横尾忠則と放射光|1965年、日本発サイケデリック・グラフィックの衝撃

横尾忠則と放射光|1965年、日本発サイケデリック・グラフィックの衝撃

目次

首吊り男のポスターが、松屋銀座の壁を埋めた日

1965年11月12日、東京・銀座の松屋デパート。「グラフィックデザイン『ペルソナ』」と題されたグループ展の会場に、奇妙なポスターが現れた。
黒いスーツを着た男が、ロープで首を吊っている。手には赤いバラ。背後では、青と赤の太い光線が放射状に画面の隅々まで突き刺さっている。
英語のキャプションにはこう書かれていた。「Having Reached A Climax At The Age Of 29, I Was Dead」――29歳でクライマックスを迎え、ぼくは死んだ。

男は作者自身、横尾忠則。当時29歳。会期はわずか6日間で、来場者は3万5000人を超えた。日本のグラフィックデザイン史でしばしば「事件」と呼ばれる、あの場面である。

ペルソナ展に名を連ねた若手デザイナーは11人。粟津潔、福田繁雄、細谷巖、片山利弘、勝井三雄、木村恒久、永井一正、田中一光、宇野亜喜良、和田誠、そして横尾。いずれも日宣美(日本宣伝美術会)の出身で、その後の日本のグラフィックデザイン界を支えていく面々だ。招待デザイナーには亀倉雄策、ポール・デイヴィス、カール・ゲルストナーらが並んだ。展覧会名を「ペルソナ」と命名したのは批評家の勝見勝で、図録の序文に「チームワークと無名の行為を求めつづけられてきたペルソナの人々が、個性の表現を指向しはじめた」と書いた。
無名の集合体から、個の表現へ。1955年の「グラフィック55」展、1964年の東京オリンピック、すべては抽象化と機能美に向かって整列していた。その整列を、横尾は一発で乱した。

戦争に負けた光を、もう一度燃やす

横尾が背景に置いた赤と青の放射光は、当時の日本のデザイナーが触れたがらないものだった。
旭日。十六条の光線を持つ太陽。戦時中の旭日旗、戦艦の艦尾、神社の祭礼幕、そして戦前のマッチ箱のラベルや麦酒のキャップに繰り返し現れた図像である。連合国軍は戦後、旭日旗の使用を禁止した。デザイン界では、その記憶が忌避され、戦後のグラフィックは無印良品のような白さに向かっていく。

横尾はそれを引っ張り出した。

しかも、引っ張り出した先は1965年。東京オリンピックの翌年、戦後復興がほぼ完成し、日本人がアメリカを目指して走り始めた瞬間に、戦前のキッチュを蘇らせたのだ。これは郷愁ではない。皮肉でもない。本人の証言から推測できるのは、もっと身体的な動機だった。

横尾は1936年、兵庫県西脇市の生まれ。叔父夫妻の養子に入って育った先は呉服商で、店には反物のレッテルや包装紙が山のように積まれていた。日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴに残る本人インタビューで、横尾はこう振り返っている。「ぼくの郷里が呉服商やってたんです。呉服商のラベルとか、家の中にいろんなその頃転がってたレッテル、ラベルのことなんですけど、そういったものにはこういうアサヒのマークというのかな、そんなものがゴロゴロあったんです」「マッチのラベルとかね。ぼくにとってはこういったものがすごい忌々しいものとして。土着的なもので」。

戦前のアサヒビールのトレードマーク――旭日と波。マッチ箱のラベルに刷られた光線。仏像の背後に立つ光背の放射。子どもの横尾の周囲を埋めていた図像群は、戦後のモダニズム・デザインが排除したものと、ほぼ完全に重なっていた。

1960年に上京し、田中一光らが主導する日本デザインセンターに入社した横尾は、皮肉なことにアサヒビールを担当する。「アサヒビールがぼくは担当だったからね、毎日朝から晩までこればっかり見てるわけです。ロゴというかキャップ。キャップに旭日と波の絵がある」。毎日見続けた「忌々しいもの」を、5年後、自分の死亡告知ポスターの背景に据えた。

三島由紀夫が、画廊にやってきた

ペルソナ展の少し前、1965年の春、東京・吉田画廊で横尾の最初の個展が開かれた。来客のひとりに作家の三島由紀夫がいた。

三島は40歳。すでに『金閣寺』も『鏡子の家』も書き終え、ボディビルと武道に没頭し始めていた頃である。横尾の作品の前で、三島は何かを見つけた。翌1966年、三島は雑誌『女性自身』に「終りの美學」を連載し、横尾にイラストとポスターを発注する。
この出会いから二人の交流が始まり、1968年に刊行された横尾の最初の作品集『横尾忠則遺作集』には、三島が序文を寄せた。32歳のグラフィックデザイナーの「遺作集」――この皮肉な命名自体が横尾的だ。

