1955年1月2日、パリ。55歳のアンリ・ミショーのアパルトマン。詩人で、画家で、そして長年の禁欲家。テーブルの上に水を満たしたコップ。その中で、白い粉末がゆっくり溶けていく。ガリマール社の編集者ジャン・ポーランが「創造行為に対する非依存性薬物の効果を調べたい」と持ちかけ、ミショーは数日ためらった末に応じた。同席するのは女性詩人エディット・ボワソナス。
メキシコのペヨーテサボテンから抽出されたメスカリン。エーテル以外の薬物を試したことがなかった男が、扉を開けようとしていた。
ポーランはその一夜で挫折した。ミショーは続けた。LSD、ハシシ、シロシビン。ただし、ひとつだけ守ったルールがある。絵を描くのは、薬の作用が引いてから。トリップそのものを写生するのではなく、その後に体に残る「振動」を紙の上に翻訳する。後にコートールド・ギャラリーのキュレーターは、その仕事を「身震いする地震計のような描写」と評することになる。
そうして紙の上に残ったものは、何でもない。震える線と、点と、塊。それだけの一枚を前にして、それでも人は必ず何かを見てしまう。触手、目、群衆、読めない文字。ミショーが探り当てたのは新しい画風ではなく、観る側の脳が勝手に働きはじめる、その境目のほうだった。三十数年前にはスイスの精神科医がインクのしみで同じ境目を測ろうとし、六十年後にはGoogleの機械が、命じられてもいないのに雲の中から犬を掘り出しはじめる。

アンフォルメル――「形を持たない芸術」の名がついた年
戦後ヨーロッパは、形を信用しなくなっていた。
幾何学的な抽象もキュビスムも、戦争を止めることはできなかった。1951年、批評家ミシェル・タピエがパリの画廊で「ヴェエマンス・コンフロンテ」展を企画する。ヴォルス、フォートリエ、デュビュッフェ、マチュー、ポロック――形を捨て、絵具のしぶきや厚塗りで「もう一つの芸術」を志した者たちの絵が並ぶ。翌1952年、タピエは『Un art autre(別の芸術)』というマニフェスト的な本を刊行し、この潮流にアール・アンフォルメル――「形を持たない芸術」――の名を与えた。
ミショーはその仲間に入っていた。1951年11月の「アンフォルメルの徴(Signifiants de l’informel)」展、出品者はデュビュッフェ、フォートリエ、マチュー、ミショー、リオペル、セルパン。詩人として知られていた男は、同じ年、ガリマール社から『Mouvements(動き)』を出版する。64枚のドローイングと、それに添えられた詩。墨で描かれた図像は、漢字のようにも、走り回る人影のようにも、虫のようにも見える。読めない文字。
ミショーはこれらを「私たちが持っていない手足のための内なる身振り、手足を欲する欲求としての身振り」と書いた。
何も描いていないのに、何かが見えてしまう
メスカリン以降のドローイング群を眺めると、奇妙なことが起きる。
紙の上にあるのは、震えるような細いインクの線。塊。点。それだけ。図形でも記号でも、ましてや人物でもない。けれど数秒も見ていると、観る側の脳が勝手に動き出す。あの線は触手、これは目、あれは群衆、これは文字。何かに見える。「何か」とは言えないが、何かには見える。
コートールド・ギャラリーのキュレーター、ケティ・ゴタルドは、ミショーの絵を「ホルバインの肖像画のような確信を持っている」と評した。描いた本人は、説明のつかない真実を描いていると信じていた。だからこそ不気味なのだ、と。
ミショー自身は、メスカリン体験の本『悲惨な奇跡(Misérable Miracle)』(1956)の前書きでこう書いた――「この本は探検である。言葉、記号、ドローイングによる。メスカリン、それが探検の対象である」。彼の関心はトリップの陶酔ではなかった。知覚そのものが組み立てられる手前の段階のほうにあった。形になる前の何か。

三十数年前の予兆――スイスの精神科医とインクのしみ
似たような実験を、ミショーが生まれた頃にやった人物がいる。
ヘルマン・ロールシャッハ。1884年スイス生まれの精神科医。子どもの頃、彼はクレックスグラフィー(Klecksographie)というドイツ語圏で広く親しまれていた遊びに熱中した。紙にインクをたらして二つ折りにする。広げると、左右対称のしみが現れる。それが何に見えるかを友人と話し合う。少年は「Klecks(しみ)」というあだ名で呼ばれた。
精神科医になったロールシャッハは、統合失調症の患者がしみの中に他の患者と違うものを見ることに気づく。1921年、彼は10枚のインクブロットからなる『精神診断学(Psychodiagnostik)』を出版した。今もロールシャッハ・テストとして知られるあのカード群である。
