シュレンマーの「人体アイコン」|バウハウスが身体を記号に変えた理由

シュレンマーの「人体アイコン」|バウハウスが身体を記号に変えた理由

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1922年9月30日、シュトゥットガルト国立劇場のカーテンが上がると、舞台はレモンイエローに染まっていた。観客がそこで見たのは、人ではなかった。胴体が金色の球で覆われたダンサー、円錐を重ねたスカートに足を取られているダンサー、腹から渦巻きを突き出した道化のような姿。バレエというより、幾何の教科書が踊り出したような光景だった。

音楽はパウル・ヒンデミット。振付と衣装はオスカー・シュレンマー、当時34歳。のちにバウハウス舞台工房を率いる男が、構想10年を費やした作品の初演だった。タイトルは「トリアディック・バレエ」(Triadisches Ballett)。日本語では「3人組のバレエ」と訳されることが多いが、シュレンマー自身の言葉によれば、これは「三位一体」の原則の上に組み立てられた作品である。3人のダンサー、3つの楽章、3色の舞台、3つの基本形。「孤立した個人の自我」も「対をなす男女の二元論」も超えて、共同体の最小単位を提示する数字としての三だった。

三という呪文と18の衣装

第一幕は黄色、喜劇的なバーレスク。第二幕はピンク(資料によっては白とも記される)の舞台で、厳粛な儀式が展開する。第三幕は黒。舞台が無限の闇へ後退していくような神秘的な瞑想で終わる。12のダンス、3人のダンサー、18種類の衣装。衣装によって、ダンサーたちは人間を脱ぎ、別の何かへ変態した。

この構想自体は1922年の突発ではない。シュレンマーがダンサーのアルベルト・ブルガー、エルザ・ヘッツェル夫妻と組んで初稿に取りかかったのは1912年、第一次世界大戦の前夜だ。最初はアルノルト・シェーンベルクに音楽を依頼しようとしたが、シェーンベルクは断った。代わりに使われたのがエンリーコ・ボッシの音楽で、部分的な上演は1915年に行われている。完成形がヒンデミットの作曲とともに披露されるのは、戦争を挟んだ7年後のことだ。塹壕の経験は、シュレンマーの考え方を根本から変えていた。

バウハウスが身体を引き受けた

ヴァルター・グロピウスがワイマールにバウハウスを設立したのは1919年。シュレンマーは翌年に参加し、壁画工房と彫刻工房を経て、1923年に舞台工房の形態マスター(Master of Form)に任命された。バウハウスといえば建築・工芸・タイポグラフィの学校として記憶されているが、舞台工房を抱えていたことは比較的知られていない。

シュレンマーにとって、舞台は二次元の絵画と三次元の建築をつなぐ中間領域だった。絵画では身体は平面に閉じ込められ、彫刻では時間が止まる。動いている人間そのものを直接の素材にできるのは、舞台だけだ。彼はオペラやドラマが背負う「歴史的な重荷」――言語的・文学的な伝統――から自由になれる場所として、バレエとパントマイムを選んだ。

取り組んだ問いはひとつ。人間の身体を、芸術として、空間のなかでどう扱うか。

「人間と芸術形象」というマニフェスト

1925年、バウハウスは『バウハウス舞台論』(Die Bühne im Bauhaus)を出版した。シリーズ第4巻として刊行されたこの書物の冒頭を飾ったのが、シュレンマーの長編エッセイ「人間と芸術形象」(Mensch und Kunstfigur)である。バウハウス舞台美学の到達点とされる文章だ。

彼が見ていたのは、人体と空間との二重の幾何学だった。劇場という立方体には目に見えない線形のネットワーク――シュレンマーいわく「平面幾何学的・立体幾何学的関係の不可視のネットワーク」――が走っており、そこで動く身体もまた独自の数学的構造を持っている。両者の対話を成立させるのは、彼の言葉を借りれば「カリステニクス、エウリトミー、体操の幾何学」、つまり機械的・合理的に決定された動きである。