三島が書いた一節は、横尾論として今も繰り返し引用されている。

横尾忠則氏の作品には、全く、われわれ日本人内部にあるやりきれないものが全部露呈していて、人を怒らせ、怖がらせる。何という低俗のきわみの色彩だろう。横尾は戦争で亡くなった人たちの英霊が宿る神社の見世物看板の色彩の土俗性と、アメリカのポップアートのコカ・コーラの赤い容器を並列させて、その2つの驚くべき類似性を目の前に差し出す。その類似性は、私たちの現実であるが、私たちが見たくないものである。

三島由紀夫「序文」『横尾忠則遺作集』1968年

ここで三島が指摘したのは、横尾の方法論そのものだった。靖国の祭礼看板の赤と、コカ・コーラの赤は、視覚的にほとんど区別がつかない。戦時下日本のキッチュと、戦後アメリカのポップ・アートは、底のところで地続きである。そのことを見せつけられて、日本人は不愉快になる。三島はその不愉快さを「私たちが見たくないもの」と呼んだ。1970年、三島は市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺する。

サンフランシスコの「光」と、ぶつかった偶然

1965年から1967年にかけて、太平洋の両側で、独立に「放射光」が燃え始めていた。

サンフランシスコでは、ウェス・ウィルソン(Wes Wilson)が1965年に最初のポスターを自費出版し、1966年2月からビル・グレアムのフィルモア・オーディトリアムのために、ロック・コンサート用ポスターの量産を開始する。グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン、ジャニス・ジョプリンを擁するビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー。鮮やかな蛍光色、読みづらいまでに歪んだレタリング、有機的にうねる装飾。1967年、雑誌『Time』はこの様式を「Nouveau Frisco」と命名し、ウィルソンをその第一人者と呼んだ。

横尾とウィルソン、二人に直接の接点はなかった。横尾の旭日は神社の祭礼看板から来ており、ウィルソンの光と曲線はアルフレッド・ロラーをはじめとするウィーン分離派や、アルフォンス・ミュシャのアール・ヌーヴォーから来ていた。
それでも、両者のポスターを並べると不思議な符合がある。サイケデリック・ロックのリスナーがアシッドで見ようとしていた光と、戦前日本のマッチ箱に刷られていた光は、視覚的にほぼ同じ振幅で観客の網膜を叩いた。SFMOMAの横尾紹介文は、1965年のあの自殺ポスターについて、簡潔にこう記す。「サンフランシスコの1960年代後半のサイケデリック・ポスター・アートを先取りしていた(anticipates)」。

ウィルソンが知らないうちに横尾はそれを発射しており、横尾が知らないうちにウィルソンは同じ波長に乗っていた。これは影響関係ではなく、同時代性の事件である。世界中の若い視覚が、ほぼ同時に、抑圧されてきた色彩への渇きを発見した。

ニューヨークに渡った旭日

1967年、MoMA(ニューヨーク近代美術館)が横尾のポスター14点を購入する。
翌1968年、同館のグラフィックデザイン部門アソシエイト・キュレーター、ミルドレッド・コンスタンティンが企画する大型展「Word and Image: Posters and Typography from the Graphic Design Collection of the Museum of Modern Art, 1879–1967」が開幕。19世紀末から1967年までの世界のポスター約300点を集めた、ポスター史上の画期的な展覧会だ。展示のためのオリジナル・ポスターを依頼されたのは、新進気鋭の31歳の日本人――横尾忠則だった。

横尾の応答は鮮やかだった。
画面上部に4つの口を並べてWord(言葉)を表し、下部に巨大な目をひとつ置いてImage(イメージ)を表す。背景は赤・白・青に塗り分けられた放射光。日本の旗の赤白ではなく、星条旗の三色である。日本のキッチュを、アメリカ仕様にチューニングした。

1969年、第6回パリ青年ビエンナーレで版画部門グランプリ。1972年2月25日から6月7日まで、MoMAは『Graphics by Tadanori Yokoo』と題する横尾個展を開催した。コンスタンティンの企画。36歳のアジアの一デザイナーが、ニューヨーク近代美術館のホワイトキューブを占拠した。続いて1973年にハンブルク工芸美術館、1974年にアムステルダム市立美術館で個展。同じ1974年、ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレ金賞。

