未来派と速度の美学|ボッチョーニ、マリネッティが「速さ」を神にした理由

未来派と速度の美学|ボッチョーニ、マリネッティが「速さ」を神にした理由

目次

溝に落ちた男が、世界を変えた

1908年10月15日、ミラノ郊外のドモドッソラ通り。深夜のドライブに興じていたひとりの詩人が、突然現れた自転車を避けようとしてハンドルを切り損ね、愛車のフィアットごと側溝に突っ込みました。泥まみれで引き上げられたその男――フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティは、しかし絶望するどころか、まるで洗礼を受けたかのように目を輝かせていたといいます。工場の排水で黒く染まった溝の底で、彼は「未来」を見たのです。

翌1909年2月20日、パリの大新聞『ル・フィガロ』の一面に、奇妙な宣言文が掲載されました。「われわれは宣言する。世界の壮麗さは、新しい美によって豊かになった――速度の美である」。轟音をあげて疾走する自動車は、あのギリシャ彫刻の傑作「サモトラケのニケ」よりも美しい、と。溝に落ちた男が書いたこの「未来派宣言」は、20世紀の芸術とデザインの流れを決定的に変えることになります。これは、「速さ」に取り憑かれた人々の物語です。

なぜイタリアは「速さ」を求めたのか――遺跡の国の焦燥

未来派の過激さを理解するには、当時のイタリアが置かれていた状況を知る必要があります。20世紀初頭のイタリアは、古代ローマやルネサンスの遺産に押しつぶされそうな国でした。観光客はコロッセオやウフィツィ美術館に群がり、国際社会はイタリアを「過去の栄光の博物館」として扱っていました。国民の約6割がいまだ農業に従事し、工業化ではイギリスやドイツに大きく後れを取っていたのです。

しかし、北イタリアでは変化の兆しが見えていました。ミラノを中心とする「工業の三角地帯」(ミラノ、トリノ、ジェノヴァ)には、フィアットやランチア、アルファ・ロメオといった自動車メーカーが次々と誕生し、ヨーロッパ大陸初の発電所がミラノに建設されていました。1899年から1907年にかけて国民所得は約38パーセントも上昇したとされています。街には路面電車が走り、工場の煙突が林立し、タイプライターを製造するオリベッティ社が操業を始めていました。

このコントラストが、若い芸術家たちを苛立たせました。自分たちの足元では近代化が進んでいるのに、文化の世界では相変わらずラファエロやミケランジェロが崇拝されている。イタリア美術はルネサンスの亡霊に支配されている――そう感じた彼らにとって、「速さ」とは単なる物理的な速度ではなく、停滞した文化を打ち破る精神的なダイナマイトだったのです。同時に、自動車や飛行機という新しいテクノロジーが人間の移動能力を劇的に変えつつあった時代でもありました。1903年にはライト兄弟が初飛行に成功し、同年のパリ=マドリード間自動車レースでは、レーサーのマルセル・ルノーが時速の限界に挑んで命を落としています。速度は文字通り、命がけの冒険でした。

マリネッティ――カリスマ的扇動者の肖像

未来派の「教祖」マリネッティは、一般的な芸術家のイメージからはかけ離れた人物でした。1876年にエジプトのアレクサンドリアで裕福な弁護士の息子として生まれ、フランス語で教育を受け、パリとミラノを行き来するコスモポリタン。ダンディで弁舌が巧みで、人の心をつかむ天性の才能を持っていました。作家フランチェスコ・カンジュッロは彼を「騒々しく、奇妙で、色彩豊かな生活様式」の持ち主と描写しています。

しかしマリネッティの真骨頂は、詩作そのものよりもプロパガンダにありました。彼は「宣言文(マニフェスト)」という形式を芸術のジャンルに高めた人物です。未来派宣言をフランス語で書き、イタリアではなくパリの新聞に掲載するという離れ業をやってのけたのも、より広い読者に届けるための計算でした。「ダイナミズム」と「フューチャリズム」のどちらを運動名にするか迷ったという逸話も残っていますが、最終的により挑発的な「未来派」を選んだあたりに、彼のマーケティング感覚が光ります。

マリネッティはまた、「速度は神聖なものだ」と本気で信じていました。彼は後年の文章でこう書いています。「内燃機関とゴムタイヤは神聖だ。自転車もオートバイも神聖だ。ガソリンは神聖だ。百馬力に触発される宗教的恍惚もまた神聖だ」。アクセルを踏み込む快感、ギアを3速から4速に入れる喜び――彼にとって運転とは、文字通り宗教体験だったのです。

