ヒッチコック『めまい』の螺旋|ソール・バスと対空砲が描いたリサジュー曲線

ヒッチコック『めまい』の螺旋|ソール・バスと対空砲が描いたリサジュー曲線

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1958年5月9日、サンフランシスコ、メイソン・ストリート420番地。ステージドア劇場で『めまい』のワールド・プレミアが始まった。場内が暗転し、女性の顔のクロースアップが浮かぶ。唇から鼻、そして瞳孔へと、カメラが5段階のズームで寄っていく。右目だけがスクリーン一面を埋め、赤く染まる。

そこから螺旋が湧き上がった。回転しながら色を変え、伸縮し、解けてはまた巻き直す。バーナード・ハーマンの管弦楽は、ハープと弦で上昇と下降を同時に鳴らしていた。アルフレッド・ヒッチコックの新作は、まだひとつの台詞も発していない。けれども観客の内耳には、すでに「落ちる」感覚が始まっていた。

オープニング・タイトル、わずか2分余り。デザインの教科書はこれを「ソール・バスの傑作」と呼ぶ。ただ、画面上で回る螺旋を実際に描いていたのは、第二次大戦の対空砲を改造した850ポンドの機械だった。19世紀フランスの音響物理、対空砲の照準装置、そして「タイトルは物語の気候だ」と信じたひとりのデザイナー。3つの系譜が1958年のパラマウントで交差して、落下を映像で描くための文法がそこから生まれた。

タイトルがカーテンだった時代

『めまい』の少し前まで、ハリウッドの映画タイトルは「カーテン」だった。劇場の幕にタイトルが投影され、本編が始まる直前に幕が上がる。タイトルと映画はまだ別の存在で、観客が受け取るのは「今からこの作品を観ます」という前置きにすぎなかった。

ニューヨーク・ブロンクス出身のグラフィック・デザイナー、ソール・バス(1920–1996)が、その状況を変えていく。1955年、オットー・プレミンジャー監督『黄金の腕』。ジャズ・ミュージシャンの薬物依存を真正面から扱ったタブー作で、バスは黒地に「歪んだ腕」の切り紙アニメーションを置いた。文字は跳ね、伸び、画面の中を歩く。のちに「キネティック・タイポグラフィ」と呼ばれるようになる技法の出発点だった。

タイトルが物語の続きでも、要約でもなく、物語に入る前の心理的助走になる。バス本人の言葉でいえば「物語の気候(climate)」を作ること。3年後、ヒッチコックがバスをパラマウントに呼んだのは、その発想を必要としたからだ。

サンフランシスコの空ではなく

ヒッチコックの当初の案は素朴だった。サンフランシスコの街並みの上にタイトルを重ねる、観光都市映画として撮影地への敬意を示すよくあるやり方。バスは別の方向を提案する。

これから始まるのは、高所恐怖症で警察を辞めた元刑事スコッティが、ある女性に執着し、やがて自我を失っていく物語だ。原作はピエール・ボワロー&トーマ・ナルスジャックの『死者の中から』(1954)。空撮では「気候」が作れない。バスが取り出したのは、19世紀フランスの物理学者ジュール・リサジュー(1822–1880)の名を冠した曲線だった。

直交する2つの振動を合成すると、光の点は閉じた輪を描く。周波数比を変えれば、曲線は無限に違うアラベスクになる。先に調べたのはアメリカのナサニエル・ボーディッチ(1815年)だが、1857年に音叉と鏡を使って体系的に可視化したリサジューの名で呼ばれるようになった。19世紀には音響物理の教材として広まり、振動の比率を目で確かめるための道具だった。バスはこの図形を、回転しながら描かせたい、と注文した。

問題はその実現方法だった。

850ポンドの対空砲

当時のアニメーション・スタンドは、回転させると内部の配線が絡まる。フリーハンドで描けば方程式の精度が失われる。リサジュー曲線を映画の品質で連続生成できる装置は、世界のどこにも存在しなかった。

バスはその数年前、ある建築インスタレーションで、ガラスの間仕切りに螺旋がエッチングされた作品を見ていた。作者はジョン・ホイットニー(1917–1995)。パサデナ生まれ、ポモナ・カレッジを卒業後、1937年にパリで作曲家ルネ・レボヴィッツに12音技法を学んだ、音楽出身のアニメーション作家。すでに10年近く、永久に回転する撮影台の発明に取り組んでいた男だった。

ホイットニーが答えを見つけたのは、軍の払い下げ店の中だった。M5対空砲ディレクター。イギリスのカーリソン・プレディクターをアメリカが製造したもので、低空を高速で飛ぶ敵機を自動追尾するための機械式アナログ・コンピュータだった。重量850ポンド(約385キロ)、部品点数1万1000点、戦場で操作するのに兵士5人を必要とした。

