マレーヴィチ「黒い正方形」とは何か|引き算の美学が変えた100年

マレーヴィチ「黒い正方形」とは何か|引き算の美学が変えた100年

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1915年12月、ペトログラードの片隅で

会場に足を踏み入れた観客は、まず部屋の「あの場所」に目を奪われました。ロシア正教の家庭では、聖人のイコンを飾る神聖な一角――壁と天井が交わる隅の高い位置に、それはかかっていたのです。しかしそこにあったのは、聖母マリアでもキリストでもありませんでした。白いキャンバスの中央に、ただ黒く塗りつぶされた正方形。それだけです。

1915年12月、サンクトペテルブルク(当時はペトログラードと改称されていました)のドビチナ画廊で開催された「最後の未来派絵画展 0,10」。この展覧会で、カジミール・マレーヴィチという名のウクライナ生まれの画家が、のちに20世紀美術の方向を決定づけることになる一枚の絵を世に送り出しました。「黒い正方形」――その名前すら、もはや絵画のタイトルというより、ひとつの宣言のように響きます。

しかし、この絵をただの「黒く塗っただけの四角」と片付けるのは早計です。その漆黒の表面の下には、別の絵が隠されていたこと。33年前にパリのユーモリストがほとんど同じことをジョークでやっていたこと。そしてこの一枚が、バウハウスからミニマリズム、さらにはあなたのスマートフォンの画面デザインにまで繋がる「引き算の美学」の起点になったこと――。今日はそんな、一枚の黒い四角をめぐる物語をお伝えします。

ジョークとしての「ベタ塗り」――パリの先駆者たち

マレーヴィチが「絵画のゼロ地点」を宣言する30年以上前、パリではすでに「キャンバスを一色で塗りつぶす」という行為が存在していました。ただし、それは大真面目なアートとしてではなく、痛烈なジョークとしてです。

1882年、パリのヴィヴィエンヌ画廊で開かれた「アンコエラン展(支離滅裂芸術展)」で、詩人のポール・ビルオーがまっ黒に塗りつぶした一枚の絵を出品しました。題名は「夜のトンネルの中で戦う黒人たち」。暗闇の中で暗い肌の人々が格闘しているのだから何も見えない――というブラックジョーク(文字通りの)です。当時のパリの権威あるサロンへの皮肉として生まれたこの作品は、パリの社交界を大いに沸かせました。

この着想に触発されたのが、フランスきってのユーモリスト、アルフォンス・アレーでした。翌1883年、アレーは真っ白な紙を壁に画鋲で留め、「雪の中で初聖体拝領をする貧血症の少女たち」と名づけて出品。さらに1884年には真っ赤な作品「紅海の岸辺で卒中気味の枢機卿たちがトマトを収穫する図」を発表しています。いずれも、画面の色とタイトルの状況が完全に一致するため「何も見えない」というユーモアです。1897年にはこれらの作品を集めた画集『エイプリルフール画帖』を出版しました。

アレーの画集には、ビルオーの黒い絵を「夜の洞窟で戦う黒人たち」と題して再収録したものも含まれていました。この一連のモノクローム作品は、今日では抽象絵画やコンセプチュアルアートの「意図せざる先駆者」として再評価されています。さらに同じ画集には完全に白紙の楽譜「偉大なる聾者のための葬送行進曲」も収められており、ジョン・ケージの無音の楽曲「4分33秒」(1952年)を半世紀以上先取りしていたことになります。

しかし重要な違いがあります。ビルオーやアレーの「ベタ塗り」は、あくまでもユーモアの枠内にとどまっていました。画面の色に意味を見出すのではなく、タイトルとのギャップで笑いを取る構造です。「黒い正方形」をアートの革命にまで押し上げたのは、別の人物の仕事でした。

キエフの少年、モスクワへ出る

カジミール・セヴェリノヴィチ・マレーヴィチは1879年、キエフ(現在のウクライナの首都キーウ)でポーランド系の家庭に生まれました。幼少期はウクライナの田園地帯で過ごし、民俗芸術やロシア正教のイコンに囲まれて育っています。早くから絵に興味を示していた少年は、ほぼ独学で画家の道を歩み始めました。

1904年頃にモスクワへ移ったマレーヴィチは、モスクワ絵画彫刻建築学校に学びながら、当時ロシアに流入していた西洋の前衛芸術を貪欲に吸収していきます。セルゲイ・シチューキンやイワン・モロゾフといった大コレクターが所有するセザンヌ、ゴーギャン、マティス、ピカソの作品に直接触れた経験は、彼の芸術的視野を一気に押し広げました。印象派からシンボリズム、フォーヴィスム、そしてキュビスムへ。マレーヴィチは次々とスタイルを試しては乗り越えていく、驚異的な速度の学習者でした。

