文字が「読むもの」をやめた日|マラルメからリシツキーまでのタイポグラフィ革命

文字が「読むもの」をやめた日|マラルメからリシツキーまでのタイポグラフィ革命

目次

1897年、パリ。56歳の英語教師が、印刷所の校正刷りを前にして途方に暮れていました。ステファヌ・マラルメ。フランス象徴派の巨星と呼ばれたこの詩人は、活字を紙面の「あるべき場所」から解き放とうとしていたのです。7種類もの書体を使い、文字を見開きページの余白に散らし、大小さまざまな活字を星座のように配置する――。印刷工たちは困惑したに違いありません。「先生、これは詩ですか、それとも絵ですか?」と。マラルメの答えはおそらくこうだったでしょう。「どちらでもあり、どちらでもない」。

この作品『骰子一擲(とうしいってき)』――正式名称は「賽の一振りは決して偶然を排することはないだろう」――は、文字が「左から右に、上から下に読むもの」であるという数百年の常識を、静かに、しかし決定的に覆しました。そしてこの一撃は、20世紀のタイポグラフィ革命の導火線となるのです。

本記事では、マラルメから始まり、イタリア未来派のマリネッティ、ロシア構成主義のエル・リシツキーとロトチェンコ、そして日本の副島種臣(そえじまたねおみ)まで――東西で同時多発的に起きた「文字=グラフィック」という革命の物語をたどります。

余白という名の爆弾――マラルメ『骰子一擲』の衝撃

19世紀末のフランス詩壇は、厳格なルールの世界でした。詩には韻律があり、行の長さが決まっており、活字は行儀よく整列しているのが当然でした。ところがマラルメは、この秩序を内側から爆破しようとしたのです。

1897年、国際文芸誌『コスモポリス』に掲載された『骰子一擲』は、見開き11面にわたって展開される詩篇です。しかし、そこに「普通の詩」はありません。大きな活字で刻まれた主軸の一文「賽の一振りは決して偶然を排さないだろう」が、ページの海を泳ぐように配置され、その周囲をさまざまなサイズの挿入節が取り囲んでいます。ある文字は大きく、ある文字は小さく。ある行は左に寄り、別の行は右に飛ぶ。余白そのものが「沈黙」を語り、文字の配置が「音楽」を奏でる――。マラルメは詩を「読む」行為から「見る」体験へと変貌させたのです。

マラルメは生涯を通じて「絶対書物」という壮大な構想を追い求めていました。「世界は一冊の書物に至るために作られている」という彼自身の言葉が示すように、書物とは単なる文字の容器ではなく、宇宙そのものの縮図であるべきだと考えていたのです。『骰子一擲』はその思想の結晶であり、紙面を宇宙空間に見立て、活字を星々のように配置するという前代未聞の試みでした。

アンドレ・ジッドはこの作品を「人間の精神がおこなった冒険の究極である」と絶賛しました。一方、多くの読者にとっては難解を極めるものでもありました。それもそのはず、マラルメ自身が「偶然を排した完全・完璧な美しい詩」を目指しながら、同時にその不可能性を詠っていたのですから。翌1898年、マラルメは校正刷りに手を入れ続けたまま、56歳でこの世を去ります。最終決定稿が書籍として出版されたのは、死後16年が経った1914年のことでした。

文法を爆破せよ――マリネッティと「自由語表現」の暴風

マラルメが余白と静寂のなかで文字を解放したとすれば、フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティはまるで手榴弾を投げ込むようにそれをやりました。

1909年2月20日、パリの日刊紙『ル・フィガロ』の一面に、ある過激な宣言が掲載されます。「未来派宣言」です。「われわれは世界の壮麗さが新しい美――速度の美――によって豊かになったと宣言する」「走る自動車は、サモトラケのニケよりも美しい」。筆者はエジプト生まれのイタリア人詩人マリネッティ。彼は美術館を「墓地」と呼び、過去の文化遺産を一掃して、機械と速度の美学で世界を塗り替えようとしたのです。