ホイットニーは砲塔の回転軸の上にアニメーション・セルを乗せ、天井から振り子を吊した。振り子の先には、24フィート(約7メートル)上に置かれた加圧式インク・タンクから伸びるペン。砲塔の連続回転と振り子の周期運動を組み合わせると、配線を絡ませずに正確なリサジュー螺旋が紙の上に現れた。彼はこの運動を「インクリメンタル・ドリフト(漸進的な漂流)」と呼んだ。

敵機を撃ち落とすために設計された機械が、絵を描いていた。

ハーマンの音、ホイットニーの渦

オープニング・シークエンスは前後の二部に分かれる。前半は女性の顔の極端なクロースアップ。カメラは唇、鼻、両目、右目へと段階的に寄っていく。ハーマンの「プレリュード」は、上昇する音型と下降する音型を同時に鳴らす。耳から「めまい」が始まる。

この顔は、実はキム・ノヴァクではない。演じたのはオードリー・ローウェルという、ほとんど知られていない女優だった。ノヴァク本人はこのシークエンスに出たがっていたが、彼女を抱えるコロンビアの社長ハリー・コーンが、たった1日の撮影に満額のギャラを要求した。そこで別の顔が選ばれた。バスは後年、その顔を「固有であると同時に普遍的」と評している。夢の中で誰かの顔が知らない誰かにすり替わるように、映画が始まる前から、観客は別人を見せられていた。

『Vertigo』のロゴが瞳孔から拡大すると、画面は彼女の網膜の内側に入り込む。後半は、ホイットニーの装置が描いたリサジュー曲線の連続変奏。色相は冷色から暖色へ、形は単純な楕円から複雑な格子へと自動変化する。一つひとつの曲線は方程式から生成されているのに、スクリーン上では数式に見えない。映っていたのは、ひとりの女性の脳内で何かが解けていく予兆だった。

バスは後年こう振り返っている。「『めまい』に特有のあの落ち着かない状態、それと神秘のムードを表現したかった。目のイメージと、強烈に美しい動くイメージを並置することでそれをやろうとした。19世紀のフランスの数学者が数式を可視化するために考案したリサジュー図形に、私は数年前から惚れ込んでいた」

ハーマン自身の音楽もリサジュー的だった。スコアはワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を強く下敷きにしている。ただし音楽批評家アレックス・ロスによれば、旋律の輪郭も和声もハーマン自身のもので、引用は意図的に覆い隠されている。知っている者の記憶を、知らない者の無意識を、そっとつつくように置かれた。落下する愛、解決しない緊張、永遠に回り続ける渦。音響と視覚の両方で、同じ図形が回っていた。

バスは『めまい』の広告キャンペーンも引き受けている。ポスターの人物を描いたのは、30年以上バスの事務所を支えたアート・グッドマン。グッドマンの回想によれば、バスの指定は明確だった。男は黒いシルエットで、女は幽霊のような淡い輪郭線で。実体のある男と、実体のない女が、同じ渦に吸い込まれていく。映画の仕掛けそのものが、一枚の紙の上で先に明かされていた。ヒッチコック作品でバスが広告まで任されたのは、この一本だけである。

公開時、観客は気づかなかった

『ヴァラエティ』はヒッチコックの「手腕」を認めつつ、「本質的には心理的な殺人ミステリーにすぎない」ものにしては「長すぎるし遅すぎる」と書いた。ロサンゼルス・タイムズのフィリップ・K・シュアーは風景を褒めたうえで、物語が「展開するのに時間がかかりすぎる」「細部の迷路にはまり込んでいる」と指摘した。『ニューヨーカー』のジョン・マッカーテンはさらに辛辣で、ヒッチコックが「これほど突拍子もないナンセンスに耽溺したことはない」と評した。

興行も振るわなかった。製作費約248万ドルに対し、北米の配給収入は320万ドル。かろうじて損益は回収したものの、ヒッチコック作品としては大きく見劣りする数字だった。アカデミー賞は美術監督・録音の二部門ノミネートに終わり、いずれも受賞は逃した。ヒッチコック自身は後年、49歳のジェイムズ・スチュワートが24歳のノヴァクの相手役として老けて見えたことを不振の理由に挙げている。

ヒッチコック自身、この失敗を引きずる。1973年に彼は本作をすべての上映から引き上げた。再公開は1983年——彼の死後3年。バスの螺旋が公式の上映ルートから消えているあいだに、批評の側だけが静かに動いていた。