欧米の批評家たちは、横尾を「日本のアンディ・ウォーホル」「ピーター・マックスのアジア版」と呼びたがった。比較される側の困惑は、Tateの解説をはじめ複数の美術館アーカイヴが繰り返し記している。「彼の複雑で多層的なイメージは、激しく自伝的であり、完全にオリジナルである」。ウォーホルが消費社会の表面を冷たく反射したのに対し、横尾の表面は、戦争で焼かれた日本と、その後にやってきた経済成長と、呉服商の店先のレッテルを、一枚に圧縮していた。

「最高に低俗」が、世界に届くまで

なぜ横尾はニューヨークに届いたのか。

ひとつは、彼が西洋の物差しに合わせなかったから、と言える。1960年代の日本のデザイン界は、スイス国際様式や亀倉雄策のクリーンなモダニズムに憧れていた。輸出するなら、それを磨いて差し出すのが順当だった。横尾はその真逆を行った。世界中のグラフィックデザインがフラットに、抽象に、無印化に向かうとき、彼は祭礼の見世物看板を、靖国の幟を、戦前のマッチ箱を引っ張り出して、シルクスクリーンに焼き付けた。
結果として、ニューヨークの観客は「日本のグラフィック」を見ているのではなく、「彼らがまだ見たことのない何か」を見ることになった。

もうひとつは、サイケデリック・カルチャーとの同時代性が、観客側に翻訳の準備をさせていたからだろう。1967年のサマー・オブ・ラブを通って1968年に横尾のWord Imageポスターを見た人は、すでにフィルモアのポスターを見慣れている。鮮やかな色、密度の高い構図、歪んだ象徴。横尾はその文法で読まれた。ただし読み終わったあと、もう一段深いところに別の地層があった――それは祭礼と戦争と土俗の地層で、フィルモアのポスターには存在しないものだった。

1970年、横尾はインドを旅し、自動車事故で長期入院する。これを境に作品はヒンドゥー教や仏教の宇宙論を吸い込み、放射光は宗教的な光と重なっていく。1980年にニューヨークのMoMAで開催されたパブロ・ピカソの大回顧展を観た横尾は、翌1981年、「グラフィックデザイナーとして入って、画家として出てきた」と語り、画家への転身を宣言する。

いまも、光は燃えている

横尾は2026年5月現在、89歳。神戸の横尾忠則現代美術館では年に4回のペースで企画展が組まれ、世田谷美術館では2025年春に『連画の河』展が開かれた。150号を中心とする油彩約60点が並んだ。1日に1〜3枚のキャンバスを進めるペースで、新作は今も止まらない。

放射光の図像も、いつのまにか彼の名刺になった。横尾の図版が並ぶ画集を開けば、1965年の自殺ポスター、1968年のWord Image、1970年の大阪万博・繊維館ポスター、1980年代以降の絵画の中の太陽、2010年代のY字路シリーズの空――半世紀を超えて、同じ赤い光線が何度も登場する。
かつて三島由紀夫が「最高に低俗な色彩」と書いた光は、今では国際的なジャパニーズ・ポップ・アートの記号になり、ファッション・ブランドやアルバム・カバーに引用され続けている。低俗が高尚に格上げされたのではなく、低俗のまま高尚と並列されている。三島が見抜いたとおりの並列である。

戦時に動員され、戦後に封印され、デザイン界からも忌避されていた一群の図像が、29歳のグラフィックデザイナーの首吊りポスターの背景で再点火し、ニューヨークまで届いて世界の視覚言語に組み込まれていった。1965年11月の松屋銀座で起きていたのは、そういう種類の出来事だった。

基本データ

作家名
横尾忠則(Yokoo Tadanori)
生年
1936年6月27日(兵庫県西脇市)
国籍
日本
主な活動拠点
東京、神戸
主要なキャリアの転機
1956年 神戸新聞社入社/1960年 日本デザインセンター入社/1965年 ペルソナ展で《Tadanori Yokoo》発表、第11回毎日産業デザイン賞受賞/1967年 MoMAがポスター14点を収蔵/1968年 MoMA「Word and Image」展のポスター制作/1969年 第6回パリ青年ビエンナーレ版画部門グランプリ/1972年 MoMA個展「Graphics by Tadanori Yokoo」(企画:Mildred Constantine)/1974年 ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレ金賞/1981年 画家転身を宣言/2012年 横尾忠則現代美術館(神戸)開館/2015年 第27回高松宮殿下記念世界文化賞/2023年 文化功労者に選出
代表作(グラフィック・デザイン)
《Tadanori Yokoo: Made in Japan, Having Reached A Climax At The Age Of 29, I Was Dead》1965年/《腰巻お仙 ジョン・シルバー》1966年/《Word Image》1968年/《拷問》1969年(パリ青年ビエンナーレ・グランプリ受賞作)
放射光モチーフの起源(横尾本人と研究者による言及)
戦前のアサヒビールのトレードマーク(旭日と波)/マッチ箱・呉服のレッテル等、戦前の日本の商業デザイン/旭日旗・神社の祭礼幕等の伝統的視覚文化/仏教美術の光背

