「見えないデザイン」の巨人たち|信号機・非常口・点字ブロックの発明史

「見えないデザイン」の巨人たち|信号機・非常口・点字ブロックの発明史

目次

朝の交差点で、信号が黄色に変わる。少し先まで踏み込んでしまった車が、横断歩道の手前で踏みとどまる。当たり前の光景。けれど黄色という「猶予」の数秒が存在しなかった時代、その瞬間に死ぬ人は珍しくなかった。

地下街で煙が充満したとき、人は文字を読まない。視界が霞み、酸素の薄くなった脳に「非常口」の三文字は届かない。あの緑の中で誰かが走る絵が点灯しているのは、そういう理由がある。

駅のホームに、黄色いプツプツした帯がある。靴底や白杖から伝わる微細な凹凸。あれを最初に思いついた人物は、岡山で旅館を営みながら、視覚に障害のある友人が眼を失っていく姿を見ていた。

認知心理学者ドン・ノーマンは『誰のためのデザイン?』で書いた。優れたデザインは、悪いデザインよりも気づかれにくい。使う人のニーズに完璧に応えるため、デザインそのものが見えなくなる、と。ただ、見えなくなる前のデザインには、必ず、名前と場所と、たいていは死者の数が付いている。信号機、非常口マーク、点字ブロックの発明者はそれぞれ、1923年のクリーブランド、1973年の熊本、1965年の岡山で、具体的な事故を目撃してから設計に取りかかった。

1923年、クリーブランドの交差点

ガレット・モーガンが信号機の特許を取ったのは1923年11月20日、特許番号は1,475,024。出願は前年の2月27日。ケンタッキー州に奴隷だった両親のもとで生まれ、14歳で北へ出て、クリーブランドでミシン修理工から身を起こした46歳のアフリカ系アメリカ人だった。学校教育は6年しか受けていない。

きっかけは、ある交差点で目撃した事故だった。馬車と自動車が衝突し、馬車に乗っていた幼い子供が巻き込まれる。当時のアメリカでは新参の自動車と旧来の馬車、路面電車、自転車、歩行者が同じ道を奪い合っていた。信号機自体は1868年にロンドンで設置されていたが、「進め」と「止まれ」の二つしかない。切り替わった瞬間、交差点の真ん中にいた者は逃げ場を失う。

モーガンが特許を取ったのはT字型の手動式信号機で、三つの位置を持っていた。Go、Stop、そして「全方向Stop」。すべての方向の交通を一度止め、交差点を空にしてから次の方向に進ませる仕組み。今の黄色信号と、横断歩道で全方向赤になる瞬間の原型である。

特許はジェネラル・エレクトリック社に4万ドルで売却された。現在の貨幣価値で60万ドルから73万ドル前後と試算される。GEはこのアイデアを電気式信号機に組み込み、全米の主要都市に展開していった。モーガン自身はその金でオハイオ州ウェイクマンに250エーカーの土地を買い、当時は人種隔離されていたカントリークラブをアフリカ系アメリカ人のために開いている。

信号機はモーガンの一発屋的な発明ではなかった。1912年に煙から呼吸を守る「セーフティ・フード」を考案し、1914年に特許を取得している。これが後の防毒マスクの原型になった。1916年、エリー湖の湖底15メートルを走る送水トンネルで爆発事故が起きた時、モーガン本人が自作のフードをかぶって坑内に潜り、閉じ込められた作業員を運び出している。この救出での彼の役割は、当時ほとんど報じられなかった。

後に誰が「最初の三位置式信号」を発明したかをめぐって論争が起きるが、特許を最初に取り、最も広く普及した形を確立したのはモーガンだった。100年後の現在、米国内の信号機設置交差点は30万を超える。

煙の中で読めなかった三文字

1973年11月29日、午後1時15分頃。熊本市下通の大洋デパートで火災が起きた。改装中の建物、避難誘導の不備、装飾のためにベニヤ板で塞がれた窓。8時間燃え続け、104人が死亡した。日本の営業中デパート火災としては最悪の惨事になった。

死者の多くは、煙に巻かれて出口を見つけられないまま亡くなった。当時の非常口表示は赤地に白抜きの「非常口」という漢字三文字。煙の中で漢字は読めない。停電すれば見えなくなる。

事故の翌年から日本の消防法令は大きく書き換えられる。既存建築物への消防設備の遡及適用、スプリンクラー設置義務の拡大、定期点検報告制度。物理的なハードウェアの規制と並行して、避難誘導の「情報のハードウェア」も問い直されることになった。漢字の看板を、誰にでも一瞬で意味が届く絵に置き換える作業。これが太田たちに与えられた課題だった。