このエッセイには、舞台論を超えた20世紀全体への診断が含まれている。「機械化できるものは、すべて機械化される。その結果として、機械化できないものを我々は認識する」。シュレンマーは機械化の流れに無批判ではなかった。彼の作品を1980年代に再構築・国際ツアーした振付家・研究者デブラ・マッコールは、ハーバード大学GSDの取材で次のように証言している。「シュレンマーは他の多くのモダニストと同様、機械化と抽象が時代の二大主題だと感じていた。だが彼はダンサーをオートマトンに堕すつもりはなかった」。

このバランス感覚が、トリアディック・バレエの奇妙さを支えている。衣装はダンサーの身体を覆い、人間を球と円錐に変えてしまう。にもかかわらず、観客は中に生身の人間がいることを忘れない。覆われていることで、覆われた身体の存在感が逆説的に立ち上がる。記号化と身体性の、緊張に満ちた共存。

ヴォアドルックという雛形

1925年、バウハウスはワイマールからデッサウへ移転する。新校舎での1928年、シュレンマーは「Der Mensch(人間)」という新しい授業を開講した。学生に配ったのが、ヴォアドルック(Vordruck、書式・雛形)と呼ばれる人体テンプレートだった。

A4サイズほどの紙に、無表情で正面を向いた男性の身体が、グリッドの上に薄く印刷されている。学生たちはこのテンプレートに、自分の解剖学的・運動学的観察を重ねて書き込んでいく。表情も個性もない――研究者メリッサ・トリミンガムの言葉では「無垢で平凡、沈黙し無表情な」――人体は、徹底的に匿名化された記号だった。

ヴォアドルックは、医学書の挿絵にも似ている。が、その匿名性こそが革新だった。特定の誰かではなく、誰にも当てはまり、誰でもないような身体を、教育の道具として印刷物にした。手書きの一回性ではなく、印刷で複製できる規格化された人体像。後に世界中の空港や駅で見ることになる「人間ピクトグラム」の祖型に近い形が、すでにここにある。

シュレンマー本人が、後年のピクトグラム文化までを射程に入れていたわけではない。彼は身体と空間の関係を考えるための道具としてこれを作った。結果として彼は、人体を「フォーム」――書式、雛形、テンプレート――に変える発想を、20年代のうちに実装していた。

ウィーンに咲いた別系統――アイソタイプ

シュレンマーがデッサウで人体テンプレートを配っていたのと同じ頃、ウィーンでは別ルートの人体記号化が走っていた。オットー・ノイラート(1882-1945)が1925年に開設した社会経済博物館(Gesellschafts- und Wirtschaftsmuseum)が、その拠点である。

ノイラートは哲学者・経済学者・社会改革者で、ウィーン学団の中心人物のひとりだった。目標は明快だった。統計を視覚化し、教養のない労働者にも理解できる「絵による言語」をつくる。当初は「ウィーン式絵画統計法」(Wiener Methode der Bildstatistik)と呼ばれ、1935年に妻となるマリー・ライデマイスターの命名でアイソタイプ(ISOTYPE: International System of Typographic Picture Education)と改名された。スローガンは身も蓋もない。「正確な数字を忘れるくらいなら、簡略化された絵を覚えるほうがいい」。

ノイラートに招かれてピクトグラムをデザインしたのが、ゲルト・アーンツ(Gerd Arntz, 1900-1988)。ケルン進歩派(Cologne Progressives)に属していたドイツの版画家で、木版・リノカットの鋭い輪郭線を活かして、人間、工場、車両、家畜を平面記号に還元する仕事を続けた。彼が生涯で設計したピクトグラムは約4,000点。「男性」のシンボルは内容に応じて小さな付加要素で変奏され、職業、年齢、社会階層を表現できるようになっていた。

