚の革命
南米から戻ったフンボルトは、パリに腰を据えて膨大な観測記録の整理を始めます。21年に及ぶ大著『新大陸赤道地方への旅』の執筆——その第一巻として1807年に世に出たのが、『植物の地理学についての試論(Essai sur la géographie des plantes)』でした。文豪ゲーテに献辞された、わずか150ページほどの薄い本です。

ところがこの本には、ある驚異的な折込図版が挟まっていました。約54センチ×84センチの大判カラーリトグラフ。中央には、雪を抱いたチンボラソとコトパクシの巨大な断面図がそびえ、山肌には標高ごとに群生する植物の学名がラテン語でびっしり書き込まれています。麓には熱帯雨林の樹木、中腹にはキナノキ、上部にはコケ類。山頂は永久雪線のまっしろな世界。
そしてここからが革命的でした。山の左右両側には縦長の表が二段に組まれ、標高ごとの気温、気圧、湿度、沸点、空気の青さ、農作物の限界、人類の居住限界、動物の分布までが、すべて山の高さと位置を対応させて記載されているのです。一枚の画面のなかで、植物・気候・地質・動物・人間の活動が「同じ縦軸」で結びついている。読者は山を見上げるだけで、複雑な多次元データを直感的に理解できるという仕組みでした。
この図版の制作には分業が組まれていました。フンボルトの指示にもとづき、画家のシェーンベルガーとトゥルパンがデッサンを起こし、ブーケが彫版を担当、活字はオーベール、印刷はラングロワが請け負っています。科学者の頭脳と職人の技が結集した「協働作業の産物」だった点も、現代のインフォグラフィック制作チームを彷彿とさせます。
ローマの丘で——画家たちと交わった日々
フンボルトの帰国後、興味深い出来事がありました。彼の兄ヴィルヘルム・フォン・フンボルトは1802年からローマ駐在のプロイセン公使を務めており、ピンチョの丘の上にある「ヴィラ・マルタ」を住居の一つとしていました。1805年、アレクサンダーは兄を訪ね、しばらくこの邸宅に滞在しています。
ここに集っていたのが、当時のローマで活躍するドイツ語圏の芸術家たち——彫刻家ベルテル・トーヴァルセン、画家ヨーゼフ・アントン・コッホ、そしてヨハン・クリスティアン・ラインハルト(1761–1847)でした。ラインハルトは1789年からローマに移住していたドイツ出身の風景画家で、当時の最新の植物学的知見を絵に取り込むことで知られていました。彼が描く樹木の枝ぶり、葉の形、根元の地質——どれも科学的な正確さで描き分けられていたのです。
ラインハルトとフンボルト兄弟。直接の共同作業の記録はありませんが、データと絵画を融合させようとする時代精神のなかで、彼らが同じサロンで議論を交わしたことは想像に難くありません。
二十数年後の精密パノラマ——ラインハルトの『ヴィラ・マルタからの四つの眺望』
時は流れて1827年、バイエルン国王ルートヴィヒ1世がそのヴィラ・マルタを購入します。王はラインハルトに、ヴィラの塔から東西南北を見渡した4枚の大型眺望画を依頼しました。完成までには6年——1829年から1835年にかけての月日を要した大連作で、それぞれ高さ166.5センチ、幅約267センチのテンペラ画。現在はミュンヘンのノイエ・ピナコテークが所蔵しています。

この4枚は、当時のローマの街並みを驚くべき精密さで記録した「都市データ」でもありました。北の眺望には、サン・イシドロ修道院、ディオクレティアヌス浴場、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会、パラッツォ・バルベリーニの一翼が、それぞれ正確な相対位置で描き込まれています。南には旧市街の古い家並みとサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、クィリナーレ宮殿。西の眺望は最も独特で、画面の大半が屋根と煙突の連なりに覆われ、その奥にバチカンとサン・ピエトロ大聖堂が浮かび上がります。
英雄的・牧歌的な理想風景を描くことを生涯の信条としていたラインハルトにとって、この仕事は本意ではなかったといわれます。彼は知人への手紙のなかで、何日も屋根と煙突ばかり描き続ける作業を「酸っぱい仕事」とぼやいたとも伝えられています。しかし結果として残された4枚は、1830年前後のローマの相貌を一意的に記録した、写真以前の「ヴィジュアル・データセット」となったのです。
ラインハルトの仕事には、もうひとつ注目すべき側面があります。古典主義の理想風景画を制作する際にも、彼は樹木の種を識別できるほど正確に描き分けていました。前景に立つカシ、ピニア(イタリアカサマツ)、糸杉——どれも植物学者が一目で同定できるほどの忠実さで描かれています。「自然を理想化しつつも、観察を裏切らない」という彼の姿勢は、フンボルトが目指した「美と科学の統合」と、まさに同じ地平を見ていたといえるでしょう。
同時代の評価——熱狂と困惑のはざまで
