コラージュの誕生――ピカソが新聞紙を貼った日、アートの定義が壊れた|切る・貼る・剥がす・ぶつける100年史

コラージュの誕生――ピカソが新聞紙を貼った日、アートの定義が壊れた|切る・貼る・剥がす・ぶつける100年史

目次

1912年の春、パリ。パブロ・ピカソは自分のアトリエで、ある途方もないことをしようとしていました。手元にあるのは楕円形のキャンバス、油絵具、そして一枚のオイルクロス――椅子の籐編み模様が機械印刷された、ありふれたテーブルクロスの素材です。ピカソはそれをハサミで切り、絵の上にべたりと貼りつけました。仕上げに、額縁のかわりにロープをぐるりと巻きつけます。サイズはわずか27×35cm。カフェのテーブルの上に置けるほど小さなこの作品が、500年続いた西洋絵画のルールを粉々にすることになるとは、このとき誰も想像していなかったでしょう。

作品の名は《籐椅子のある静物》。美術史上「最初のコラージュ」とされるこの一枚が生まれた瞬間、アートは「描く」ものから「貼る」ものへと、決定的に変わりました。そしてこの1912年という年は、コラージュという手法にとって、もうひとつの奇跡的な偶然が重なっていたのです。

ピカソとブラック――「貼る」を発明した二人の競争

《籐椅子のある静物》を理解するには、当時のピカソとジョルジュ・ブラックの関係を知る必要があります。二人は1908年頃からキュビスムを共同で推し進めていた、いわばアートの共犯者でした。ピカソはスペイン出身の天才肌、ブラックはフランス生まれの職人気質。対照的な二人が、互いの作品を見ては刺激を受け、翌日にはさらに先へ進む――という激しいラリーを繰り返していたのです。

ピカソの《籐椅子のある静物》は、1912年の春に制作されました。キャンバスの上にレモン、ワイングラス、ナイフ、新聞の文字「JOU」(フランス語の「journal=新聞」の一部)がキュビスム特有の断片的な描法で描かれ、その中央に工場生産のオイルクロスがどんと貼られています。椅子の籐編み模様に見えるそれは、実は「本物の籐」ではなく「籐に見せかけた印刷物」。つまり、偽物のなかの偽物です。ピカソはこの二重のトリックを、ロープの額縁で囲むことで、さらに皮肉たっぷりに仕上げました。伝統的な手彫りの額縁を、安物のロープで「模倣」したのです。現在この作品は、パリのピカソ美術館に収蔵されています。

しかし、コラージュのアイデアを「先に」思いついたのは、実はブラックのほうだったかもしれません。1912年の夏、二人は南仏ソルグで一緒に制作していました。ある日ブラックは近くのアヴィニョンの金物店で、木目模様が印刷された壁紙(フォ・ボワ)のロールを見つけます。彼はその壁紙が気になったものの、すぐには手を出しませんでした。ピカソがパリに引っ越し準備で戻るのを待っていたのです。ライバルがいなくなった隙に、ブラックは壁紙を買い、木炭で描いたギターの素描のなかに切り貼りしました。こうして生まれたのが《果物皿とグラス》――美術史上最初の「パピエ・コレ(貼り紙)」とされる作品です。現在はニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵しています。

ピカソがパリから戻ると、ブラックは誇らしげに新作を見せました。ピカソはすぐさまこの技法を取り入れ、さらに新聞紙や布など、あらゆる素材をキャンバスに貼りはじめます。メトロポリタン美術館の解説によれば、ブラックは「ひそかにライバルに先んじるため」ピカソの留守を利用したとされています。芸術革命の裏側には、二人の子供じみた駆け引きがあったわけです。

なぜ「貼る」が革命だったのか

ルネサンス以来、西洋絵画の至上命題は「いかに現実を忠実に再現するか」でした。遠近法、陰影、質感の描写――画家の腕は「本物そっくりに描く技術」で測られていたのです。ところがピカソとブラックは、描くかわりに「本物」をそのまま画面に持ち込んでしまいました。新聞紙は新聞紙のまま、壁紙は壁紙のまま。これは絵画の「虚構の空間」に「現実の断片」を挿入するという、前代未聞の暴挙でした。