1979年、消防庁はピクトグラム形式の非常口サインを全国公募した。集まったイメージとアイデアは3,373点。NHKも協力し、煙を通して見る、瞬間照明で識別するといった視認実験で候補が絞られた。残った1点、小谷松敏文の案をもとに、グラフィックデザイナーの太田幸夫が中心となってデザインを整えていく。

太田は1939年、愛知県刈谷市生まれ。多摩美術大学を1962年に出てヴェネツィア国立美術アカデミーで学んだ後、1964年から「LoCoS(Lovers’ Communication System)」という絵文字言語の研究を始めていた。言葉を超える視覚記号を、学術的な情熱で追いかけていた人物。

非常口ピクトグラムについて、太田はあとからこう語っている。人々が「ゆっくり走る」ように促すことが目的だった、と。慌てず、しかし急いで。背景の緑は「進め」の信号の色、安全方向を示す色である。図像のなかでドアに向かう人物の足は、急いでいるが、つんのめってはいない。

1980年、それまでの文字表記に代わる絵文字表記として日本工業規格(JIS)になった。消防庁はこれをISOに日本案として提案する。ところが国際規格案は、数年前からソ連案に内定していた。日本政府には正式な抗議文が届き、新聞も大きく報じた。そして両国の図像は、互いに何も知らないまま、ほぼ同じ意味をほぼ同じ手法で表現していた。

両案を見比べた太田は後にこう述べている。文化を超えた、人間にとって本質的な脱出のサインがそこにあった、と。1985年、ISOの国際会議で日本案が内定し、1987年にISO 6309として国際標準に組み込まれた。現在はISO 7010のE001として規定されている。

日本のデザインが国際規格になった、初めての例だった。

旅館の主人とセントバーナード

1963年頃、岡山市内で旅館を営む三宅精一が、ある考えごとに取り憑かれていた。彼は1926年倉敷生まれ。旅館業の傍らで自動車のナンバープレート融雪装置などを手がけ、試作品は100種類を超えていたという、町の発明家だった。

きっかけはセントバーナード犬だった。三宅が飼い始めた大型犬の縁で、日本ライトハウス二代目理事長・岩橋英行と親交が始まる。岩橋は眼の病を抱えており、数年のうちに失明することがほぼ確定していた。動物好きの二人は急速に親密になった。

ある日、三宅は街中の横断歩道で白杖をついた視覚障害者の前を、自動車が勢いよく走り去るのを目撃する。歩道と車道の境目を知らせる手段はないか。考えあぐねていた三宅に、視覚障害のある友人が言った。靴を履いていても、足の感触で地面の状態は分かる、と。

三宅は突起のあるブロックを思いついた。30cm四方、表面に7×7の突起。後に配列は何度も改良され、進行方向を示す線状の突起と、危険箇所で立ち止まらせる点状の突起の二種類になる。名前は「点字ブロック」。実際には点字ではないが、視覚障害者のための器具だと社会に直感させるために、あえてそう呼んだ。

1967年3月18日、岡山県立岡山盲学校に近い国道2号(現・国道250号)原尾島交差点周辺に、230枚の点字ブロックが世界で初めて敷設された。費用は全額、三宅が私費で寄贈している。

その後も、新しい道路や歩道橋ができるたびに彼は寄贈を続けた。経営する旅館の傍ら、安全交通試験研究センターを設立して普及活動に専念。色は当初グレーだったが、弱視の人にも見えるよう、黄色に統一することを強く主張した。1970年、大阪の国鉄阪和線我孫子町駅ホームに敷設されたのを契機に、駅構内への普及が一気に進む。視覚障害者のホームからの転落死亡事故が相次いだことが、ようやく公共交通を動かした。

三宅の発明は点字ブロックだけではない。1967年6月には青信号で振動する「振動触知式信号機」を試作し、翌1968年に宇都宮市で初めて設置されている。視覚障害者が信号の色を「足の感覚」で知るための装置だった。

三宅は1982年7月10日、56歳で病没した。点字ブロックがJIS規格として正式に標準化されたのはその19年後の2001年、ISO国際規格(ISO 23599)になったのはさらに11年後の2012年。半世紀かけて、彼の発明はようやく規格上の「成人式」を迎えた。現在75カ国以上で、同じ思想を持つ点字ブロックが使われている。

三人を貫いていたもの

三人は同じパターンで仕事をした。事故を見て、設計に取りかかり、そして商業的な見返りをほとんど手にしなかった。モーガンは特許を1度きりで売り渡し、太田は委員会の注文に応じて58案の走る人を描き分け、三宅は自費で敷設し続けた。

そして三つとも、いまでは見えない。

黄色信号で減速する朝、1923年のクリーブランドで馬車に乗っていた子供のことは、誰も思い出さない。煙の中を緑のサインに従って進むとき、熊本で亡くなった104人を、思いはしない。点字ブロックの黄色い帯を踏み越えていくとき、岡山の旅館主が貯金を切り崩していたことは、誰も知らない。

