クレーの「呼吸する線」|見えないものを線で見えるようにしたバウハウスの教師

クレーの「呼吸する線」|見えないものを線で見えるようにしたバウハウスの教師

目次

ヴァイオリンを置いた青年が、黒板に魚を描いた日

1921年1月、ヴァイマール。設立されてまだ二年も経たない造形学校バウハウスで、ひとりの新任教師が最初の授業に現れた。同僚のゲオルク・ムッヒェが残した記述によれば、その教師は教室に背中から入ってきたという。学生のほうを振り返らないまま黒板まで進み、両手にチョークを握って、左右同時に弧を描く。二本の線は片端で交差し、もう片端で軽く触れた。生まれたのは、一匹の魚の形だった。

教師の名はパウル・クレー、41歳。母は歌手、父はベルン州立教員養成所のヴァイオリン教師。本人も7歳から弓を持ち、11歳でベルン音楽協会から特別団員として演奏に招かれた経歴を持つ。1903年から1906年まではベルン交響楽団に客演している。十代の終わりまで音楽家か画家かで真剣に揺れていた男が、ヴァルター・グロピウスからの一通の電報を受け取って、ヴァイマールへやって来た。両手で同時に描いた一匹の魚は、これからこの男が線について語ろうとすることのすべてを、最初の一筆で示していたことになる。

この日クレーが黒板で示そうとしていたのは、たった一つの反転だった。線とは、形のふちをなぞる輪郭ではない。点が動いたあとに残る軌跡であり、つまりは時間の記録である。輪郭を時間に入れ替えるこの一手が、絵の描き方も、線の教え方も、のちの動きのデザインまでも静かに変えていく。

「見えるものにする」――1920年の宣言

バウハウスに来る前年、1920年に書かれた短いテクストがある。『創造的告白』(Schöpferische Konfession)。ベルリンの雑誌『Tribune der Kunst und Zeit』に発表されたこの文章で、クレーはこう書いた。

「芸術は見えるものを再現するのではない。見えるものにする」

第一次世界大戦が終わってまだ二年。古い秩序は崩れ、写実は古い手段になっていた。何を描くかではなく、何を見えるようにするか。すでに目に見えているものを紙にまた写しても仕方がない、目に見えないけれど確かに動いているもの――成長、呼吸、力――を絵が引き受けるべきだ、というのがクレーの主張だった。クレー自身も1914年のチュニス旅行で色彩の感覚が変わり、「色彩と私はひとつになった。私は画家だ」と日記に書いた直後に第一次大戦に従軍している。戦後、画家のあり方そのものを考え直さなければならない世代の真ん中に、彼はいた。

グロピウスはおそらくその一行を読んだのだろう。1920年秋、新しい学校の教壇に来ないかと電報を打った。バウハウスは芸術家と職人を再統合し、量産時代の造形原理を発見しようとする実験校。クレーはここで製本工房やステンドグラス工房の指導を任され、同時に学生全員を対象にした造形理論の講義を担当することになる。「教える立場になって、私はそれまで無意識でやっていたことを、はっきり説明し直さなければならなくなった」と、彼自身が後年書き残している。

散歩する点、走り出す線

1921年11月、最初の理論講義のシリーズが始まった。タイトルは「造形理論への寄与」(Beiträge zur bildnerischen Formlehre)。クレーはこの講義のために192ページのノートを自らページ番号を振って作っている。1921年から1922年にかけて、線、遠近法、均衡、構成、色彩について順を追って語った。バウハウスを去る1931年までに書きためた手書きの教育ノートは、最終的に3,900ページに達する。ベルンのツェントルム・パウル・クレーは2012年から、その全ページのファクシミリと翻刻をオンラインで公開している。

線の話は、ある一文から始まる。

「能動的な線が散歩に出かける。自由に、目的なしに。散歩のための散歩。動かすのは点、前に位置を変えていく」

線とは何か、ではなく、点が動いた跡が線――そう定義したことが革新だった。線を「結果としての形」ではなく「経過としての時間」として扱う発想。バウハウスの学生たちは、輪郭ではなく動きを描くことから、すべての造形教育を出発しなければならなくなった。最初の一行ですべてが反転していたとも言える。

文法から借りた、三つの線

線を三つに分けたのも、クレーの工夫だった。能動(active)、受動(passive)、そしてその中間にある中動(medial)。

中動という耳慣れない言葉は、古代ギリシャ語の文法から借りている。能動でも受動でもなく、踊る、現れる、語るといった、主体が自分自身を動かすことを表す動詞の態。クレー研究者のロバート・クディエルカは、「自分で動き出す点」というクレーの線の定義が、この中動態の感覚に重なると指摘している。

クレーは線を生物学と物理学の語彙で語った。能動は筋肉、重力、滝の落下。中動は心臓のポンプ、花粉を運ぶ昆虫。受動は骨、果実、回転する車輪。具体物を持ち出すことで、抽象的な線が身体を持つ。

