ゴッホを観ると、本当にコルチゾールが下がる|アート鑑賞の身体効果を初めて計測した英研究

ゴッホを観ると、本当にコルチゾールが下がる|アート鑑賞の身体効果を初めて計測した英研究

目次

ゴッホの前で唾液を採られる

ロンドン、サマセット・ハウスの一角にあるコートールド美術館。1889年のゴッホ《包帯をした自画像》の前で、ひとりの被験者が小さな試験管を口元から離す。手首には研究用のデジタルウォッチ。これから測定されるのは作品の「印象」ではなく、唾液中のコルチゾール、皮膚温、心拍変動だ。

絵を観ることが本当に身体に効くのか。長らく感覚的に語られてきたこの問いに、英国の慈善団体Art Fundとキングス・カレッジ・ロンドンが2025年10月28日、ひとつの答えを出した。

何が測られたのか

研究プロジェクトの名称は「The Physiological Impact of Viewing Original Artworks vs. Reprints」。2025年7〜9月にコートールド美術館で実施され、18〜40歳の50人が参加した。

参加者は二群に分かれる。一方はギャラリー内でマネ、ゴッホ、ゴーギャンの実作と対面し、もう一方は同じ作品の複製をギャラリー以外の場所で鑑賞する。心拍変動と皮膚温は研究グレードのスマートウォッチで、コルチゾールと炎症性サイトカインは唾液サンプルで測定された。

数字は明快だった。

ストレスホルモンであるコルチゾールは、実作群で平均22%低下。複製群はわずか8%にとどまった。炎症性サイトカインのIL-6とTNF-αも、実作群で30%と28%それぞれ減少。複製群では変化が観察されなかったという。

「3つの身体システムが同時に動いた」

研究を率いたキングス・カレッジ・ロンドンのトニー・ウッズ博士は、最も驚くべき発見として、免疫系・内分泌系・自律神経系という3つのシステムに同時にポジティブな影響が記録された点を挙げる。これは過去の研究では捉えられていなかった現象だ。

つまりアート鑑賞は、リラックスとともに身体を覚醒させる。実作群では皮膚温が0.74℃下がり、心拍パターンの変動と心拍数の上昇が同時に観察された。研究チームはこれを「身体への文化的ワークアウト(cultural workout for the body)」と表現した。

興味深いのは、パーソナリティや感情知能(EQ)の高低が反応に影響しなかったこと。芸術への感受性が高くなくても、身体は等しく反応する。ウッズ博士の言葉を借りれば「アートは感情を揺さぶるだけでなく、身体も鎮める」。

なぜ「コートールド美術館」だったのか

実験会場のコートールド美術館は、ロンドンの中でも独特の存在感を放つ。マネ《フォリー・ベルジェールのバー》、ゴッホ《包帯をした自画像》、そして英国最大規模のセザンヌ・コレクションを所蔵する、印象派・ポスト印象派研究の総本山だ。

被験者が向き合った《包帯をした自画像》には、絵にまつわる物語がある。1888年12月、ゴッホはアルル滞在中にゴーギャンと激しく口論。その夜、自らの左耳をそぎ落とした。本作はその約一週間後、1889年1月に描かれた。冬の寒さと包帯を固定するために買ったばかりの毛皮帽、背後にある描きかけのカンバスと日本の浮世絵。狂気からの帰還ではなく、「それでも描き続ける」という静かな宣言の絵である。

そうした絵の前で唾液を採取するという、いささかシュールな実験。研究チームは「絵を観ることがあなたに良い」というぼんやりした感覚を、生理学的データで裏付けることを狙った。

Art Fundという仕掛け人

研究を発案したArt Fundは、1903年創立、英国の美術館・ギャラリーを支援する全国規模の慈善団体だ。会員制の「ナショナル・アート・パス」を発行し、英国内850以上のミュージアムへの無料・割引入場を提供している。

つまり今回の研究には、明確な実利的狙いがある。「アートはあなたの身体に効く。だから美術館へ行こう。パスを買おう」というキャンペーン的な含意だ。ディレクターのジェニー・ウォルドマンも、誰もがこの効果を自分の身体で確かめてほしい、と発表に添えた。

ただし、共同助成団体には精神医療研究を支援するPsychiatry Research Trustが入っており、研究自体はキングス・カレッジの神経精神科学・精神医学研究所(IoPPN)が担当している。論文は現時点で査読前段階であり、結論の決定版というより、今後の本格的研究の足がかりという位置づけだ。

複製と本物のあいだ

この研究のもうひとつの面白い論点は、「実物と複製で差が出た」という結果そのものにある。同じ絵を見ているのに、なぜ反応が違うのか。

仮説はいくつかある。額装や筆致の微細な質感、ギャラリーという空間の静けさ、自分でその場所に出向いたという身体的能動性。研究は要因の切り分けまではしていないが、デジタル画像で美術を消費することが普通になった時代に、「物理的にそこへ行く」体験の意味を再評価させる結果ではある。