ここに、ミショーと深く共鳴する仕掛けがある。ロールシャッハのカードは完全にランダムなしみではない。彼は美術の素養があり、左右対称、コントラスト、エッジの配置を意図的に調整し、「何かを示唆するが、何にも決定されていない」状態を慎重に作った。形がないのではなく、多くの形を呼び込めるように作られた形。観る人間の脳が、自分の経験と恐怖と願望を投影できるだけの余白が残されている。
ロールシャッハ自身は1922年4月、本の出版から1年もたたないうちに、虫垂破裂による腹膜炎で37歳の生涯を閉じる。テストが世界に広がる時間は、本人にはなかった。
パレイドリア――「顔を見つけてしまう」装置
ロールシャッハより前から、似た現象に名前はついていた。
パレイドリア(pareidolia)。1867年頃にドイツ語経由で英語に入ったとされるこの単語は、ギリシャ語のpara(かたわらに)とeidolon(像)から作られた。物理学者で心理学者でもあったグスタフ・フェヒナーが、19世紀後半に「人はものの中に顔を見出す」という傾向を論文に書いている。
雲の中の兎。コンセントの「顔」。月のクレーターに微笑む老人。火星の人面岩。トーストの焦げ目に浮かぶイエス。これらはすべてパレイドリアだ。
脳画像研究は、この現象が認知的な後付け解釈ではないことを示している。Nature Communications誌の2020年の研究は、錯覚の顔(顔のない物の中に「顔」を見つけること)が、本物の顔と最初の250ミリ秒間はほぼ同じ脳活動を引き起こすことを報告した。後頭側頭皮質の顔選択領域が、トーストの焦げ目にも、岩肌にも、ミショーの線にも、同じ反応を返してしまう。
人類が顔をすばやく見分ける能力は、捕食者を察知し、群れの中の感情を読む生存装置として磨かれた。装置は精度より速度を優先する。だから誤検出する。

2015年、機械が同じ夢を見はじめた
2015年6月、Googleのエンジニア、アレクサンダー・モルドヴィンツェフが、ある実験結果を公開した。
画像認識のために訓練された畳み込みニューラルネットワーク――その学習データセット「ImageNet」の競争では1,000カテゴリ中120もが犬種で占められていた――を、逆向きに走らせる。普通の写真を入力し、「お前が見つけたいと思っている特徴を強調しろ」と命じる。出てくる結果を再び同じネットに食わせる。これを繰り返す。
雲は犬の頭になる。木の幹は目玉の連なりになる。空は触手と犬の鼻でうごめく。DeepDreamと名付けられたこの手法は、後に「アルゴリズム的パレイドリア」と呼ばれることになる。
PLOS Computational Biology誌に掲載されたある研究は、ニューラルネットワークがどのような訓練を受けるとパレイドリアを起こすかを調べた。顔認識だけを学んだネットワークは、人間ほど強くパレイドリアを起こさない。顔と日用品の両方を学んだネットワークが、最も人間に似たパレイドリア反応を示した。「世界には多様な物体があり、その中に顔がある」という構造を学習すること自体が、コンセントを顔に見せてしまう原因だった。
形のないものに形を見ることは、バグではない。むしろ知性の構造そのものに組み込まれた仕様である――生物のものであれ、機械のものであれ。

デザインは「読まれる」ことで完成する
ミショーが亡くなって40年以上が過ぎた。
彼のドローイングは、ロンドンのコートールド・ギャラリーに長期貸与され、2024年から2025年にかけて公開された。ガラスケースの中で、震えるインクの線が観客の脳と勝手に対話する。あれは触手だ、いや文字だ、いや顔だ。多くは縦横20センチ前後の小さな紙――そのサイズで起こる宇宙の蠕動を、人は息を詰めて覗き込む。
このしくみは、デザインの根本に関わっている。
ピクトグラム、絵文字、抽象的なブランドマーク。二つの点と短い弧で笑顔が立ち上がり、いくつかの黒い塊だけでパンダが現れる。最小限の線で「何か」を伝えられる理由は、デザイナーの腕というより、観る側の脳が積極的に補完してくれるからだ。形を完璧に描き切る必要はない。むしろ描かないこと、引き算することが、観る人の知覚装置を呼び起こす。
ミショーが内なる身振りに手足を与えようとしたとき、彼は知覚の構造をひっくり返して提示した。形のないものから形が立ち上がる瞬間。その瞬間のために、紙の上にどれだけの余白を残すか。
その問いは、メスカリンを飲まなくても、絵描きでなくても、いまも生きている。
Q&A
- ミショーはなぜメスカリンの効果が引いてから絵を描いたのですか?
