ダダイズム(Dadaism)は、第一次世界大戦さなかの1916年にスイスのチューリッヒで始まった、既存の芸術と社会の価値観をまとめて嘲笑する反芸術の運動である。単にダダとも呼ばれる。
1916年2月5日、演出家で詩人のフーゴ・バルと歌手エミー・ヘニングスが、旧市街の酒場の一室にキャバレー・ヴォルテールを開いた。戦火を避けて中立国に集まっていたトリスタン・ツァラ、マルセル・ヤンコ、ハンス・アルプ、リヒャルト・ヒュルゼンベックらが加わり、意味をなさない音の詩や、三つの言語で同時に読み上げる詩、仮面をつけた踊りを夜ごと上演した。運動名のダダは、辞書から偶然拾ったフランス語の幼児語で木馬を指すとされるが、命名の経緯は当事者ごとに証言が食い違う。
ダダには決まった様式がない。共通していたのは、戦争を生んだ理性や市民社会の価値をまるごと疑い、偶然や無意味、拾ってきた素材を武器にする態度だった。
運動は戦後、各地へ飛び火する。1917年にヒュルゼンベックが持ち込んだベルリンでは政治色が強まり、ジョン・ハートフィールド、ジョージ・グロス、ハンナ・ヘッヒ、ラウル・ハウスマンらが、新聞や雑誌の写真を切り貼りするフォトモンタージュで体制を風刺した。1920年6月には第1回国際ダダ見本市が開かれる。ハノーファーではクルト・シュヴィッタースが紙くずを貼り合わせる作品を「メルツ」と名づけ、ケルンではマックス・エルンストが活動した。ニューヨークでは、マルセル・デュシャンが1917年に既製の小便器へ偽名で署名して《泉》とし、作品とは何かという問いを突きつけている。
1920年にツァラが移ったパリが最後の拠点になったが、内部の対立が続き、1924年にアンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を出すころには、多くのメンバーがシュルレアリスムへ移っていた。それでも、偶然の利用、既製品やコラージュ、大小の活字を入り乱れさせた印刷物は、のちのネオ・ダダやフルクサス、コンセプチュアルアート、ポップアートに引き継がれていく。
デュシャンの仕掛けの数々はデュシャンの「手口」全集で、ベルリン・ダダのフォトモンタージュはジョン・ハートフィールドとフォトモンタージュで取り上げた。切り貼りがダダへ流れ込むまでの経緯はコラージュの誕生に詳しい。