日本でも、似た問いは立ち上がっている

日本国内でも、アート鑑賞と身体・精神への効果を測ろうとする試みは進んできた。

愛知のメナード美術館は、国内では先駆けて美術館における癒し効果を測定した研究を実施。国立長寿医療研究センターは、認知症の人とその家族・介護者が一緒に作品を鑑賞しながら対話する「アートリップ」プログラムが、参加者のうつ症状の軽減やQOL向上に寄与することを報告している。九州産業大学の緒方泉特任教授らは「博物館浴」という独自の概念で、博物館・美術館の鑑賞がもたらす心身への影響を継続的に調査している。

英国の今回の研究は、こうした流れの中で「即時的・生理学的に何が起きているか」を本人の自覚なしに測ったところに新規性がある。逆に言えば、日本各地の文化施設にも、同じ手法で測定すれば説明可能な「効能」が眠っている可能性が高い。

美術館へ行く理由が、ひとつ増えた

「絵を観ると気分がいい」を、内分泌・免疫・自律神経の三系統で同時に説明する。それが世界で初めて記録されたのが2025年秋のロンドンだった、というのが今回のニュースの核心である。

査読前であること、サンプル数50人という規模、若年層に限定された被験者など、断定するには早い留保はいくつもある。それでも、近所の美術館を訪ねる45分が身体に何かを起こしている、というささやかな事実は、しばらく頭の片隅に残る。次にコートールドのゴッホに会う機会があれば、絵を見るというより、絵に身体を測られている、と思ってみてもいい。

メモ

研究名
The Physiological Impact of Viewing Original Artworks vs. Reprints: A Comparative Study (2025)
発案・出資
Art Fund(National Art Pass)、Psychiatry Research Trust
研究実施機関
キングス・カレッジ・ロンドン 神経精神科学・精神医学研究所(IoPPN)
主任研究者
トニー・ウッズ博士(Dr Tony Woods)
実験会場
コートールド美術館(The Courtauld Gallery、ロンドン・サマセット・ハウス)
実施期間
2025年7月〜9月
被験者
50名(18〜40歳)
測定方法
唾液中コルチゾール・サイトカイン(IL-6, TNF-α)、心拍変動、皮膚温(研究用スマートウォッチ)
鑑賞作品
マネ、ゴッホ、ゴーギャン、トゥールーズ=ロートレックなどの実作および同作品の複製
主な結果
コルチゾール22%減(複製群8%)、IL-6 30%減、TNF-α 28%減、皮膚温-0.74℃
発表日
2025年10月28日
査読状況
査読前(プレプリント段階)

Q&A

この研究はどこで読めますか?
論文「The Physiological Impact of Viewing Original Artworks vs. Reprints: A Comparative Study (2025)」はArt Fund公式サイトでPDF公開されています。ただし現時点で査読前の段階です。
なぜ参加者は18〜40歳に限定されたのですか?
公表資料では年齢層を絞った理由まで明示されていませんが、心拍変動やコルチゾールなどの生理指標は年齢で大きく変動するため、ばらつきを抑える狙いと推測されます。今後より幅広い年齢層での追試が期待されます。
デジタル画像や複製では効果が出ないのですか?
研究では複製群でもコルチゾールが8%低下したものの、実作群(22%)と比べ効果は大幅に小さく、炎症性サイトカインに至っては変化が見られませんでした。空間体験を含む「実物に会いに行く」行為自体に意味がある可能性が示唆されています。
コートールド美術館以外でも同じ結果が出るのでしょうか?
今回の研究はコートールド一館での実施です。研究チームは追試と他館での再現性検証が必要としています。日本でもメナード美術館や国立長寿医療研究センターが類似テーマの先行研究を行っており、文化的・地域的な比較は今後の課題です。
どのくらいの時間、絵を観れば効果がありますか?
公表資料では具体的な鑑賞時間は明示されていません。ただ実験デザインから、いわゆる「美術館を訪れる程度の時間」で測定可能な変化が起きていることがわかります。

参考文献

First-of-its-kind study proves positive impact of art on the body – Art Fund
https://www.artfund.org/our-purpose/news/first-of-its-kind-study-proves-positive-impact-of-art-on-the-body
The positive impact of art on the body – King’s College London
https://www.kcl.ac.uk/news/the-positive-impact-of-art-on-the-body
First-of-its-kind study proves positive impact of art on the body – The Courtauld
https://courtauld.ac.uk/news-blogs/2025/first-of-its-kind-study-proves-positive-impact-of-art-on-the-body/
Looking at a Van Gogh Is Good for Your Health, New Study Reveals – Artnet News
https://news.artnet.com/art-world/art-fund-good-for-health-study-2705392
Stress reduced by 22% when viewing original art, new UK study suggests – Museums + Heritage Advisor
https://museumsandheritage.com/advisor/posts/stress-reduced-by-22-when-viewing-original-art-new-uk-study-suggests/
Self-Portrait with Bandaged Ear – The Courtauld
https://courtauld.ac.uk/highlights/self-portrait-with-bandaged-ear/
癒しの空間 美術館について – メナード美術館
https://museum.menard.co.jp/outline/healing.html
美術鑑賞は健康に良い?休日には家族でアートを楽しもう – セゾンのくらし大研究
https://life.saisoncard.co.jp/health/second-life/post/ishida1/

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