速度を身体に刻む――ボッチョーニの彫刻革命

マリネッティが言葉で「速度の美」を説いたとすれば、それを立体として実現したのがウンベルト・ボッチョーニでした。1882年にレッジョ・カラブリアで生まれたボッチョーニは、もともと画家として訓練を受けていましたが、1912年に彫刻に取り組み始めます。「このごろ彫刻に取り憑かれている! あのミイラ化した芸術を完全に刷新する手がかりを、つかんだと思う」と彼は興奮気味に語っています。

1913年に完成した《空間における連続性の唯一の形態》は、未来派彫刻の最高傑作とされる作品です。人間のような形態が前へ前へと歩み出す姿を捉えていますが、その身体は風と速度によって変形し、空気力学的な流線形を描いています。顔は十字形に抽象化され、ヘルメットを思わせます。腕はなく、代わりに背中から翼のような突起が生えている――しかしボッチョーニによれば、それは身体の一部なのか周囲の環境なのか判然としないものでした。

ボッチョーニが追求したのは、「分析的な不連続」ではなく「総合的な連続」でした。つまり、フランチシェク・クプカやマルセル・デュシャンのように動きをコマ送り的に分解するのではなく、動いている身体と空間が溶け合う瞬間そのものを彫刻にしようとしたのです。「われわれの身体はソファに入り込み、ソファもまたわれわれの身体に入り込む。バスは通り過ぎる家々に突進し、家々もまたバスに突進する」という未来派画家宣言の思想を、三次元で体現した作品でした。

興味深いことに、この彫刻はサモトラケのニケ――マリネッティが「疾走する自動車より劣る」と宣言したあの古代彫刻――を彷彿とさせます。腕のない構造はオーギュスト・ロダンの《歩く人》へのオマージュでもありました。過去を否定しながらも、過去から完全に自由にはなれない。未来派のそんな矛盾が、この彫刻には宿っています。なお、ボッチョーニ自身はこの作品を石膏のまま残し、生前にブロンズに鋳造されることはありませんでした。「その時代にふさわしく、時を超えようなどという大げさな野心は持たない」――未来派らしい刹那的な姿勢の表れだったのかもしれません。

文字が爆発する――「自由語」とタイポグラフィ革命

マリネッティの革新は視覚芸術だけに留まりませんでした。1912年に発表した「未来派文学の技術的宣言」で、彼は文法の破壊を宣言します。「構文を破壊し、名詞を生まれるがままにランダムに配置せよ」「形容詞を廃止し、裸の名詞がその本質的な色彩を保つようにせよ」。マリネッティはこれを「パローレ・イン・リベルタ(自由語)」と呼びました。

この理論の集大成が、1914年に出版された詩集『ザン・トゥン・トゥン(Zang Tumb Tumb)』です。1912年のバルカン戦争で、従軍記者としてアドリアノープルの戦いを取材したマリネッティが、その体験を革命的なタイポグラフィで表現した作品でした。ページの上で文字が爆発し、砲弾の音を模した「ZANG TUMB TUMB」という擬音語が大小さまざまなサイズで配置され、銃声のリズムが視覚的に再現されています。表紙だけでもその革新性は明らかで、「TUMB」の文字が繰り返されるたびにサイズが小さくなり、まるで砲声が遠ざかっていくかのような遠近感が生まれています。

マリネッティは1913年に「タイポグラフィ革命」という短い宣言も発表し、従来の書物のデザインを「17世紀の装飾、花綱と女神、巨大なイニシャルと神話的な植物模様を持つ時代遅れの本」と痛烈に批判しました。「ページの調和として知られるものに対する革命」を宣言し、文字のサイズ、太さ、方向を自在に操ることで、読む行為そのものに「速度」を注入しようとしたのです。これは20世紀のグラフィックデザインとタイポグラフィに計り知れない影響を与えることになります。

騒音の芸術――ルッソロの「イントナルモーリ」

未来派の「速度崇拝」は、音の世界にも及びました。画家でもあったルイージ・ルッソロは、1913年3月11日付で作曲家フランチェスコ・バリッラ・プラテッラに宛てた書簡の形で、「騒音の芸術(L’arte dei Rumori)」という宣言を発表します。ルッソロの主張は明快でした。産業革命以後、人間の耳は都市と工場の騒音に慣れ親しんでしまった。もはやヴァイオリンやフルートの限られた音色では、現代人の感性を満足させることはできない。機械の轟音、蒸気の噴出、歯車の軋みこそが、新しい時代の音楽なのだ、と。