アイソタイプの「人」記号は、シュレンマーのヴォアドルックと並べてみると、奇妙な家族的類似がある。両者とも、人体を匿名の、正面を向いた、可換な単位として描く。両者とも、個性ではなく機能を伝える。両者とも、印刷と複製を前提にしている。同時代の中部ヨーロッパで、舞台と統計という遠い領域から、ほぼ同じ造形原理が立ち上がっていた。

ただし、目的は正反対だった。シュレンマーは身体を記号化することで、その記号の向こうにある生身の人間を浮かび上がらせようとした。ノイラートは身体を記号化することで、個人を「100万人のうちの1単位」として可算な数値に変え、社会統計のなかに溶かし込もうとした。前者は身体への讃歌、後者は集合体への奉仕。人体を抽象化するという同じ技法を、まったく別の哲学が動かしていた。

1964年、東京で二つの系譜が出会う

二つの系譜が交差したのは、戦後の日本でだった。1964年の東京オリンピック。アジア初の開催で、ラテン文字の案内では通じない観客と外国人スタッフに、競技と施設の場所を伝えなければならない。デザインを統括したのは、デザイン批評家の勝見勝(1909-1983)。彼が組織したデザインチームには、亀倉雄策、原弘、河野鷹思、柳宗理ら、戦後日本のグラフィックを代表する顔ぶれが揃った。

スポーツ用ピクトグラム20種を設計したのは、当時無名の若手だった山下芳郎。施設用39種を含む計59のピクトグラムが、選手村と各会場に配置された。山下の人体はアーンツのアイソタイプを直接の参照源としている。複数のデザイン誌――『It’s Nice That』『TypeRoom』などが、その影響関係を明示的に記録している。

ベルリン1936、ロンドン1948にも競技別のアイコンは存在した。それでも東京1964のピクトグラムが画期的だったのは、システム性と一貫性である。スポーツと施設を統一されたデザイン言語のもとに置き、言語に依存しない案内システムを、国際スポーツイベントとして初めて完成形で提示した。続くミュンヘン1972ではオトル・アイヒャーが、男女トイレマークの普及形を含む決定版を作るが、彼自身、東京の仕事を出発点として認めていた。

勝見が興味深いのは、日本の家紋――千年単位で抽象化されてきた紋章の伝統――からも着想を得ていたことだ。バウハウス由来の幾何学、ウィーン由来の統計図表、そして日本の家紋。東京1964のピクトグラムは、少なくとも三つの記号文化が交差する場所だった。

12×12ピクセルに圧縮された身体

1999年、NTTドコモのi-mode開発チームに所属していた25歳の栗田穣崇は、176個のピクトグラムを5週間で設計するよう求められていた。グリッドは12×12ピクセル。144ドット、合計でわずか3キロバイトに収めるという制約。携帯電話のメールが250文字に制限されていた時代、その不足を埋めるための「絵文字」だった。

栗田は後にCNNの取材で、着想源として漫画、街路標識、ピクトグラム、絵記号(dingbats)を挙げている。漢字は意外にも参照していないと明言した。「絵文字も漢字も表意文字だが、絵文字のデザインに漢字からインスピレーションを得たわけではない」。彼が引いたのは、オリンピックや空港で見慣れた人体ピクトグラムの伝統そのものだった。シュレンマー、ノイラート、東京1964と続いてきた記号化された身体が、12×12のドット絵として携帯電話の画面に降り立つ。

栗田の176個は2016年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)に収蔵された。コレクションラベルには「現代の視覚的・デジタル言語の最初の出発点」と記されている。今や絵文字は3,953個(2025年9月のUnicode 17.0時点)に達し、世界中の端末に標準搭載されている。

身体は記号として何を得たのか

シュレンマーの円錐スカートと、スマートフォンの「走る人」絵文字を並べてみる。1922年と2025年。100年以上の隔たり。にもかかわらず、両者の発想には直線的なつながりがある。人間を、覆い、削り、輪郭だけを残して、誰でもない誰かに変える。それによって、特定の身体に閉じ込められない、可換で、伝達可能な「人間」を成立させる。