Q&A

横尾忠則の「放射光」は、いつから彼の作品に登場するようになったのですか?
1965年11月のペルソナ展で発表されたポスター《Tadanori Yokoo: Made in Japan, Having Reached A Climax At The Age Of 29, I Was Dead》が確認されている最初の本格的使用例とされる。Cooper Hewitt(スミソニアン)も、横尾が「太陽の光線」を最初に使った作品としてこのポスターを挙げている。以降、放射光は横尾の生涯のシンボルになった。
旭日のモチーフは戦争を肯定する記号ではないかと、当時批判はなかったのですか?
ペルソナ展直後から「戦時の記憶を呼び起こす」という意味で議論はあった。ただし横尾自身は、旭日を国威の象徴として使ったのではなく、戦前の日本人の生活のなかにあった商業デザインの記憶――マッチ箱、ビール瓶のキャップ、呉服のレッテル――として引用している。三島由紀夫はこの両義性を見抜き、「靖国の見世物看板の土俗と、コカ・コーラの赤い容器との並列」と表現した。
横尾はサンフランシスコのサイケデリック・ポスター運動を知って影響を受けたのでしょうか?
時系列を辿る限り、影響関係というより同時代性に近い。Wes Wilsonが最初のフィルモア用ポスターを描き始めるのは1966年2月。横尾の自殺ポスターは1965年11月。両者は別々の出自から、ほぼ同時期に「鮮やかな色彩と放射状の構図」に到達した。SFMOMAは横尾のポスターについて「サンフランシスコのサイケデリックを先取りしていた」と評価している。
なぜ三島由紀夫は横尾忠則をそこまで評価したのでしょうか?
三島が横尾に見たのは、戦後の日本人が「整えられたモダン」の下に隠してきた土俗的な視覚を、平気で、しかも商業デザインの装置で露出させる態度だった。1968年の『横尾忠則遺作集』の序文で三島は「何という無礼な芸術であろう。このエチケットのなさ!」と書きつつ、その背後に「厳粛なもの」を見ている。三島自身の天皇制や肉体への関心とも響き合う部分があった。
MoMAの個展はどのくらいの規模だったのですか?
1972年2月25日から6月7日まで、約3か月半にわたって開催された。タイトルは『Graphics by Tadanori Yokoo』。企画はミルドレッド・コンスタンティン(同館グラフィックデザイン部門アソシエイト・キュレーター)。これに先立って1967年に同館がポスター14点を収蔵し、1968年の『Word and Image』展のためのポスター制作依頼があり、それらの成果を踏まえて個展に至った。

参考文献

Tadanori Yokoo オーラル・ヒストリー|日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ
https://oralarthistory.org/archives/interviews/yokoo_tadanori_01/
Graphics by Tadanori Yokoo – Exhibition|The Museum of Modern Art
https://www.moma.org/calendar/exhibitions/2641
Fluorescent Word and Image|Cooper Hewitt, Smithsonian Design Museum
https://www.cooperhewitt.org/2020/01/08/fluorescent-word-and-image/
Tadanori Yokoo: Between Painting and Graphic Art|Artforum
https://www.artforum.com/features/tadanori-yokoo-between-painting-and-graphic-art-207982/
Work of the Week: Tadanori Yokoo’s Self-Obituary|ArtReview
https://artreview.com/work-of-the-week-yokoo-tadanoris-self-obituary/
グラフィックデザイン展<ペルソナ>50年記念 Persona 1965|ギンザ・グラフィック・ギャラリー
https://www.dnpfcp.jp/gallery/ggg/jp/629
Tadanori Yokoo|Tate
https://www.tate.org.uk/whats-on/tate-modern/world-goes-pop/artist-biography/tadanori-yokoo
How a Psychedelic Concert Poster Rocked the World|Smithsonian Magazine
https://www.smithsonianmag.com/arts-culture/psychedelic-concert-poster-rocked-world-180958780/
YOKOO Tadanori(横尾忠則)|Dictionary of Artists in Japan, Art Platform Japan
https://artplatform.go.jp/artists/A2050
From the Collection: Tadanori Yokoo|Letterform Archive
https://letterformarchive.org/news/tadanori-yokoo/

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