1912年、マリネッティは「未来派文学の技術的宣言」を発表し、「パローレ・イン・リベルタ」(自由語表現/言葉の解放)という概念を打ち出します。その骨子は徹底的な破壊でした。「名詞をランダムに、生まれた順に並べよ」「形容詞を廃止せよ」「動詞は不定詞のみとせよ」「句読点を追放せよ」。文法そのものを爆破し、言葉を統語的な束縛から解き放つ。これは文学の改革であると同時に、タイポグラフィの革命でもありました。

その理論を最も鮮烈に実践したのが、1914年に出版された詩集『ザング・トゥンブ・トゥーンブ』です。1912年のバルカン戦争、アドリアノープル(現在のトルコ・エディルネ)の戦いを、マリネッティは従軍記者として目撃しました。その戦場体験を、彼は従来の散文ではなく、擬音語と活字の爆発で描き出します。太字、斜体、さまざまなサイズの活字が紙面の上で炸裂し、「ズザング・トゥンブ・トゥンブ」という砲撃音が視覚的に再現される。動詞の唸り、爆発の閃光、電信の打刻音が、インクの黒さそのもので読者の目を襲うのです。

マリネッティはこの作品をヨーロッパ各地で朗読して回りました。ロンドン、ベルリン、パリ、そしてモスクワ。彼が舌を巻くような速度で「ザング・トゥンブ・トゥーンブ!」と叫ぶとき、聴衆は文字通り言葉の弾幕に打たれたのです。第一次世界大戦前の時点で、未来派はキュビスムよりも広く知られる芸術運動となっていたとされています。

ただし、マリネッティという人物の評価は複雑です。彼の未来派宣言には戦争の賛美が含まれ、後にイタリアのファシズムとも接近しました。芸術的な革新性と政治的な問題は分けて考える必要がありますが、タイポグラフィの歴史においては、彼が「活字の紙面上での振る舞い」に関する概念を根底から覆したことは間違いありません。

幾何学で世界を建てる――エル・リシツキーの『2つの正方形の物語』

マラルメが「宇宙」を、マリネッティが「戦場」を紙面に見たとすれば、エル・リシツキーが見たのは「建築」でした。

1922年にベルリンで出版された『2つの正方形についてのスプレマティズムの物語――6つの構成による』は、わずか10ページほどの薄い絵本です。しかし、この小さな書物は、文字とグラフィックの関係を永久に書き換えました。

物語は単純そのものです。遠い宇宙から、赤い正方形と黒い正方形が地球に飛来します。黒い正方形が支配する混沌の世界に、赤い正方形が衝突し、世界は再構築される。赤は新しいソヴィエトの秩序を、黒は旧世界を象徴していました。しかし、この本の革命性はストーリーではなく、その「見せ方」にあります。

リシツキーは文字を幾何学的要素として扱いました。テキストは水平に安定するのではなく、斜めに傾き、大小が劇的に変化し、図形と一体になって紙面上を飛翔します。ページをめくると「遠くから」という文字が斜めに配置され、実際に遠方から何かが接近してくる感覚を生み出す。「読まないでください。紙を取って、棒を折って、木のブロックに色を塗って、建ててください」という冒頭の指示は、読書という行為そのものへの挑戦でした。

リシツキーは1890年、ロシアのスモレンスク近郊に生まれました。建築を学んだ後、1919年にヴィテブスクの美術学校でマルク・シャガールの招きで教壇に立ちます。そこでカジミール・マレーヴィチと出会い、その抽象芸術運動「スプレマティズム」に衝撃を受けたことで、彼の芸術人生は一変しました。農村風景やユダヤ民話の挿絵を描いていた画家は、幾何学的抽象と革命思想を結合させた「プロウン」(新しいものの肯定のためのプロジェクト)と呼ばれる一連の作品を生み出し始めます。