美術史家たちは、この行為の意味を次のように整理しています。第一に、絵画は「窓」であるという幻想の破壊。絵はもはや三次元世界をのぞく窓ではなく、平らな物質そのものだと宣言したのです。第二に、「高級芸術」と「低俗な日用品」の境界の破壊。工場生産のオイルクロスが、画家の筆による油絵と同じ画面に並ぶ。美術批評家のウィリアム・ルービンは、このことについて、キュビスムのコラージュは「純粋な芸術的天才」という概念を解体し、「誰にでも実現可能な」作品のあり方を予見していたと指摘しています。

この「何でも貼っていい」という発想は、20世紀の美術を根底から変えました。ダダ、シュルレアリスム、ポップアート、さらにはヒップホップのサンプリングやInstagramのフィード構成にいたるまで、「既存の素材を切り取り、組み合わせて新しい意味をつくる」というコラージュの原理は、あらゆる表現領域に浸透していくことになります。

もうひとつの1912年――郵便配達員が33年かけて建てた「理想宮」

ピカソとブラックがパリのアトリエで紙を切り貼りしていたまさにその年、フランスの片田舎で、もうひとりの「コラージュ作家」が33年にわたる途方もない仕事を完成させていました。フェルディナン・シュヴァル(1836–1924)。ドローム県オートリーヴの郵便配達員です。

1879年4月のある日、43歳のシュヴァルは配達中に奇妙な形の石につまずきました。「私の足がある石に引っかかり、転びそうになった。何なのか知りたかった」と彼は回想しています。その石のあまりに不思議な造形に魅了されたシュヴァルは、翌日も同じ場所に戻り、さらに美しい石を見つけました。「もし自然が彫刻をつくるのなら、私は石工仕事と建築をやろう」――こうして壮大な計画が動きはじめます。

シュヴァルは毎日30キロ以上の郵便配達ルートを歩きながら石を拾い集め、最初はポケットに、次にかごに、やがて手押し車で自宅の菜園に運びました。夜はランプの灯りのもと、拾った石を積み上げる作業を続けます。使った材料は、河原の石、小石、多孔質の凝灰岩、化石、貝殻、そして石灰モルタル。完成した「理想宮(パレ・イデアル)」は高さ最大約10メートル、長さ約26メートルにおよぶ巨大建造物で、ヒンドゥー寺院、スイスのシャレー、中世の城、モスク、エジプトの墓、ホワイトハウスなど、世界各地の建築様式が混在した、まさに「三次元のコラージュ」でした。

建築や美術の正規教育をまったく受けていないシュヴァルのインスピレーション源は、配達で配っていた絵葉書や初期のイラスト入り雑誌でした。異国の建物の写真を見ては、石で再現しようとしたのです。村人たちは彼を「庭を石で埋める変人」と見なし、まったく理解しませんでした。シュヴァル自身も「孤独で、理解されなかった」と壁面に刻んでいます。しかし彼はこうも刻みました――「一人の男の作品」。

1912年、76歳のシュヴァルはついに理想宮を完成させます。しかしこの年は喜びだけの年ではありませんでした。同じ年に息子のシリルが亡くなっています。シュヴァルは当初、理想宮のなかに自分も埋葬されることを望んでいましたが、法律で許可されず、78歳からさらに8年をかけて村の墓地に別の墓廟を建設しました。1924年、88歳で没。

シュヴァルの理想宮は、1920年代になってシュルレアリスムの創始者アンドレ・ブルトンの目にとまり、「シュルレアリスム建築の先駆」として再評価されます。ピカソも12枚のスケッチを残しました。馬を意味する「シュヴァル」という名字と郵便配達員という職業にかけて、馬の体に鳥の頭を持つユーモラスな姿を描いたのです。1969年には文化大臣アンドレ・マルローの主導で歴史的記念建造物に指定されました。現在は年間約30万人が訪れる観光名所です。

ロテッラの「引き剥がし」――コラージュを裏返す

コラージュが「貼る」行為だとすれば、その正反対――「剥がす」行為もまた、強烈な表現になりえます。それを証明したのが、イタリアの芸術家ミンモ・ロテッラ(1918–2006)でした。

カラブリア州カタンザーロ生まれのロテッラは、ナポリの美術学校を卒業後、1945年にローマへ移り、当初は幾何学的な抽象画を描いていました。1951年にはフルブライト奨学金を得てアメリカに渡り、カンザスシティ大学で学びます。ネオ・ダダの作家たちと交流したこの渡米経験が、彼の転機となりました。ローマに戻った彼は、街路の壁に何重にも貼り重ねられた広告ポスターに目を奪われます。破れ、色褪せ、重なり合うポスターの層。そこに彼は、絵画よりも生々しい「現実」を見出したのです。