2012年、英『サイト・アンド・サウンド』誌の10年に一度の批評家投票で、『めまい』は50年間トップを守ってきた『市民ケーン』を引きずり下ろし、「史上もっとも偉大な映画」一位になった。2022年の同じ投票では、シャンタル・アケルマン『ジャンヌ・ディエルマン』(1975)に席を譲って二位に下がっている。

落下を描く文法

ヒッチコックは本編の中でも別の発明をした。鐘楼の階段を見下ろすスコッティの主観ショット。ドリーで後退しながら同時にズームインする技法で、第二班撮影監督のアーミン・ロバーツ(Irmin Roberts)が、ヒッチコックの注文に応えて編み出した。被写体のサイズは保ったまま、背景だけが伸び縮みする。見ている自分の足元が突然消失する感覚。ロバーツの名は、本編のクレジットに載らなかった。

この技法はのちに「ドリー・ズーム」「ヒッチコック・ズーム」「めまい効果(Vertigo effect)」と呼ばれ、スピルバーグ『ジョーズ』、スコセッシ『グッドフェローズ』、ジャクソン『ロード・オブ・ザ・リング』へと受け継がれていく。

タイトル・シークエンスのリサジュー螺旋と、本編のドリー・ズーム。どちらも、視覚でしか伝えられない心理を独自の文法で打ち立てている。

渦は今も回っている

ホイットニーがバスのために組み上げたM5の改造機は、後年「映画における初期コンピュータ・アニメーション」と位置づけられるようになる。彼自身は1960年にMotion Graphics Inc.を設立。1966年にIBM初代アーティスト・イン・レジデンスに招かれ、1972年にはUCLAで世界最初のコンピュータ・グラフィクスの授業を担当した。

砲塔から発明された「連続回転する撮影台」は、1970年代以降のSFXに欠かせないモーション・コントロール撮影の直接の祖先になった。『スター・ウォーズ』(1977)以降、カメラが被写体に対して正確な軌道を反復するあの撮影法の遠い源流が、『めまい』のオープニングで回り続けていた螺旋にある。

バスのほうは、ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』(1959)、『サイコ』(1960)のタイトルを続けて手がけ、AT&T、ユナイテッド航空、クエーカー・オーツの企業ロゴを残した。1955年に『黄金の腕』を観るため映画館に忍び込んだニューヨークの少年は、30年以上たって、憧れの人がまだ現役だと知る。マーティン・スコセッシは妻エレイン・バスとの共作で『ケープ・フィアー』『エイジ・オブ・イノセンス』『カジノ』(1995)のタイトルを発注した。

そのスコセッシが2004年に『サイト・アンド・サウンド』誌で語った言葉が、この映画の構造をよく言い当てている。ヒッチコックの映画は執着についての映画であり、それは同じ瞬間へ何度も回帰することを意味する。そして音楽もまた、螺旋と円、成就と絶望を軸に組み立てられている——。

リサジューが2本の音叉から導いた曲線は、19世紀には物理学の教材だった。20世紀半ば、戦争に使われた計算機の上で踊り、映画のオープニングを染め上げ、観客の脳裏に落下の予感として残った。2021年、Meta社がFacebookから社名変更した際に新ロゴとして採用したのもリサジュー曲線(a=1, b=–2)で、オーストラリア放送協会のシンボルもそう。スクリーンの中で何かが回り始めるとき、そこには対空砲の遠い余韻が、わずかに残っている。

基本データ

作品名
Vertigo(邦題『めまい』)
監督
アルフレッド・ヒッチコック
公開
1958年5月9日 ワールド・プレミア(ステージドア劇場、サンフランシスコ)
原作
ピエール・ボワロー&トーマ・ナルスジャック『死者の中から(D’entre les morts)』(1954)
音楽
バーナード・ハーマン
製作会社
Alfred J. Hitchcock Productions / 配給 Paramount Pictures
製作費 / 興行
約2,479,000ドル / 北米配給収入 約320万ドル(損益は回収したが、ヒッチコック作品としては不振)
タイトル・シークエンス
ソール・バス(デザイン/アートディレクション) × ジョン・ホイットニー(アニメーション)。冒頭の顔はオードリー・ローウェル。製作はナショナル・スクリーン・サービス
ポスター
ソール・バス(デザイン) × アート・グッドマン(人物作画)
ソール・バス
1920年5月8日ニューヨーク・ブロンクス生 – 1996年4月25日ロサンゼルス没。アート・スチューデンツ・リーグ、ブルックリン・カレッジでジョルジ・ケペッシュに師事
ジョン・ホイットニー
1917年4月8日カリフォルニア州パサデナ生 – 1995年9月22日ロサンゼルス没。ポモナ・カレッジ卒。1966年IBM初代アーティスト・イン・レジデンス
使用機材
M5対空砲ディレクター(英カーリソン・プレディクターの米国版)を改造。重量850ポンド、部品点数1万1000点
描画手法
リサジュー曲線を機械式アナログ・コンピュータで描画。曲線はナサニエル・ボーディッチが1815年に、ジュール・リサジュー(1822–1880)が1857年に詳しく研究した