『2つの正方形の物語』は、文字が「意味を伝える記号」であると同時に「造形的要素」でもあるという二重性を、かつてないほど明快に示しました。リシツキー自身の言葉を借りれば、「受動的で非明瞭な文字パターンから、能動的で明瞭なパターンへの移行」。彼はさらに、マヤコフスキーの詩集『声のために』(1923年)のデザインでも、幾何学的な図形と太いサンセリフ体の活字を組み合わせた革新的なブックデザインを実現しています。

叫ぶ文字、走る文字――ロトチェンコの広告ポスター

リシツキーが文字を建築のように構築したのに対し、アレクサンドル・ロトチェンコは文字を「叫ばせ」ました。

1923年、ロトチェンコは革命詩人ウラジーミル・マヤコフスキーと出会い、「広告構成主義」と呼ばれる広告制作ユニットを結成します。ロトチェンコがグラフィックを、マヤコフスキーがコピーを担当し、約50枚のポスター、何百もの店の看板、キャンディーの包み紙まで、二人は手当たり次第にデザインしました。

なかでも1924年(1925年とする説もあります)に制作されたレンギズ(レニングラード国立出版局)のポスター「本! あらゆる知識の分野の」は、20世紀グラフィックデザインの金字塔です。リーリャ・ブリークの写真をフォトモンタージュで配置し、頭巾を被った若い女性が手を口元に添えて「本!」と叫んでいる。その叫びは三角形の赤い活字となって画面を貫き、幾何学的に分割された色面と鮮烈に響き合います。文字はもはや「読むもの」ではなく、声であり、力であり、行動への号令でした。

ロトチェンコのデザインの背景には、革命後のロシアが抱えた切実な課題がありました。当時のロシアは識字率が低く、文字が読めない民衆も多くいたのです。だからこそポスターは、文字と図像を一体化させ、直感的にメッセージを伝える必要がありました。ロトチェンコの文字は「読めなくても伝わる」力を持っていたのです。赤と黒の対比、斜めの構図、極太の書体――これらすべてが、視線を捉え、身体を動かすための装置として機能しました。

1891年にサンクトペテルブルクの劇場の上階で生まれたロトチェンコは、幼い頃から舞台の上を文字通り歩いて育ちました。その原体験が、彼のデザインに「演劇的な力」を与えたのかもしれません。しかし1930年代以降、スターリン体制のもとで「形式主義」と批判され、彼は次第に表舞台から姿を消していきます。「ソビエト政権を心から支えてきたのに、我々のすべてが誤りだったというのか?」という彼の嘆きは、前衛芸術と全体主義のねじれた関係を痛切に物語っています。

筆が暴れ、墨が飛ぶ――副島種臣「蒼海」の超書

ヨーロッパで文字の革命が進行していた同じ時代、地球の反対側でも、ある人物が文字の常識をひっくり返していました。副島種臣(1828〜1905)です。

副島種臣は明治の元勲として知られる政治家です。外務卿として清国に渡り、日清修好通商条約の批准を交換し、マリア・ルス号事件でペルー商船から中国人奴隷を解放した正義の人。しかし彼のもうひとつの顔――雅号「蒼海」として知られる書家としての姿は、デザイン史の文脈ではあまり語られてきませんでした。

副島の書は「余技」とされています。つまり、職業書家ではなく、あくまで政治家の「たしなみ」として書をよくした人物でした。しかし、書家で評論家の石川九楊氏は副島の書を「超書」と評しています。字画の角度を書の歴史上ありえないような筆触で揮毫し、伝統的な美の規範を内側から突き破った書。石川氏はそこに「焦燥」「挫折」「逆転」という三つのキーワードを見出しています。