ノーマンの言う「見えないデザイン」とは、たぶん、こういうことだ。それを使った人が、生きて目的地に着いてしまったので、わざわざ振り返らない。

三人とも、自分の名前が広く知られなくてもいいと思っていたふしがある。モーガンは特許を売り渡し、太田は委員会の名のもとに仕事をし、三宅は晩年まで岡山の旅館を続けた。署名されないデザインが、誰かを生かす。それは、一度死を見た人間にしか作れない種類のデザインだったのかもしれない。

Q&A

なぜ非常口マークは緑色なのか?
火災時の炎の赤色に対して、視認性が高い補色寄りの色だから。蓄光素材を使えば停電時に小さな照明の役割も果たす。信号機の「進め」と同じく、安全方向を直感的に示す色として選ばれた。
点字ブロックがJIS規格になるまでに30年以上かかった理由は?
三宅精一の発明後、地域や事業者ごとに突起の形状や配列がバラバラに発展してしまった。視覚障害者にとってはむしろ混乱の原因にもなった。2001年のJIS化は、その混乱を全国共通の二種類(進行方向を示す誘導ブロックと、危険箇所を示す警告ブロック)に整理する作業だった。
ガレット・モーガンは本当に「黄色信号」を発明したのか?
厳密には違います。モーガンの特許は「どの方向にも進ませる前に全方向を止める」第三の位置を持つ手動式信号機で、電球の黄色ではありません。信号機自体も1868年のロンドンが先です。ただ、交差点に取り残された車を逃がす「猶予」という発想を特許として確定させ、ジェネラル・エレクトリック社経由で全米の電気式信号に組み込ませたのはモーガンでした。
日本とソ連が似た非常口デザインに行き着いたのは偶然か?
ISOではソ連案が数年前から内定しており、日本案は後発でした。両者に事前のやりとりはありません。1960年代以降、空港や五輪を通じて多言語環境の標識需要が各国で同時に高まっており、同じ問題から独立に近い答えが出たと考えるのが自然です。太田自身も、文化を超えて人間に共通する脱出のサインだったと振り返っています。
「見えないデザイン」という言葉は誰が言い出したのか?
認知心理学者ドン・ノーマンが『誰のためのデザイン?』(1988年原著)で展開した考えに近い。優れたデザインはニーズに完璧に応えるため気づかれにくい、と書いている。一方ディーター・ラムスの「より少なく、しかしより良く」も同じ思想を、プロダクトデザインの側から表現している。

参考文献

Garrett Morgan | National Inventors Hall of Fame
https://www.invent.org/inductees/garrett-morgan
Diverse Voices: Inventor Garrett Morgan | Lemelson Center, Smithsonian
https://invention.si.edu/invention-stories/diverse-voices-inventor-garrett-morgan
ISO 7010 E001 ‘Running Man’ Exit Sign | People’s Graphic Design Archive
https://peoplesgdarchive.org/item/13588/iso-7010-e001-running-man-exit-sign
太田幸夫 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/太田幸夫
大洋デパート火災 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/大洋デパート火災
三宅精一 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/三宅精一
財団のあゆみ | 一般財団法人 安全交通試験研究センター
http://www.tsrc.or.jp/anzen/history/
点字ブロック誕生から半世紀 岡山の男性が発明、75カ国に拡大 | 日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG25H1L_V20C17A4CR0000/

基本データ

モーガン式三位置信号機|発明者
ガレット・A・モーガン(Garrett Augustus Morgan, 1877-1963)
モーガン式三位置信号機|特許
米国特許 No. 1,475,024、1923年11月20日付与(出願1922年2月27日)
モーガン式三位置信号機|形式
T字型・手動式・三位置(Go/Stop/全方向Stop)、後にジェネラル・エレクトリック社が4万ドルで権利取得
非常口ピクトグラム|原案
小谷松敏文(1979年の消防庁全国公募、3,373点から選定)
非常口ピクトグラム|デザイン整形
太田幸夫(1939年-、グラフィック/サインデザイナー、元・多摩美術大学教授)
非常口ピクトグラム|規格化
1980年JIS制定、1982年1月20日消防庁告示(同年4月1日施行)、1985年ISO国際会議で内定、1987年ISO 6309に収載、現行はISO 7010 E001
点字ブロック|考案者
三宅精一(みやけ せいいち、1926年2月5日-1982年7月10日、56歳没。倉敷生まれ、岡山で旅館業)
点字ブロック|世界初の敷設
1967年3月18日、岡山県立岡山盲学校近傍の国道2号(現・国道250号)原尾島交差点周辺、230枚を三宅が私費で寄贈
点字ブロック|規格化
2001年JIS化(誘導/警告の二種)、2012年ISO 23599として国際規格化、現在75カ国以上で導入

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