ある授業では、こんな課題を出している。黒板に血液の循環図を描いて見せ、「同じものを描いてみろ。動脈の赤から静脈の青へ、線の太さで圧の変化を、密度で栄養の濃度を表せ」と。植物の発芽から成長までを線で追わせる課題もあった。線が、循環や呼吸や成長といった、目には直接見えない生命の運動を引き受けていく。

別の授業の伝説も残っている。クレーが自宅で授業を持つときは、大きな熱帯魚の水槽の前に学生を座らせ、ライトを点けたり消したりして魚を泳がせたり隠れさせたりしながら、その動きをただ観察させたという。線についての授業に、呼吸や脈拍、生き物のリズムがふいに紛れ込んでくる。父が音楽教師、母が歌手で、本人も結婚相手は職業ピアニストのリリー・シュトゥンプ。家族の食卓に音楽があった人間にとっては、自然な発想だったかもしれない。

『赤のフーガ』――時間が遅れて入ってくる絵

1921年、教え始めてまもなく、クレーは小さな水彩を仕上げる。『赤のフーガ』(Fuge in Rot)。サイズは24.4×31.5cm。葉、花瓶、ひし形、三角形、円といった形が、暗い背景から少しずつ明るく浮かび上がってくる構図で、現在もベルンのツェントルム・パウル・クレーが所蔵している。

フーガは、ひとつの主題を別の声部が時間差で受け継いでいく音楽形式。クレーは形の濃度を時間の遅れに置き換え、画面の中で同じモチーフが少し遅れて反復するようにした。色面が、楽譜の小節線のように画面を区切っていく。絵を眺めていると、見えない指揮棒に従って形が次々と入ってくる感覚がある。

1927年の『北方植物群の和声』、1930年の『より厳しく、より自由なリズム』、1932年の『ポリフォニー』。音楽用語をそのままタイトルにした作品が、その後も続いていく。クレーは1910年ごろから絵画と音楽の構造的な近さに取り組んでいた。バウハウスの教室の黒板で語られていた線の三分類は、絵の中で生き始めた瞬間だった。

カンディンスキーとは別の道

1922年6月、ワシリー・カンディンスキーがバウハウスに加わった。グロピウスからの招きで、壁画工房を率いる形式主任(Formmeister)として赴任。同じ建物で、ほぼ同じ題材――点と線と面――を教えながら、二人の方向は違っていた。

カンディンスキーの方法は記号論的だった。水平線は冷たい、垂直線は熱い、三角形は精神的な上昇、円は宇宙的な統一。それぞれの形に固有の心理的・霊的な性質をあてはめていく。1926年の『点と線から面へ』(Punkt und Linie zu Fläche)で体系化されるこの考え方は、線の「性格」を記述するアプローチ。

クレーの線は、性格ではなく動きだった。何を意味するかではなく、どう動いた跡か。同じ「点」「線」「面」という単語を使いながら、二人は異なる文法書を書いていた。クレー自身は、友人カンディンスキーの神秘主義に対しては限定的な共感しか持たなかったと伝えられている。

線が画面の外に出ていく

講義ノートが本にまとまったのは1925年。バウハウス叢書の第2巻、グロピウスが編集し、ラースロー・モホイ=ナジが装丁を担当した『教育スケッチブック』(Pädagogisches Skizzenbuch)、本文わずか60ページ。短いが密度の高い文章と、点と線の小さな図版だけで構成された薄い本だった。

英訳は1953年、モホイ=ナジの妻シビュル・モホイ=ナジが手がけ、序文でこれを「見ることの冒険(an adventure in seeing)」と呼んだ。教科書というよりは、図と短いキャプションで読者に推論を促す視覚的なエッセイに近い体裁。バウハウス時代の息子フェリックスは、父の講義に集まる学生は決して多くなかったと書き残している――「熱心な信奉者の小さなサークルしかいなかった」と。

クレーの線の語彙は、その後、思いがけない場所に流れ着いた。

英国の画家ブリジット・ライリーは、クレーが自分にとって「抽象とは何かを示してくれた」決定的に重要な存在だったと語っている。グラフィックデザイナーのソール・バスは1944年から45年にかけて、ニューヨークのブルックリン・カレッジでハンガリー出身のジョルジ・ケペシュに学んだ。ケペシュは1937年に渡米し、シカゴの新バウハウスでモホイ=ナジと並んで教えた人物で、バウハウス的視覚言語を戦後のアメリカに移植した一人だ。バスが1955年の映画『黄金の腕』のタイトルシークエンスで、エルマー・バーンスタインのジャズに合わせて白い帯を画面の上で踊らせたとき、クレーが教室で語っていた「動く点」の感覚は、確かにその系譜の先にあった。