シュレンマー自身の生涯は、その変化を見届けるには短かすぎた。1929年にバウハウスを去り、ブレスラウ(現ヴロツワフ)の国立芸術工芸アカデミーへ移る。1937年、ナチスから「退廃芸術」の烙印を押され、作品の多くは没収・破壊された。教職も奪われる。1943年4月13日、バーデン=バーデンで54歳の生涯を心臓発作で閉じる。トリアディック・バレエが復元上演を始めるのは1960年代以降、本人の遺したスケッチとメモを頼りにした再構成だった。

ノイラートもまた、亡命を重ねた。1934年にオーストリアを離れてオランダへ、さらに1940年にイギリスへ。1945年に63歳で病没する。アイソタイプ研究所はマリーが引き継いだ。

ふたりの仕事は、彼ら個人の生涯のなかでは完結しなかった。代わりに、人体を抽象化するという技法だけが、舞台衣装から統計図表へ、ピクトグラムから絵文字へと宿替えを繰り返した。空港のトイレマーク、信号機の人型、Zoomで挙手するボタンのアイコン、SNSの再生数を数えるシルエット。日々目にしている人体記号のほとんどに、シュレンマーの円錐とアーンツの直線の血が流れている。

身体は記号として、何を得たのか。普遍性、可換性、複製可能性。引き換えに手放したのは、固有名と表情である。「機械化できるものは、すべて機械化される」と書いたシュレンマーは、自分が機械化に貢献していることに、どこかで気づいていたはずだ。それでも彼は、舞台のうえに球体を立たせ続けた。機械化できないものを、最後まで観客に思い出させるために。

Q&A

トリアディック・バレエは今も観られますか?
オリジナルの上演記録はほとんど現存しません。1960年代以降、シュレンマー本人のスケッチや覚書をもとにした再構成版が複数制作されており、なかでも1970年のマルガレーテ・ハスティングス、フランツ・シェムプス、ゲオルク・ヴェルデンによる再構成は最初期かつ最もよく知られた版です。バウハウス100周年(2019年)にはバイエルン州立バレエ団による上演がベルリン芸術アカデミーで行われました。
シュレンマーとノイラートに交流はあったのですか?
直接的な交流関係を示す一次資料は確認できません。両者は1920年代の中部ヨーロッパで、それぞれ独立に「人体の抽象化」という似た造形課題に取り組んでいました。シュレンマーは舞台美学のため、ノイラートは社会統計のためで、動機も立場もまったく違いました。後世のデザイン史が、両者を「人体記号化の二系統」として並べて評価するようになります。
東京1964のピクトグラムは、本当にアイソタイプの直接の影響下にあったのですか?
『It’s Nice That』『TypeRoom』など複数のデザイン誌が、勝見勝と山下芳郎のチームがオットー・ノイラートとゲルト・アーンツのアイソタイプを参照したと記録しています。同時に、勝見は日本の家紋からも構造的着想を得ていたとされ、東京1964のピクトグラム群は西洋モダニズムと日本の伝統紋章の交差点として位置づけられます。
栗田穣崇は絵文字をひとりで作ったのですか?
栗田はNTTドコモのi-mode開発チームの一員として、176個の絵文字セットの設計を主導しました。本人もインタビューで「自分が絵文字を発明したわけではない」と繰り返し述べており、それ以前にもポケベルのハートマークなど先行する試みがあったことが知られています。それでも、体系的で複製可能なピクトグラム集合としての絵文字を確立した最初の事例として、MoMAは栗田のセットを2016年にコレクションに加えました。
「機械化できるものはすべて機械化される」というシュレンマーの言葉は、AIの時代に何を意味しますか?
この一節は「人間と芸術形象」(1925年)に書かれたもので、続けて彼は「その結果として、機械化できないものを我々は認識する」と書きました。機械化は否定すべきものではなく、機械化されないものを発見するための作業だ、というのがシュレンマーの立場です。AIによる画像生成や自動化が進む現在、機械にできないことが何かを問う視座として、100年前の文章が逆説的な鮮度を保っています。