フンボルトのナトゥアゲメルデは、出版当初、各国の学者から熱狂的に迎えられました。ゲーテは「詩と科学の婚姻」と讃え、若き日のチャールズ・ダーウィンは『ビーグル号航海記』への序章として、フンボルトの著作を熱心に読み込みます。アメリカ大統領トマス・ジェファーソンとも書簡を交わし、後の生態学・気候学・地理学の礎を築いた人物として、フンボルトの名声はナポレオン以外で当時もっとも高かったとされています。
一方で、すべての読者がすぐに理解できたわけではありませんでした。あまりに情報量が多く、数表と挿絵と地図と注釈が一枚の紙面に同居するこの図版は、当時の読書習慣からすれば極めて異質なものだったのです。「これは詩なのか、地図なのか、それとも科学論文なのか」と困惑する書評もありました。
ラインハルトのヴィラ・マルタ連作も、当時の評価は分かれました。ラインハルト自身が古典的・英雄的風景画を真の芸術と考えていたため、この精密なヴェドゥータ(眺望図)を「芸術ではない」と感じる批評家もいたのです。しかし時代が下るにつれ、その記録性と造形美の両立は再評価され、現在ではバイエルン国立絵画コレクションの重要作品となっています。
そして現代——情報デザインの祖先たちへ
フンボルト自身もナトゥアゲメルデを世に出した後、データ可視化の探究を止めませんでした。1811年にはメキシコの州ごとの面積と人口を比較する積み上げ棒グラフ(区分棒グラフ)を発表。1817年には、世界初の「等温線図」——気温の等しい地点を曲線で結ぶことで、緯度や高度を超えた気候帯の構造を可視化する地図——を公表しています。「気候は緯度だけでは決まらない」という今日の常識を、彼はたった一枚の図で証明してみせたのです。

19世紀後半、フンボルトに憧れたエルンスト・ヘッケル(1834–1919)が、生物の系統樹や放散虫の精密図譜を発表します。20世紀に入ると、オットー・ノイラート(1882–1945)が「アイソタイプ」というピクトグラム情報デザインの体系を確立。21世紀の現在、私たちは新型コロナウイルスの感染状況ダッシュボード、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の温暖化マップ、選挙速報のヒートマップを毎日のように目にしています。
これらすべての遠い祖先に、1807年のチンボラソの一枚があります。「データを並べるだけでなく、絵として見せる」「複雑な関係性を一目で把握させる」「美しさが理解を助ける」——フンボルトが目指したこの三つの理念は、200年以上を経た今もなお、優れた情報デザインの中核に生きています。
そして、ローマのヴィラ・マルタからラインハルトが描いた4枚の眺望もまた、私たちが「Google Street View」や「ドローンによる三次元都市モデル」で日常的に経験している「精密な空間記録」の遠い祖先です。当時、写真技術はようやくニエプスが実験を始めたばかり(1820年代後半)で、画家の眼と手こそが、世界を最も精密に保存する装置だったのです。
科学と芸術が分離する前の最後の時代に、フンボルトとラインハルトは「データに絵を添える」「絵にデータを忍ばせる」という発明を、それぞれの方法で実現しました。情報デザインの夜明けは、火山の稜線と、ローマの屋根のかたちのなかから訪れたのです。
基本データ
- 作品名(フンボルト)
- Naturgemälde der Anden(アンデスの自然絵図)/『植物の地理学』所収の折込図版
- 制作・出版
- 1807年(パリ/テュービンゲン同時出版)
- 形式・寸法
- 大判カラーリトグラフ、約54×84センチ
- 制作チーム
- 構想・指示:アレクサンダー・フォン・フンボルト/デッサン:ローレンツ・アドルフ・シェーンベルガー、フェリックス・トゥルパン/彫版:ブーケ/活字:L・オーベール/印刷:ラングロワ
- 収録書籍
- 『Essai sur la géographie des plantes(植物の地理学についての試論)』ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテに献辞
- アレクサンダー・フォン・フンボルト
- 1769年9月14日ベルリン生〜1859年5月6日同地没/プロイセン出身の博物学者・地理学者・探検家
- 作品名(ラインハルト)
- 『ヴィラ・マルタからの四つの眺望(Die vier Ansichten von der Villa Malta in Rom)』
- 制作年
- 1829〜1835年
- 形式・寸法
- テンペラ/カンヴァス、各約166.5×267センチ、4点組
- 依頼主
- バイエルン国王ルートヴィヒ1世
- 所蔵
- バイエルン国立絵画コレクション ノイエ・ピナコテーク(ミュンヘン)
- ヨハン・クリスティアン・ラインハルト
- 1761年ホーフ(バイエルン)生〜1847年ローマ没/ドイツの風景画家・銅版画家、1789年以降ローマ在住
Q&A
- フンボルトはチンボラソ山頂まで登れたのですか?