副島の書に転機をもたらしたのは、1876年(明治9年)から約2年間にわたる清国漫遊でした。明治六年政変で下野した後、李鴻章らと交友を結びながら、当時盛んだった碑学(古代の碑文を研究する学問)に触れたのです。漢魏六朝の碑版から吸収したエネルギーは、帰国後の副島の書に、従来の日本書道にはなかった荒々しい生命力を注ぎ込みました。50歳後半からその傾向が現れ始め、60歳代になるとますます秦漢や六朝の風気が加わり、その筆致は規範を超えて暴れ回るようになります。

ここで重要なのは、副島がマラルメやマリネッティとまったく異なるルートで、しかしきわめて似た地点にたどり着いていたという事実です。西洋の革命者たちが活字という「均一な機械的産物」を解体しようとしたのに対し、副島は手書きの文字そのものの中に「読む」ことを超えた視覚的エネルギーを爆発させました。西洋が「印刷」の制約からの解放を志向し、東洋が「書」の伝統のなかで規範の突破を試みた。方法は違えど、「文字は情報の入れ物にとどまるものではない」という直感は同じだったのです。

なぜ同じ時代に、東西で文字が「暴れ」始めたのか

19世紀末から20世紀初頭にかけて、東西で同時多発的に「文字の視覚的解放」が起きた背景には、いくつかの共通する時代の力学がありました。

まず、産業革命以降の印刷技術の飛躍的進歩があります。リトグラフ、写真製版、高速輪転機の普及により、新聞や雑誌、ポスターが爆発的に増加しました。文字は書物の中の静かな存在から、街頭で叫ぶ存在へと変わりつつあったのです。大量に生産された文字は、大量の文字の中から自分を目立たせなければならない。このとき、「読みやすさ」だけでは足りない。「目を惹く力」が必要になったのです。

次に、写真と映画の登場です。「見ること」の体験が根本から変わりつつある時代に、文字もまた「見られるもの」として自己を再定義する必要がありました。マラルメの余白は映画のモンタージュに先行するものでしたし、マリネッティの活字の爆発は映像的な同時性の表現でした。

そして政治的・社会的な変動です。マリネッティの未来派は近代化への熱狂を、リシツキーとロトチェンコの構成主義はロシア革命後の新世界建設への意志を、副島の書は明治維新後の近代国家形成の渦中の精神的エネルギーを、それぞれ反映していました。旧い秩序が崩壊し、新しい秩序がまだ定まらない時代――そのような激動期に、文字はいつも「暴れ」始めるのかもしれません。

賞賛と困惑のはざまで――同時代はどう受け止めたか

これらの革新は、同時代において賞賛と批判の両方を受けました。

マラルメの『骰子一擲』は、「火曜会」に集った若きヴァレリー、クローデル、ジッドらの知識人たちに衝撃を与えました。しかし一般読者にとっては難解の極みであり、マラルメの詩は生前から「わけがわからない」という評価も少なくありませんでした。それは意図されたものでもありました。マラルメ自身が「暗示」こそが詩の本質だと考えていたからです。

マリネッティの未来派は、ヨーロッパ中で論争を巻き起こしました。各地での朗読会はしばしば暴動のようになり、マリネッティ自身も決闘を申し込まれたことさえあります。イギリスでは「未来主義」が前衛芸術全般を指す流行語にさえなりました。一方で、その好戦的な姿勢と戦争賛美は、のちにファシズムとの結びつきを招き、芸術運動としての評価を複雑なものにしました。

リシツキーの『2つの正方形の物語』は、オランダの前衛芸術雑誌『デ・ステイル』に掲載され、テオ・ファン・ドゥースブルフをはじめとするヨーロッパの芸術家たちに大きな影響を与えました。バウハウスにもその影響は及び、ラースロー・モホイ=ナジがリシツキーのアイデアを西欧とアメリカに伝える橋渡し役を果たしました。しかしソ連国内では、スターリン体制下で社会主義リアリズムが推奨されるようになると、こうした抽象的なデザインは「形式主義」として弾圧されていきます。