転機は1913年にやってきます。画家・作曲家のミハイル・マチューシンが手がけたキュボ・フューチャリスト・オペラ「太陽への勝利」の舞台美術を担当したマレーヴィチは、第二幕の「太陽の死」の場面で、舞台幕や背景に黒い正方形のモチーフを登場させました。太陽を捕獲し、時間を破壊しようとする登場人物たち。暗闇に覆われた世界。このオペラの精神は、理性と伝統の否定という当時のロシア前衛の核心を射抜いていました。そしてマレーヴィチは、その漆黒の四角形が持つ力に、誰よりも早く気づいたのです。

マチューシンへ宛てた手紙の中で、マレーヴィチはこう書いています。この正方形は「絵画において大きな意味を持つことになるだろう」、これは「あらゆる可能性の胚」なのだと。

「ゼロ地点」の発明――シュプレマティスムの誕生

1915年の夏、マレーヴィチは制作中のキャンバスの上で、ある啓示を受けたとされています。それまでキュボ・フューチャリスム(キュビスムと未来派の融合)のスタイルで描いていた作品の上を、彼は激しい筆づかいで塗りつぶしていきました。あるいは最初のキュボ・フューチャリスム作品の上にプロト・シュプレマティスム的な構図を重ね、さらにその上に黒い正方形を描いた――2015年のX線調査が明らかにしたのは、まさにそうした重層的なプロセスでした。

こうして生まれた「黒い正方形」は、79.5センチ×79.5センチのリネンキャンバスに、黒い油彩を大胆な筆づかいで塗り広げたものです。縁と境界線には白やグレーの絵具が使われています。一見すると単純極まりないこの作品を、マレーヴィチは「シュプレマティスム(至高主義、あるいは絶対主義)」と名づけた新しい芸術運動の出発点として位置づけました。

シュプレマティスムとは何か。マレーヴィチ自身の言葉を借りれば、「純粋な芸術的感情の優位」に基づく抽象芸術です。ラテン語のsupremus(至高の)に由来するこの名称が示すように、それは絵画を物質世界の模倣(ミメーシス)から解放し、色彩と形態そのものに純粋な感情を宿らせようとする試みでした。1927年にバウハウス叢書の第11巻として出版された著書『無対象の世界』の中で、マレーヴィチはこう述べています。「1913年、現実世界の死重から芸術を必死に解放しようとして、私は正方形という形態に逃げ込んだ」。

なぜ正方形だったのでしょうか。円でも三角でもなく。正方形は自然界にはほとんど存在しない純粋に人工的な形であり、上下左右の区別を持たず、どこにも視線を誘導しない。それはまさに「何も描いていない」状態に最も近い、描くことの最小単位だったのです。マレーヴィチはこれを「絵画のゼロ地点」と呼びました。すべてが消え去った後に残る、最後の一点。そこから新しい芸術が始まるのだという宣言でした。

イコンの場所に掛けられた「反イコン」

「最後の未来派絵画展 0,10」の会場で、マレーヴィチは39点の作品を展示しました。その中心に据えられたのが「黒い正方形」です。そして前述のとおり、それはロシア正教のイコンが飾られる「美しい隅」「赤い隅」と呼ばれる壁の一角に、高々と掛けられていました。

この配置は、当時のロシアの鑑賞者にとって強烈なメッセージでした。伝統的な宗教画の代わりに、一切の具象を排した黒い正方形を「聖なる場所」に置くこと。それは近代芸術がもうひとつの「信仰」になりうるという挑発的な主張であると同時に、マレーヴィチ自身がこの作品に精神的・超越的な意味を込めていたことの表明でもあったのです。マレーヴィチは「黒い正方形」を「われわれの時代の、枠のない裸のイコン」と呼んでいます。

展覧会の名称に含まれる「0」という数字も象徴的です。マレーヴィチにとって「ゼロ」とは無ではなく、むしろあらゆるものの出発点。絵画が具象という荷物をすべて降ろした「ゼロの状態」から、新しい芸術が始まるのだ。展覧会に添えられたパンフレットで、マレーヴィチはこう宣言しています。「これまで、現実のいかなる属性も伴わない、絵画そのものとしての絵画は試みられたことがなかった」。

批評家や観客の反応は、当然ながら賛否が真っ二つに割れました。キュビスムや未来派に慣れていたロシアの美術界にとっても、これはあまりにも急進的でした。批評家たちはこの黒い深淵を覗き込んで、文化の基盤を揺るがす社会的挑発を見出しました。マレーヴィチが当初「四辺形」と呼んでいた作品に、より限定的な「黒い正方形」という呼称を与えたのも批評家たちです。彼らはマレーヴィチの「既存の芸術形式の死」への呼びかけは聞き取ったものの、「新しい形式を創造せよ」という呼びかけは無視した――そう指摘する研究者もいます。

黒の下に眠っていたもの――X線が暴いた秘密

2015年、「黒い正方形」の誕生100周年を控え、モスクワのトレチャコフ美術館の研究チームは、所蔵する1915年版の「黒い正方形」にデジタルX線調査を実施しました。主導したのは、同館のロシア前衛美術の主任研究員イリーナ・ヴァカール、そしてX線専門家のエカテリーナ・ヴォロニナとイリーナ・ルスタモワです。