- 登頂はできませんでした。1802年6月23日、頂上の手前で深いクレバス(氷の裂け目)に進路を阻まれ、5,878メートル地点で引き返しています。それでもこの高度は欧州人として当時の世界記録で、その後30年近く破られませんでした。なお、後年の測量で、地球が完全な球体ではなく赤道方向にやや膨らんだ楕円体であることが分かり、地球中心からの距離で測ればチンボラソ山頂はエベレストよりも遠い、つまり「地球の中心からもっとも離れた地点」とされています。
- 「インフォグラフィック」という言葉はいつ生まれたのですか?
- 「Infographic」という英単語自体は20世紀後半に普及した比較的新しい言葉です。フンボルトの時代には存在しませんでした。フンボルトのナトゥアゲメルデは、後世の研究者が「データ可視化の最初期の傑作」「人類史上初のインフォグラフィック」と評価し直したものです。とはいえ、複数の異種データを一枚に統合して直感的に伝えるという方法論は、まさに現代のインフォグラフィックの定義そのものといえます。
- ラインハルトとフンボルトには直接の共同作業はあったのですか?
- 共同制作の記録は確認されていません。ただし、ラインハルトはフンボルトの兄ヴィルヘルムが公使を務めたローマのヴィラ・マルタに集まる芸術家サークルの一員であり、フンボルト兄弟の社交圏に属していたことは資料から確認できます。共通の知人にゲーテ、トーヴァルセン、ヨーゼフ・アントン・コッホなどがおり、両者が同じ時代精神のなかで「観察に基づく精密な視覚化」を追求していたことは確かです。
- 当時、ナトゥアゲメルデはどう印刷されたのですか?
- 当時最新だったリトグラフ(石版印刷)の技術が用いられました。複数の画家・彫版師・植字工・印刷工が分業で関わる本格的な制作でした。原案を描いたフンボルト自身は印刷工房に何度も足を運び、色合いや書体の指示を細かく出していたとされています。これは現代の編集プロダクションと変わらない協働作業のかたちです。
- 現代でナトゥアゲメルデはどこで見られますか?
- 原本のリトグラフは欧米の主要図書館(米国議会図書館、ベルリン国立図書館、エール大学バイネキ稀覯本図書館など)が所蔵しています。デジタルアーカイブとしてWikimedia Commonsなどで高解像度画像を閲覧できるほか、英訳全訳がシカゴ大学出版局から刊行されており、原図のカラー複製も収録されています。
参考文献
- Alexander von Humboldt – Wikipedia
- https://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_von_Humboldt
- Johann Christian Reinhart – Wikipedia
- https://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Christian_Reinhart
- Johann Christian Reinhart | Hamburger Kunsthalle
- https://www.hamburger-kunsthalle.de/en/johann-christian-reinhart
- Sammlung | Blick von der Villa Malta in Rom nach Norden(バイエルン国立絵画コレクション)
- https://www.sammlung.pinakothek.de/de/artwork/ApL8q1RGN2
- The Exquisite 19th-Century Infographics That Explained the History of the Natural World – Atlas Obscura
- https://www.atlasobscura.com/articles/the-exquisite-19th-century-infographics-that-explained-the-history-of-the-natural-world
- Looking at Nature through the Eyes of Alexander von Humboldt | Esri ArcUser
- https://www.esri.com/about/newsroom/arcuser/looking-at-nature-through-the-eyes-of-alexander-von-humboldt
- Humboldt’s legacy | Nature Ecology & Evolution
- https://www.nature.com/articles/s41559-019-0980-5
- Alexander von Humboldt and the Rise of Infographics | Nightingale
- https://medium.com/nightingale/alexander-von-humboldt-and-the-rise-of-infographics-80f9e750ba87
- Milestones in the History of Thematic Cartography, Statistical Graphics, and Data Visualization
- https://www.datavis.ca/milestones/
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