驚くべきことに、ルッソロはこの理論を実践に移しました。「イントナルモーリ(騒音楽器)」と名付けた一群の機械式楽器を自ら設計・製作し、レバー操作によって唸り、叫び、爆発し、囁く音を生み出したのです。1914年4月21日、ミラノで開かれた最初の公開コンサートは、伝説的な大騒動になりました。ある同時代の記録によれば、「第三曲が始まると驚くべきことが起こった。マリネッティ、ボッチョーニ、アルマンド・マッツィ、ピアッティが舞台から消え、空のオーケストラ・ピットから飛び出し、観客席に突入して、伝統の怒りに酔った大勢の保守派にパンチ、平手打ち、棍棒で応戦した」。その間もルッソロは平然と指揮を続けていたというのですから、まさに未来派の面目躍如です。

作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーも、1915年にミラノでルッソロの楽器を体験しています。後年の回想によれば、「5台の蓄音機が大きな空っぽの部屋に置かれ、消化音や雑音を出していた」とのこと。ストラヴィンスキーは「感激したふりをして、こうした蓄音機セットを量産すれば、スタインウェイのグランドピアノのように売れるに違いないと言ってやった」と、やや辛辣に振り返っています。しかし皮肉なことに、ルッソロの発想は後の電子音楽、ミュジーク・コンクレート、ノイズミュージックの先駆として、今日では高く評価されています。

賞賛と暴力と――未来派の「夜会」という名の戦場

未来派の活動を語るうえで欠かせないのが、「セラータ・フトゥリスタ(未来派の夜会)」と呼ばれるパフォーマンスイベントです。マリネッティとその仲間たちは、劇場の舞台に立って宣言文を朗読し、挑発的な詩を叫び、観客に向かって侮辱的な言葉を浴びせました。観客の方も負けてはおらず、腐った野菜を投げつけるのが恒例でした。ボッチョーニが描いた風刺画には、激昂した観客が舞台に向かって身振り手振りで怒鳴っている様子が描かれています。

最も有名なエピソードのひとつが、1910年にヴェネツィアで配布された「過去愛好のヴェネツィアに反対する宣言」です。マリネッティはそこで、「崩壊しつつある癩病のような古い宮殿の瓦礫で、小さな臭い運河を埋め立てよ」と要求し、「工業化され軍事化されたヴェネツィア」の誕生を呼びかけました。マリネッティ自身、これらの活動で何度も逮捕されています。

同時代の評価は当然ながら真っ二つに分かれました。若い芸術家たちの一部は未来派の急進性に魅了され、ロシア、イギリス、フランスにまで波及しました。一方で、未来派が戦争を「世界の唯一の衛生法」と賛美し、女性蔑視を公言し、美術館や図書館の破壊を叫んだことは、多くの批判を招きました。特に問題視されるのは、マリネッティが後にベニート・ムッソリーニとの関係を深め、1919年にファシスト宣言の共著者となったことです。未来派の「速度と暴力の美学」は、ファシズムの暴力的なナショナリズムと不気味なほど親和性を持っていました。

速度は止まらない――線でスピードを描いた後継者たち

未来派が撒いた「速度の美学」という種子は、運動そのものが衰退した後も芽を出し続けました。その最も華やかな開花が、1920〜30年代のアール・デコ期に訪れます。

フランスのグラフィックデザイナー、A・M・カッサンドル(本名アドルフ・ムーロン、1901〜1968)は、未来派の影響を商業デザインに昇華させた人物です。1927年に制作されたポスター《北急行(Nord Express)》は、パリからリガを結ぶ豪華列車を宣伝するものでしたが、そこに描かれているのは旅先の美しい風景ではなく、無限の彼方へ向かって疾走する機関車そのものでした。大胆な幾何学的構成、消失点へと収束する線路、車輪の回転を暗示する幾何学模様。画面のすべてが「スピード」を叫んでいます。同年に制作された《北の星(Étoile du Nord)》では、さらに大胆に列車そのものを画面から消し、無限に収束する線路のみで鉄道の疾走感を表現しました。列車を描かずに列車の速さを伝える――カッサンドルのこの離れ業は、後のグラフィックデザインに決定的な影響を与えています。