Q&A

『めまい』のオープニングは本当に「最初のコンピュータ・アニメーション」と呼べるのですか?
機械式アナログ・コンピュータ(M5対空砲ディレクター)を改造して数式で図形を生成し撮影した点で、「映画における初期コンピュータ・グラフィクス」とする評価が定着しています。デジタル・コンピュータによるCGIが本格化するのは1970年代以降ですが、『めまい』のシークエンスはその直系の祖先として位置づけられます。
ソール・バスがすべてを描いたのですか?
バスはコンセプト、ストーリーボード、デザイン、アートディレクションを担当しました。螺旋アニメーションを生成したのはジョン・ホイットニーです。パット・カーカムの研究によれば、バスもホイットニーも曲線の形そのものを「デザイン」したわけではなく、数式で指定された図形を生成・撮影したことになります。ポスターの人物(黒いシルエットの男と、幽霊のような淡い輪郭の女)を描いたのはアート・グッドマン。レタリングの実作業については記録が乏しく、ヒッチコック/プレミンジャー作品の多くをハロルド・アドラーが担当したという証言が残っています。
本編で有名な「ドリー・ズーム」は誰が発明したのですか?
第二班撮影監督のアーミン・ロバーツが、ヒッチコックの「めまいの感覚を視覚化したい」という要求に応えて編み出しました。ヒッチコックは数年前から効果のアイデアを温めており、ロバーツが技術的に実装した、というのが通説です。タイトル・シークエンスとは別の発明ですが、いずれも本作で初めて世に出ました。
『めまい』はなぜ公開当時、評価が低かったのですか?
当時の批評には、テンポが遅い、細部が入り組みすぎている、物語構造が特異(中盤で真相が明かされる)といった指摘が並びます。ヒッチコック自身は後年、49歳のジェイムズ・スチュワートが24歳のキム・ノヴァクの相手役として老けて見えたことを不振の理由に挙げました。再評価はイギリスの批評家ロビン・ウッドが1968年に本作を「ヒッチコックの最高傑作」と論じたあたりから本格化したとされます。
オープニングに映る女性の顔は誰ですか?
キム・ノヴァクではなく、オードリー・ローウェルという女優です。ノヴァク本人は出演を望みましたが、彼女の所属先コロンビアの社長ハリー・コーンが1日分の撮影に満額のギャラを要求したため、別の顔が起用されました。バスはその顔立ちを「固有であると同時に普遍的」と評しています。フレーミングにはバウハウス写真の影響が指摘されています。
リサジュー曲線は今もどこで見られますか?
オシロスコープの基本表示、シンセサイザーのモジュレーション可視化、そしてロゴ・デザインで広く生きています。2021年にFacebookから改称したMeta社のロゴ(a=1, b=–2)、オーストラリア放送協会(ABC)のシンボルなどが代表例です。19世紀の音響実験用の曲線が、現代企業のアイデンティティを担っているわけです。

参考文献

Vertigo (1958) — Art of the Title
https://www.artofthetitle.com/title/vertigo/
Did ‘Vertigo’ Introduce Computer Graphics to Cinema? — Rhizome (Tom McCormack)
https://rhizome.org/editorial/2013/may/9/did-vertigo-introduce-computer-graphics-cinema/
Vicious Circle: John Whitney and the Military Origins of Early CGI — Bright Lights Film Journal
https://brightlightsfilm.com/vicious-circle-john-whitney-and-the-military-origins-of-early-cgi/
Celebrating Saul Bass’s centenary: 10 essential title sequences — BFI
https://www.bfi.org.uk/lists/celebrating-saul-basss-centenary-10-essential-title-sequences
Three Audiovisual Correspondences in the Main Title for Vertigo — Music Theory Online (Scott Murphy)
https://mtosmt.org/issues/mto.22.28.1/mto.22.28.1.murphy.html
Reassessing the Saul Bass and Alfred Hitchcock Collaboration — West 86th (Pat Kirkham)
https://west86th.bgc.bard.edu/articles/reassessing-the-saul-bass-and-alfred-hitchcock-collaboration/
Vertigo (film) — Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Vertigo_(film)
Lissajous curve — Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Lissajous_curve
John Whitney (animator) — Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Whitney_(animator)
Saul Bass — Britannica
https://www.britannica.com/biography/Saul-Bass

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