副島の書は、明治・大正・昭和の三代にわたって文人墨客から政治家まで多くの人々に敬仰されてきました。しかし、彼は門人を取らなかったため、書壇に人脈としての系統が残りませんでした。それゆえ美術史の中での位置づけは長く曖昧なままでしたが、近年、石川九楊氏らの研究により再評価が進んでいます。

そして文字は「見るもの」になった――現代に続く革命の系譜

マラルメ、マリネッティ、リシツキー、ロトチェンコ、副島が切り拓いた道は、その後の100年で太い幹となり、無数の枝を伸ばしました。

まず直接的な影響として、ヤン・チヒョルトの「新しいタイポグラフィ」(1928年)があります。ロシア構成主義とバウハウスの成果を理論的に統合したチヒョルトは、非対称のレイアウトとサンセリフ書体の使用を提唱し、20世紀のグラフィックデザインの基礎を築きました。リシツキーの影響はバウハウスを経由してスイス・スタイル(国際タイポグラフィ様式)へと受け継がれ、戦後のデザインを支配することになります。

1960年代には、コンクリート・ポエトリー(具体詩)の運動が世界各地で展開され、マラルメの遺産は新たな文脈で蘇ります。ブラジルのノイガンドレス兄弟やスイスのオイゲン・ゴムリンガーらは、文字の視覚的配置そのものを詩の表現手段としました。

そして現代。デジタルデザインの世界では、「タイポグラフィとしてのUI」という発想がますます重要になっています。Webサイトのヒーローセクションで巨大な文字が画面いっぱいに踊り、スクロールに応じて変形するキネティック・タイポグラフィは、マリネッティの「自由語表現」のデジタル版と言えるかもしれません。Appleの製品発表ページで文字のサイズと余白が雄弁にメッセージを語る手法は、マラルメの「余白の詩学」の21世紀的応用です。

SNSの時代、私たちは毎日無数の文字を「読む」よりも先に「見て」います。太字のハッシュタグ、絵文字と混在するテキスト、ストーリーズの上で踊るモーションテキスト。文字が「読むもの」であることをやめた日から100年以上が経ち、その革命はいまや日常の空気のように私たちを取り巻いています。

1897年、パリの印刷所で始まった静かな革命は、モスクワのポスター、ミラノの宣言、佐賀藩出身の政治家の書斎を経由して、いまあなたのスマートフォンの画面に到達しています。次にSNSのタイムラインをスクロールするとき、ふと思い出してみてください。そこに並ぶ文字たちは、100年以上前に解き放たれた活字の末裔なのだということを。