- トリップ中は手が視覚のスピードに追いつかなかったからです。彼自身、薬の作用がピークの間に書いた約150ページの手書きメモは、文字が崩れていく様子を記録するものでしかなかったと記しています。彼が描こうとしたのは陶酔ではなく、薬が抜けた後も数日続く「振動」――知覚が組み立てられる手前の身振り――でした。
- アール・アンフォルメルとアメリカの抽象表現主義は何が違うのですか?
- 同時期に同じく「形を捨てる」方向に進みましたが、アンフォルメルはより素材的・物質的です。フォートリエの厚塗り、デュビュッフェの土や砂を混ぜたペースト、ヴォルスの神経症的な線。ポロックのドリッピングが身体運動を画面に投影したのに対し、ヨーロッパ側は戦争で傷ついた物質そのものを画面に持ち込もうとしました。タピエは、アメリカ中心になりつつあった戦後アートシーンへの対抗意識も持っていました。
- ロールシャッハ・テストは今も精神医学で使われているのですか?
- 使われていますが、評価は分かれています。1940〜50年代の臨床心理学では中心的なツールでしたが、その後「主観的すぎる」「妥当性に問題がある」という批判を受けて使用は減りました。ジョン・エクスナーの総合システム(1993)による標準化を経て、現在も統合失調症、抑うつ、不安などの評価に補助的に使われています。皮肉なことに、ロールシャッハ自身は人格診断ツールとしての用途には懐疑的で、もっぱら知覚プロセスへの関心からこの実験を始めました。
- DeepDreamの生成画像に犬が多いのはなぜですか?
- モルドヴィンツェフが使ったニューラルネットワーク「Inception」が、ImageNetという学習データセットで訓練されていたためです。ImageNetの主要な競争(ILSVRC)では1,000カテゴリのうち120が犬の品種で占められており、ネットワークは「世界には犬があふれている」と学んでいました。だから何を見せても犬を見つけてしまう。学習データのバイアスが、そのまま「見えるもの」を決めてしまうという、現代AIが抱える問題の早い実例でもあります。
- ミショーのドローイングを「読む」にはどう向き合えばいいですか?
- 何が描かれているかを特定しようとしないことです。線の動きや密度、空白の使い方、紙の上で「何かになりかけている」中間状態そのものを観るほうが、彼の意図に近づきます。実物はどれも小さく、手のひらに収まるサイズです。その小さな宇宙の蠕動を息を詰めて覗き込む、という体験になります。
基本データ
- アンリ・ミショー(Henri Michaux)
- 1899年5月24日ベルギー・ナミュール生まれ、1984年10月19日パリで没。詩人・画家。1955年にフランス国籍取得。代表作:『Mouvements』(1951)、『Misérable Miracle』(1956)、『L’Infini turbulent』(1957)。最初のメスカリン体験は1955年1月2日。
- アール・アンフォルメル(Art Informel)
- 批評家ミシェル・タピエが1951〜52年に名づけた、戦後ヨーロッパの抽象絵画運動。マニフェスト『Un art autre』(1952)。主要作家:ヴォルス、フォートリエ、デュビュッフェ、マチュー、ミショー、リオペル、アルトゥング、スーラージュなど。
- ロールシャッハ・テスト
- スイスの精神科医ヘルマン・ロールシャッハ(1884-1922)が1921年に『Psychodiagnostik』で発表。10枚のインクブロット(モノクロ5枚、彩色5枚)で構成される投影法心理検査。
- パレイドリア(pareidolia)
- ランダムな視覚刺激の中に意味あるパターン(特に顔)を見出す知覚現象。語源はギリシャ語のpara(かたわらに)とeidolon(像)。1867年頃にドイツ語経由で英語に。グスタフ・フェヒナーらが19世紀後半に研究。
- DeepDream
- 2015年6月、Googleのエンジニア、アレクサンダー・モルドヴィンツェフが公開した画像処理プログラム。畳み込みニューラルネットワーク(Inception)を用いた「アルゴリズム的パレイドリア」と表現される。
参考文献
- Henri Michaux: The Mescaline Drawings | The Courtauld Gallery
- https://courtauld.ac.uk/whats-on/exh-henri-michaux-mescaline-drawings/
- Henri Michaux | Wikipedia
- https://en.wikipedia.org/wiki/Henri_Michaux
- Art informel | Tate
- https://www.tate.org.uk/art/art-terms/a/art-informel
- Art Informel Movement Overview | The Art Story
- https://www.theartstory.org/movement/art-informel/
- Hermann Rorschach | Wikipedia
- https://en.wikipedia.org/wiki/Hermann_Rorschach
- Pareidolia | Wikipedia
- https://en.wikipedia.org/wiki/Pareidolia
- Rapid and dynamic processing of face pareidolia in the human brain | Nature Communications (2020)
- https://www.nature.com/articles/s41467-020-18325-8
- DeepDream | Wikipedia
- https://en.wikipedia.org/wiki/DeepDream
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