参考文献

Oskar Schlemmer – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Oskar_Schlemmer
Triadisches Ballett – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Triadisches_Ballett
Experimental Theater | Bauhaus – Getty Research Institute
https://www.getty.edu/research/exhibitions_events/exhibitions/bauhaus/new_artist/body_spirit/theater/
In Space, Movement, and the Technological Body, Bauhaus performance finds new context in contemporary technology – Harvard GSD
https://www.gsd.harvard.edu/2019/05/in-space-movement-and-the-technological-body-bauhaus-performance-finds-new-context-in-contemporary-technology/
Isotype (picture language) – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Isotype_(picture_language)
Isotype Revisited – Introduction
https://isotyperevisited.org/2012/08/introduction.php
Celebrating the legacy of Kamekura Yusaku’s iconic Tokyo 1964 Olympics identity – It’s Nice That
https://www.itsnicethat.com/features/kamekura-yusaku-tokyo-1964-olympics-identity-graphic-design-040821
Inbox: The Original Emoji, by Shigetaka Kurita – MoMA
https://www.moma.org/calendar/exhibitions/3639
Shigetaka Kurita: The man who invented emoji – CNN Style
https://edition.cnn.com/style/article/emoji-shigetaka-kurita-standards-manual

基本データ

オスカー・シュレンマー
1888年9月4日、シュトゥットガルト生まれ。1943年4月13日、バーデン=バーデン(ナチス・ドイツ)にて死去(54歳)。画家・彫刻家・デザイナー・振付家。1920年バウハウス参加、1923年舞台工房形態マスター就任、1929年退任。代表作にトリアディック・バレエ、バウハウスの階段(1932)、エッセイ「人間と芸術形象」(1925)。
トリアディック・バレエ(Triadisches Ballett)
1912年構想開始、1922年9月30日シュトゥットガルト国立劇場で初演。音楽:パウル・ヒンデミット。3幕構成(黄/ピンクまたは白/黒)、3人のダンサー、12のダンス、18種類の衣装。1923年バウハウス週間(ワイマール国立劇場)でも上演。
「人間と芸術形象」(Mensch und Kunstfigur)
1925年、バウハウス叢書第4巻『バウハウス舞台論』(Die Bühne im Bauhaus)に収録。シュレンマーの主要理論書。英訳版は1961年にウェズリアン大学出版から刊行。
オットー・ノイラート(Otto Neurath)
1882年12月10日、ウィーン生まれ。1945年12月22日、オックスフォード(イングランド)で死去(63歳)。哲学者・経済学者・社会学者。ウィーン学団の中心人物のひとり。
アイソタイプ(ISOTYPE)
1925年にウィーンの社会経済博物館(Gesellschafts- und Wirtschaftsmuseum)で開発開始。当初「ウィーン式絵画統計法」と呼ばれ、1935年に「International System of Typographic Picture Education」と改名。中心人物:オットー・ノイラート、ゲルト・アーンツ(1900-1988、約4,000点のピクトグラムを設計)、マリー・ライデマイスター/ノイラート。
東京1964オリンピック ピクトグラム
1964年東京オリンピックで初めて体系的に導入。アートディレクター:勝見勝。スポーツ用20種:山下芳郎による設計。施設用39種を含む計59点。国際スポーツイベントで統一的ピクトグラムシステムを初めて実装。
栗田穣崇(Shigetaka Kurita)
1972年5月9日、岐阜県生まれ。NTTドコモのi-mode開発チームに所属し、1999年に176個の絵文字セット(12×12ピクセル、計約3KB)を設計。2016年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)が同セットを永久コレクションに収蔵。

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