アメリカでは、レイモンド・ローウィ(1893〜1986)が「流線形(ストリームライン)」デザインの旗手となりました。パリ生まれのこの工業デザイナーは、「静止していても速そうに見える」ことをデザインの原則にしました。1930年代にペンシルベニア鉄道と提携して手がけた蒸気機関車のデザインは、その理念の結晶です。1939年に完成したS1型機関車は、全長約42メートルという史上最長の蒸気機関車で、アール・デコ調の流線形カウリングをまとい、停車中でさえ時速160キロで走っているかのような迫力がありました。ローウィ自身、S1が全速力で通過する様子を線路脇で見守った体験をこう記しています。「約100万ポンドの機関車が私のそばを轟音とともに通過した。その風圧に吸い込まれそうになりながら、自分が創り出すのを手伝ったものの威力に、打ちのめされるような感動を覚えた」。

速さの代償――未来派が残した光と影

「速さ」を神にした人々の物語は、残酷な結末を迎えます。未来派は戦争を「世界の唯一の衛生法」と賛美し、第一次世界大戦へのイタリア参戦を積極的に推進しました。その結果、運動の最も才能ある芸術家たちが命を落とすことになります。

ボッチョーニは1916年8月、軍事訓練中に落馬して34歳で亡くなりました。建築家アントニオ・サンテリアも同年、28歳で戦死しています。サンテリアが描いた未来都市のスケッチ――大規模な交通システムと垂直に伸びる建築群の構想――は、実現されることなく紙の上に残されました。自ら戦争を求めた未来派は、自らが生み出した最良の人材を戦争に奪われたのです。

マリネッティは第二次世界大戦末期の1944年まで生き延びましたが、晩年はファシスト政権の中で次第に影響力を失い、かつての急進性を妥協し続ける日々でした。かつて美術館の破壊を叫んだ男が、アカデミー会員に就任したのは何とも皮肉な結末です。彼が最後まで夢見た「工業化され軍事化されたイタリア」は、連合国の爆撃の下で瓦礫と化しました。

しかし、未来派の遺産を政治的な文脈だけで裁くのは公平ではないでしょう。彼らがファシズムと親和性を持っていたのは事実ですが、多くの未来派芸術家はファシストになる前に亡くなっています。また、ロシアの未来派は共産主義と結びつき、イギリスのヴォーティシズムは異なる政治的文脈の中で展開されました。「速度の美学」そのものに罪はなく、問題はそれがどのような政治的文脈に置かれたかにあるといえます。

あなたのポケットの中の「速さ」――未来派と現代

今、あなたのポケットの中にあるスマートフォンを取り出してみてください。画面をスワイプする指の動き、瞬時に切り替わるアプリ、ストリーミングで流れ続ける音楽。私たちは「速さ」の中に生きています。マリネッティが夢見た「永遠の、遍在するスピード」は、彼が想像もしなかった形で実現したと言えるかもしれません。

デザインの世界では、未来派の遺産はいたるところに息づいています。ボッチョーニの《空間における連続性の唯一の形態》は、イタリアの20セント硬貨の裏面に刻まれ、毎日何百万人もの手に触れています。カッサンドルの「速度を線で表現する」手法は、現代のモーショングラフィックスの基礎となっています。ルッソロの「騒音の芸術」は、電子音楽からインダストリアル・ロックまで、現代音楽のあらゆるジャンルに影響を与えています。イギリスのシンセポップバンド「アート・オブ・ノイズ」がその名をルッソロの宣言から取っていること、また、プロデューサーのトレヴァー・ホーンがマリネッティの詩にちなんで「ZTT」レーベルを設立したことは、その影響の直接的な証拠です。

マリネッティのタイポグラフィ革命――ページの上で文字を爆発させる手法――は、デヴィッド・カーソンのグランジ・タイポグラフィやウェブデザインのキネティック・タイポグラフィへと連なっています。ローウィの「静止していても速そうに見える」流線形デザインの思想は、アップルのプロダクトデザインからテスラの電気自動車に至るまで、「未来的であること」の視覚言語として受け継がれています。

しかし同時に、私たちは未来派が見落としたことからも学ぶべきでしょう。速さを無条件に崇拝することの危うさ、テクノロジーへの無批判な賛美が暴力やファシズムと結びつく可能性、そして「遅さ」や「静けさ」にも固有の美がある、ということ。スローフード運動がイタリアで生まれたのは偶然ではないかもしれません。「速さの国」は、やがて「遅さの価値」をも世界に発信することになったのですから。

溝に落ちた詩人の狂気じみた宣言から100年以上。「速さ」は今も私たちの文化を形作る最も強力な力のひとつであり続けています。ただし、その力をどう使うかは、私たち自身にかかっています。