1953年頃、ロテッラは「デコラージュ(décollage)」と呼ばれる技法を開始します。décollageとはフランス語で「剥がす」を意味し、コラージュ(collage=貼る)の反対語です。ロテッラはローマの街頭からポスターを剥ぎ取り、アトリエに持ち帰って、さらに引き裂き、キャンバスの上に再構成しました。初期の作品は完全に抽象的で、ポスターのイメージは判別できないほど破壊されていました。しかし次第に、映画スターの顔やタイトルの文字が部分的に読み取れる作品へと変化していきます。マリリン・モンロー、エルヴィス・プレスリーといったポップカルチャーのアイコンが、引き裂かれた姿で現れるのです。

1955年、ローマでの展覧会で初めて「引き裂かれたポスター」を発表。1961年には批評家ピエール・レスタニーの招きでヌーヴォー・レアリスム(新しいリアリズム)に参加し、イヴ・クラインやジャン・ティンゲリーらと並ぶ同グループの主要メンバーとなりました。ロテッラ自身はこう語っています。「ポスターを壁から引き剥がすことは、唯一の復讐であり、変化と驚異的な変革への趣味を失った社会に対する唯一の抗議である」。

コラージュが「足し算」なら、デコラージュは「引き算」。しかしどちらも、既存のイメージを再文脈化するという点で、根底にある思想は同じです。フィリップスのオークションハウスの解説が的確に指摘しているように、アンディ・ウォーホルが大衆文化のイメージを「崇拝」したのに対し、ロテッラはそれを「激しく引き裂き、再構成した」のです。ウォーホルのポップアートが冷静なら、ロテッラのデコラージュは情熱的。両者は消費社会への異なる応答でした。

ピーター・ビアード――血と葉と骨のコラージュ日記

コラージュの歴史には、生と死のすべてを一枚の画面にぶつけた人物がいます。アメリカの写真家・アーティスト、ピーター・ビアード(1938–2020)です。

ニューヨークの裕福な名家に生まれたビアードは、幼少期から日記をつけ、12歳で写真を始めました。イェール大学で美術史を学んだ後、1960年代初頭にケニアへ渡り、ツァヴォ国立公園で約35,000頭の象の大量死を目撃・記録します。1965年に出版された処女作『The End of the Game(ゲームの終わり)』は、アフリカの野生動物の破壊を衝撃的に記録した写真集として大きな反響を呼びました。

しかし、ビアードの真の革新は、写真そのものよりも、彼がそれを「素材」として扱った方法にあります。ビアードは少年時代から死ぬまで日記をつけ続けましたが、その日記は通常の意味での「日記」ではありません。新聞の切り抜き、乾燥した葉や昆虫、古いセピア色の写真、電話のメモ、インド墨で書かれた余白の書き込み、女性のポートレート、引用文、拾った石や骨……。これらがすべて、ビアード自身のドローイングやコラージュとともに分厚いヴォリュームに綴じ込まれていきます。さらに衝撃的なのは、動物の血――時には自分自身の血を画材として使ったことです。

ビアードのコラージュ日記は、ピカソやブラックの知的な実験とも、ロテッラの社会批評とも異なり、もっと原始的で、もっと切迫した行為でした。アフリカの大地で目撃した生命の破壊、ニューヨーク社交界のきらびやかさと虚しさ、自身の冒険と危機(1996年には象に踏まれて重傷を負っています)——そのすべてが、切り貼りされ、引き裂かれ、血で汚され、ひとつの画面に凝縮されていきます。タッシェン出版の評では、ビアードは自身の人生そのものを「ゲザムトクンストヴェルク(総合芸術作品)」に変えたとされています。2020年、82歳で亡くなるまで、その営みは続きました。

ビアデン、ハートフィールド、ヘッヒ――コラージュは「武器」にもなった

コラージュの歴史を語るうえで、この手法が持つ「政治的な力」にも触れておかなければなりません。

1960年代のアメリカでは、公民権運動のさなかにコラージュが強力な表現手段となりました。その代表がロマレ・ビアデン(1911–1988)です。ノースカロライナ州シャーロット生まれのビアデンは、1963年に黒人アーティストの集団「スパイラル」を結成し、公民権運動への芸術的貢献を模索しました。ビアデンは仲間たちに共同コラージュ制作を提案しましたが、他のメンバーには受け入れられませんでした。しかしこの拒絶が、かえって彼を独自の道へと突き動かします。