After Effectsで動くロゴ、UIの上で滑るアニメーション、画面の端から端へ走るインジケーター。それらが「動き」をあたりまえに扱えるのは、最初に「線とは点が動いた跡だ」と書いた人間がいたからだ――というのは、少し言いすぎかもしれない。それでも、線が時間を持てると教えた最初のひとりが、1921年のヴァイマールの教室に背中から入ってきたヴァイオリン弾きの画家だったことは、覚えておいて損はない。点が散歩に出かけたあの一文から、ちょうど一世紀。線はいまも、画面のなかを歩き続けている。

Q&A

クレーは音楽家になる選択肢もあったのですか?
両親はともに音楽家で、クレー自身も7歳からヴァイオリンを習い、11歳でベルン音楽協会から特別団員として演奏に招かれていました。1903年から1906年の間はベルン交響楽団に客演しています。本格的に画家を志すようになったのは10代の終わりで、その後も妻となるリリー・シュトゥンプは職業ピアニストでした。家庭内の音楽環境は終生続いています。
「中動(medial)」という線の概念はクレーの発明ですか?
概念そのものは古代ギリシャ語文法の中動態(middle voice)から借りています。能動でも受動でもなく、主体が自分自身を動かす行為を表す動詞の態です。クレー研究者ロバート・クディエルカが「自分で動き出す点」というクレーの線の定義と中動態の対応を指摘しています。
『教育スケッチブック』は実際に学生に使われたのですか?
1925年にバウハウス叢書の第2巻として刊行されましたが、本文わずか60ページの薄い本で、内容は短いキャプション付きの図版集に近いものでした。シビュル・モホイ=ナジは1953年の英訳序文で「見ることの冒険」と呼んでいます。息子のフェリックスは「父の講義は信者向きで、熱心な信奉者の小さなサークルしかなかった」と回想しています。
クレーの線の理論は具体的にどんなところで現代に残っていますか?
ブリジット・ライリーは公にクレーへの影響を語っており、グラフィックデザイナーのソール・バスは1944年から45年にかけて、ニューヨークのブルックリン・カレッジでモホイ=ナジの同僚だったジョルジ・ケペシュにバウハウス的視覚言語を学んでいます。バスがハリウッド映画のタイトルシークエンスで矩形や色面を画面の上で踊らせた手法には、クレーが線に時間を与えた発想の系譜が流れ込んでいます。
全3,900ページの教育ノートは今どこで見られますか?
ベルンのツェントルム・パウル・クレーが、2012年から「Bildnerische Form- und Gestaltungslehre」というオンライン版で、ファクシミリと翻刻を全ページ公開しています。日本からも自由にアクセス可能です。

参考文献

Paul Klee Biography|Zentrum Paul Klee
https://www.zpk.org/en/paul-klee-biography
Pedagogical Sketchbook|Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Pedagogical_Sketchbook
Paul Klee|Britannica
https://www.britannica.com/biography/Paul-Klee
Wassily Kandinsky: Bauhaus period|Britannica
https://www.britannica.com/biography/Wassily-Kandinsky/Bauhaus-period
What Was Paul Klee’s Pedagogical Sketchbook?|TheCollector
https://www.thecollector.com/what-was-paul-klee-pedagogical-sketchbook/
5 Art Lessons from Bauhaus Master Paul Klee|Artsy
https://www.artsy.net/article/artsy-editorial-how-to-be-an-artist-according-to-paul-klee
A-Z of Paul Klee|Tate
https://www.tate.org.uk/art/artists/paul-klee-1417/a-z-paul-klee
Bridget Riley: Studies, 1984–1997|David Zwirner
https://www.davidzwirner.com/exhibitions/2020/bridget-riley-studies-1984-1997

基本データ

人物
パウル・クレー (Paul Klee)
生没年
1879年12月18日(スイス・ミュンヘンブッフゼー)– 1940年6月29日(スイス・ムラルト)
国籍
法的にはドイツ(父方継承)。晩年にスイス市民権を申請したが、承認は死の数日後となった
活動拠点
ベルン、ミュンヘン、ヴァイマール、デッサウ、デュッセルドルフ
バウハウス在籍
1921年1月 – 1931年4月(マイスター職)
主要著作
『創造的告白』(Schöpferische Konfession, 1920)、『教育スケッチブック』(Pädagogisches Skizzenbuch, 1925)、『パウル・クレー手稿』(Paul Klee Notebooks, 1956–1964)
本記事で言及した主要作品
『赤のフーガ』(Fuge in Rot, 1921, 24.4×31.5cm, ツェントルム・パウル・クレー蔵)、『北方植物群の和声』(1927)、『より厳しく、より自由なリズム』(1930)、『ポリフォニー』(1932)
『教育スケッチブック』詳細
バウハウス叢書 第2巻 / 編集:ヴァルター・グロピウス / 装丁:ラースロー・モホイ=ナジ / 出版:1925年 / 本文約60ページ / 英訳:1953年(シビュル・モホイ=ナジ)
教育ノート全体
「Beiträge zur bildnerischen Formlehre」を含む手稿は約3,900ページに及び、ベルンのツェントルム・パウル・クレーが2012年からオンラインで全ページ公開

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