基本データ

運動名
未来派(フューチャリズム / Futurismo)
活動期間
1909年〜1944年(第一期は1909〜1916年頃)
発祥地
ミラノ、イタリア
創始者
フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ(1876〜1944)
未来派宣言の発表
1909年2月20日、パリの『ル・フィガロ』紙一面に掲載
主要メンバー
ウンベルト・ボッチョーニ(画家・彫刻家、1882〜1916)、ジャコモ・バッラ(画家、1871〜1958)、カルロ・カッラ(画家、1881〜1966)、ルイージ・ルッソロ(画家・作曲家、1885〜1947)、ジーノ・セヴェリーニ(画家、1883〜1966)、アントニオ・サンテリア(建築家、1888〜1916)
代表的作品
《空間における連続性の唯一の形態》(ボッチョーニ、1913年)、《鎖に繋がれた犬のダイナミズム》(バッラ、1912年)、『ザン・トゥン・トゥン』(マリネッティ、1914年)、「騒音の芸術」宣言(ルッソロ、1913年)
中心テーマ
速度、ダイナミズム、テクノロジー、暴力、戦争、反伝統

Q&A

Q. 未来派はなぜ戦争を賛美したのですか?
A. 未来派にとって戦争は、旧態依然としたイタリア社会を破壊し、新しい時代を切り拓くための「浄化」の手段でした。マリネッティは戦争を「世界の唯一の衛生法」と呼び、近代的な兵器の速度と破壊力に美を見出していました。しかしこの思想は、ボッチョーニやサンテリアの戦死という悲劇を招き、また後のファシズムとの結びつきの下地ともなりました。現代では、この側面は未来派の最も問題のある遺産として批判されています。
Q. ボッチョーニの《空間における連続性の唯一の形態》はどこで見られますか?
A. この彫刻のブロンズ鋳造版は複数存在し、ニューヨーク近代美術館(MoMA)、メトロポリタン美術館、ロンドンのテート・モダンなどで所蔵されています。また、イタリアのユーロ硬貨(20セント)の裏面にもこの彫刻がデザインされており、日常的に目にする機会があります。
Q. ルッソロの「イントナルモーリ」は現存していますか?
A. 残念ながら、ルッソロが製作したオリジナルのイントナルモーリは第二次世界大戦中にすべて破壊されたとされています。現存するのは、1921年にルッソロと弟アントニオが録音した「コラール」と「セレナータ」という2曲のレコード、いくつかの写真、そして楽器の特許図面のみです。ただし、その設計図をもとに復元を試みるプロジェクトが複数行われています。
Q. 未来派の「速度の美学」は日本のデザインにも影響を与えましたか?
A. 直接的な影響関係を特定するのは難しいですが、間接的な影響は確実にあります。1920〜30年代の日本のモダニズムデザインには、未来派やアール・デコを経由した「スピード感のある表現」が取り入れられています。また、戦後の日本の工業デザインにおけるストリームライン(流線形)デザインの受容は、ローウィの影響(彼自身が1950年代以降に日本企業とも仕事をしています)を通じて、未来派に端を発する「速度の美学」の系譜に連なるものといえます。
Q. カッサンドルやローウィは「未来派」のメンバーだったのですか?
A. いいえ、どちらもイタリア未来派の正式なメンバーではありません。カッサンドルはフランスのグラフィックデザイナーで、キュビスムやアール・デコの文脈で活動しました。ローウィはフランス生まれのアメリカの工業デザイナーです。ただし、両者とも未来派が広めた「速度の美学」から強い影響を受けており、それを商業デザインの世界で実用化した後継者と位置づけることができます。

参考文献

Umberto Boccioni. Unique Forms of Continuity in Space. 1913 | MoMA
https://www.moma.org/collection/works/81179
Unique Forms of Continuity in Space – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Unique_Forms_of_Continuity_in_Space
Filippo Tommaso Marinetti – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Filippo_Tommaso_Marinetti
The Art of Noises – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Art_of_Noises
Zang Tumb Tumb – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Zang_Tumb_Tumb
Futurist Constitution and Manifesto | Library of Congress
https://www.loc.gov/item/2021667099
Nord Express | Cassandre, Adolphe Mouron | V&A Explore The Collections
https://collections.vam.ac.uk/item/O89673/nord-express-poster-cassandre-adolphe-mouron/
Luigi Russolo’s Cacophonous Futures | The Public Domain Review
https://publicdomainreview.org/essay/luigi-russolos-cacophonous-futures/

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