ビアデンは雑誌や新聞から黒人の顔を切り抜き、小さなコラージュをつくったあと、それをフォトスタット(大型コピー機)で巨大に引き伸ばしました。この「プロジェクション」シリーズは1964年にニューヨークのコーディエ&エクストロム・ギャラリーで発表され、大きな衝撃を与えます。ビルボードサイズに拡大された黒人たちの顔が、揺るぎない視線で壁から見つめ返す。南部の綿花畑、ハーレムの街角、洗礼の儀式。ビアデンは「コラージュとは断片から全体を再構成する行為であり、それはアフリカ系アメリカ人のアイデンティティそのものだ」と考えていたのです。1968年には彼のコラージュが『Fortune』誌と『Time』誌の表紙を飾りました。

さらに時代を遡れば、1920年代のドイツでは、ハンナ・ヘッヒやジョン・ハートフィールド(本名ヘルムート・ヘルツフェルデ)が、フォトモンタージュを反戦・反ファシズムの武器として使っていました。ヘッヒは雑誌の切り抜きで性差別や政治を風刺し、ハートフィールドはヒトラーを痛烈に批判するコラージュを制作。コラージュには、既存のイメージの「文脈」を変えることで、見慣れたものを異化し、権力構造を暴く力があったのです。

なぜ「切る・貼る・剥がす・ぶつける」が20世紀最大の手法になったのか

ここまで見てきたように、コラージュという手法は、ピカソとブラックの知的実験にはじまり、シュヴァルの狂気と執念、ロテッラの社会批判、ビアードの生命への衝動、ビアデンの政治的闘争と、驚くほど多様な文脈で展開されてきました。なぜこの「切る・貼る・剥がす・ぶつける」という行為が、これほどまでに普遍的な表現手法になったのでしょうか。

ひとつの答えは、20世紀が「断片の時代」だったことにあります。二度の世界大戦、大量消費社会の到来、マスメディアの爆発的拡大。人々は毎日、膨大なイメージと情報の洪水にさらされるようになりました。世界はもはや「ひとつの視点から統一的に見渡せるもの」ではなくなった。コラージュは、そうした断片化された世界を、断片のままに提示できる唯一の方法だったのです。遠近法が「ひとつの視点からの統一された世界像」を前提とするのに対し、コラージュは複数の視点、複数の時間、複数の現実を同時に画面上に共存させます。

もうひとつの答えは、その圧倒的な民主性です。コラージュには、高度なデッサン力も、高価な画材も必要ありません。ハサミと糊と、手元にある素材さえあればいい。シュヴァルが道端の石でそうしたように、ロテッラが街頭のポスターでそうしたように。この「誰にでもできる」という性質が、20世紀を通じて無数の人々をコラージュへと引き寄せました。パンクのジンから、ファッション雑誌のレイアウトまで。

デジタル時代のコラージュ——私たちは毎日「貼っている」

2020年代の現在、コラージュの原理はデジタル空間に完全に浸透しています。Instagramのフィードは写真とテキストと広告のコラージュであり、TikTokのリミックス動画は映像のコラージュです。Photoshopのレイヤー機能はまさにデジタル・パピエ・コレですし、ウェブデザインの「カード型レイアウト」は異なる情報断片を一画面に並べるコラージュ的思考そのものです。AIによる画像生成すら、学習データという「既存の視覚素材」を再構成しているという意味で、コラージュの延長線上にあるとも言えるでしょう。

しかし、物理的なコラージュの魅力は決して消えていません。近年のアート市場では、手作業によるコラージュ作品への関心がふたたび高まっています。デジタルの「完璧さ」に対する反動として、切り口のガタガタした紙片、糊のはみ出し、素材の質感の違い——そうした「手の痕跡」が持つ温かみと生々しさが、あらためて評価されているのです。

1912年、ピカソがオイルクロスをキャンバスに貼りつけたとき、シュヴァルが33年かけて石を積み上げた理想宮を完成させたとき、彼らはどちらも同じことをしていました。それは、「世界にあるものを手で拾い上げ、自分の手で並べ直す」という行為です。コラージュとは結局のところ、世界の再編集にほかなりません。そしてその行為は、私たちがスマートフォンで写真を選び、SNSに並べ、ストーリーを語るという日常のなかに、いまも生き続けているのです。