Q&A

Q. マラルメの『骰子一擲』は実際にどのような見た目なのですか?
A. 見開きページに7種類の書体を使い、大小さまざまな活字を星座のように配置した作品です。主軸となる一文「賽の一振りは決して偶然を排さないだろう」が大きな活字でページを横断し、その間に複数の挿入節が異なるサイズで散りばめられています。余白が非常に多く、ページの半分以上が白い空間であることも特徴です。従来の詩のように行を揃えて並べるのではなく、読者の視線が紙面上を自由に動くよう設計されています。
Q. マリネッティの「自由語表現」とダダイズムの文字表現の違いは何ですか?
A. マリネッティの自由語表現は、速度・機械・戦争の美学に基づき、言葉のエネルギーを最大化するために文法を破壊しました。一方、第一次世界大戦後に生まれたダダイズムは、戦争そのものを否定し、既存のあらゆる秩序(芸術を含む)を破壊することを目的としていました。未来派が「新しい美」の建設を志向したのに対し、ダダは「反芸術」を標榜した点が大きく異なります。ただし、視覚的な文字表現においてはダダが未来派から大きな影響を受けており、両者は密接に関連しています。
Q. リシツキーの「プロウン」とは何ですか?
A. プロウン(PROUN)は「新しいものの肯定のためのプロジェクト」を意味するロシア語の略語です。絵画でも建築でもない、その中間に位置する抽象的な幾何学的構成作品のシリーズで、リシツキーが1919年頃から制作を始めました。マレーヴィチのスプレマティズム(絶対主義)の影響を受けつつ、より三次元的な空間性を持つのが特徴です。リシツキーはプロウンを「絵画から建築への乗り換え駅」と呼びました。
Q. 副島種臣の書は、なぜ現代のデザイン文脈で注目されるのですか?
A. 副島の書は、伝統的な書道の枠組みの中にありながら、文字を「読む対象」から「見る対象」へと転換させた点で注目されています。字画の角度や筆の運びに書道史上前例のない表現を取り入れ、文字そのものが持つ視覚的・造形的なエネルギーを前面に押し出しました。これは西洋で同時期に起きたタイポグラフィ革命と本質的に共通する問題意識であり、「文字=グラフィック」という概念が東西で並行して生まれたことを示す貴重な事例として再評価されています。
Q. この記事で紹介された作品を実際に見られる場所はありますか?
A. マラルメの『骰子一擲』の校正刷りは思潮社から邦訳が出版されており、書店で入手可能です。リシツキーの『2つの正方形の物語』はニューヨーク近代美術館(MoMA)やシカゴ美術館に収蔵されています。ロトチェンコのレンギズのポスターも各国の美術館で展示されることがあります。副島種臣の書は佐賀県立美術館が多く収蔵しており、2006年には没後100年記念の大規模展覧会が開催されました。

参考文献

ステファヌ・マラルメ – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/ステファヌ・マラルメ
Zang Tumb Tumb – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Zang_Tumb_Tumb
A Revolution in Language – The Metropolitan Museum of Art
https://www.metmuseum.org/perspectives/a-revolution-in-language
El Lissitzky | Russian Constructivist Artist & Designer | Britannica
https://www.britannica.com/biography/El-Lissitzky
About Two Squares: A Suprematist Tale of Two Squares in Six Constructions | The Art Institute of Chicago
https://www.artic.edu/artworks/199130/about-two-squares-a-suprematist-tale-of-two-squares-in-six-constructions
Alexander Rodchenko – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Rodchenko
副島種臣 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/副島種臣
梧竹・蒼海について | 佐賀県書道展
https://tokushu.saga-s.co.jp/shodo/about/

基本データ

ステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarmé)
1842年3月18日〜1898年9月9日/フランス・パリ生まれ/象徴派詩人・英語教師/代表作:『骰子一擲(Un Coup de Dés)』(1897年)、『半獣神の午後』、『ディヴァガシオン』
フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ(Filippo Tommaso Marinetti)
1876年12月22日〜1944年12月2日/エジプト・アレクサンドリア生まれ・イタリア国籍/詩人・未来派創設者/代表作:『ザング・トゥンブ・トゥーンブ(Zang Tumb Tuuum)』(1914年)、『未来派宣言』(1909年)
エル・リシツキー(El Lissitzky)
1890年11月23日〜1941年12月30日/ロシア・スモレンスク近郊ポチノク生まれ/画家・タイポグラファー・建築家/代表作:『2つの正方形についての物語(Pro dva kvadrata)』(1922年)、『声のために(Dlya Golosa)』(1923年)、ポスター「赤い楔で白を打て」(1919-20年)
アレクサンドル・ロトチェンコ(Alexander Rodchenko)
1891年12月5日〜1956年12月3日/ロシア・サンクトペテルブルク生まれ/芸術家・写真家・グラフィックデザイナー/代表作:レンギズ出版局ポスター「本!」(1924-25年)、マヤコフスキーとの広告構成主義ポスター群
副島種臣(そえじま たねおみ)
1828年9月9日〜1905年1月30日/肥前国佐賀(現・佐賀県佐賀市)生まれ/政治家(外務卿・内務大臣)・能書家・漢詩人/雅号:蒼海(滄海)、一々学人

コメント (0)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です