Q&A

Q. コラージュとパピエ・コレの違いは何ですか?
A. コラージュ(collage)は、紙に限らずあらゆる素材(布、ロープ、オイルクロスなど)を画面に貼りつける技法の総称です。一方、パピエ・コレ(papier collé)は「貼り紙」を意味するフランス語で、紙のみを使ったコラージュを指します。ブラックの《果物皿とグラス》(1912年)が最初のパピエ・コレとされ、ピカソの《籐椅子のある静物》(1912年)がより広義の「最初のコラージュ」とされています。
Q. シュヴァルの理想宮は「アウトサイダー・アート」に分類されるのですか?
A. シュヴァルの理想宮は、ナイーヴ・アート(素朴芸術)建築の代表例として広く認知されています。正規の美術・建築教育を受けていない独学の作家による作品であり、アウトサイダー・アート(アール・ブリュット)の先駆的事例と見なされることもあります。しかし、その芸術的価値はシュルレアリストたちによって早くから認められており、1969年には歴史的記念建造物に指定されるなど、制度的にも高く評価されています。
Q. デコラージュはコラージュの一種なのですか、それとも別のものですか?
A. デコラージュ(décollage)は文字通りコラージュの逆の手法で、「貼る」のではなく「剥がす・引き裂く」ことで作品を生み出します。しかし広義には、コラージュの手法のバリエーションとして位置づけられることも多いです。ロテッラはポスターを壁から剥ぎ取ったあと、それを再構成してキャンバスに貼るという二重の工程を踏んでいたため、「ダブル・デコラージュ」とも呼ばれました。
Q. ピカソとブラック、どちらがコラージュの「発明者」なのですか?
A. これは美術史上の議論が続くテーマです。ピカソの《籐椅子のある静物》(1912年春)が最初のコラージュ作品とされる一方、ブラックの《果物皿とグラス》(1912年9月)が最初のパピエ・コレとされています。時系列ではピカソが先ですが、ブラックは「紙を貼る」というアイデアを独自に着想しており、二人の競争的な共同作業のなかで生まれた手法と理解するのが適切でしょう。
Q. 現代のデザインでコラージュの影響が見られる分野は?
A. グラフィックデザイン、ウェブデザイン、ファッション、インテリア、音楽(サンプリング)、映像(モンタージュ)など、ほぼすべてのクリエイティブ分野にコラージュの影響は及んでいます。特にウェブデザインのカード型レイアウト、SNSのフィード構成、AIによる画像生成など、デジタル領域ではコラージュ的思考が基盤技術として組み込まれています。

参考文献

Still Life with Chair Caning – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Still_Life_with_Chair_Caning
Georges Braque – Fruit Dish and Glass – The Metropolitan Museum of Art
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/490612
Fruit Dish and Glass – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Fruit_Dish_and_Glass
The story – Le Palais Idéal du Facteur Cheval
https://www.facteurcheval.com/en/history/
Ferdinand Cheval – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Ferdinand_Cheval
Mimmo Rotella – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Mimmo_Rotella
Peter Beard – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Beard
Synthetic Cubism – Modern Art Terms and Concepts | TheArtStory
https://www.theartstory.org/definition/synthetic-cubism/

基本データ

パブロ・ピカソ《籐椅子のある静物》
制作年:1912年春 / 素材:油彩、オイルクロス、キャンバス、ロープ / サイズ:27×35cm / 所蔵:ピカソ美術館(パリ)
ジョルジュ・ブラック《果物皿とグラス》
制作年:1912年9月 / 素材:木炭、壁紙、グワッシュ、紙 / サイズ:62.9×45.7cm / 所蔵:メトロポリタン美術館(ニューヨーク)
フェルディナン・シュヴァル「理想宮(パレ・イデアル)」
建設期間:1879–1912年(33年間) / 所在地:フランス、ドローム県オートリーヴ / サイズ:高さ約10m、長さ約26m / 歴史的記念建造物指定:1969年
ミンモ・ロテッラ
生没年:1918–2006年 / 国籍:イタリア / 代表的技法:デコラージュ / 所属グループ:ヌーヴォー・レアリスム(1961年参加)
ピーター・ビアード
生没年:1938–2020年 / 国籍:アメリカ / 代表作:『The End of the Game』(1965年) / 主な活動拠点:ニューヨーク、ケニア
ロマレ・ビアデン
生没年:1911–1988年 / 国籍:アメリカ / 代表シリーズ:「プロジェクション」(1964年) / 所属グループ:スパイラル(1963年結成)

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