結果は衝撃的でした。黒い表面の下に、2つの異なる絵画が隠されていたのです。最も深い層にはカラフルなキュボ・フューチャリスム風の構図があり、その上にはプロト・シュプレマティスム的な構図が重ねられていました。そしてもうひとつ、白い縁の部分に、マレーヴィチの手書きと思われる文字が発見されました。解読の結果、そこには「洞窟の中で戦う黒人たち」と読める言葉が記されていたのです。

この文言は、先述のアルフォンス・アレーが1897年に発表したモノクローム作品「夜の洞窟で戦う黒人たち」への明らかな参照でした。つまり、マレーヴィチはアレーの「ジョークとしてのベタ塗り」を知っていた可能性が高い。「黒い正方形」は、少なくともその出発点において、フランスのユーモリストとの対話を含んでいたのかもしれません。

この発見はメディアで大きく報じられ、「マレーヴィチ」「黒い正方形」「差別的なジョーク」というキーワードがインターネット上を駆け巡りました。しかしトレチャコフ美術館の研究者たちは慎重な姿勢を崩しませんでした。ヴァカールによれば、「この作品が即興的に生まれたと思われていたが、調査の結果、その制作過程が複雑で長い時間をかけたものであったことが明らかになった」とのことです。マレーヴィチは2種類の黒い絵具を使い分け、白い縁の部分には指紋まで残していました。一枚の「単純な」絵の裏に、これほど複雑な物語が隠されていたのです。

なぜマレーヴィチは既存の作品の上に描いたのか。当時のロシアでは画材が不足しており、キャンバスの使い回しは珍しくなかったという実際的な理由もあります。しかしそれだけではないでしょう。具象的な絵の上を黒で覆い尽くす行為そのものが、過去の芸術を文字通り「埋葬」するという、シュプレマティスムの思想を体現しているようにも見えます。アレーの文言は、その「埋葬」の前に、ジョークとして始まった系譜への最後の目配せだったのかもしれません。

「白の上の白」へ――引き算の極限

マレーヴィチの引き算は「黒い正方形」で終わりませんでした。黒い円、黒い十字架といったバリエーションを経て、1918年には「白の上の白」を発表します。白いキャンバスの上に、わずかに傾いた白い正方形。色彩すら消去したこの作品は、シュプレマティスムの論理的な到達点でした。感情の純粋な表現のために、ついに色すらも不要になったのです。

この極限的な引き算の精神は、同時代および後世のデザイン運動に深い影響を与えていきます。マレーヴィチの弟子エル・リシツキーは、シュプレマティスムの二次元的な形態言語を三次元の空間へと展開する「プロウン」シリーズを制作し、自らこれを「絵画から建築に乗り換える駅」と呼びました。リシツキーは1920年代にベルリンで展覧会を開き、オランダのデ・ステイルやドイツのバウハウスと直接的な接点を持ちました。

ピート・モンドリアンのデ・ステイル、ワルター・グロピウスのバウハウス。これらの運動は、マレーヴィチのシュプレマティスムとは独立に、しかし明らかに呼応する形で、幾何学的抽象と「不要なものの削除」という原理を追求していきました。バウハウスの後期ディレクターを務めたルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエが唱えた「Less is more(より少ないことは、より豊かなこと)」という有名なフレーズは、マレーヴィチが「ゼロ地点」で示した精神の建築的な翻訳といえるかもしれません。

弾圧と伝説化――スターリン時代を越えて

十月革命後のロシアで、マレーヴィチは一時的に体制側に迎え入れられました。ヴィテブスク実践芸術学校やレニングラード芸術アカデミーなどで教鞭をとり、「黒い正方形」を含む作品群はトレチャコフ美術館などの国立美術館に収蔵されました。

しかし1920年代後半になると、ソビエト政府の文化政策は急速に保守化していきます。前衛芸術は「ブルジョア的」として排斥され、1934年には社会主義リアリズムが公式の芸術政策として採用されました。1927年にワルシャワとベルリンでの回顧展のために出国したマレーヴィチは、政治的変化を察知して多くの作品を海外に残しましたが、帰国後に逮捕され、残っていた作品の大半が国家に没収されています。

1933年にがんと診断されたマレーヴィチは、出国して治療を受けることを許されませんでした。晩年のマレーヴィチはスターリン体制の下で具象画に「回帰」していますが、その作品にはしばしば小さな黒い正方形が署名のように描き込まれています。最後まで、この画家は自らの信念を手放しませんでした。

1935年5月15日、マレーヴィチはレニングラードで息を引き取りました。享年56歳。その葬儀は、最後のシュプレマティスム・パフォーマンスとでも呼ぶべきものでした。弟子のニコライ・スエーチンが設計した棺は、白く塗られた直方体に黒い正方形と黒い円が描かれた「アーキテクトン(建築模型)」型。遺体を載せたトラックのフロントバンパーには「黒い正方形」が掲げられ、車体はシュプレマティスム的な赤・黒・緑で装飾されていました。弔問客は黒い正方形が描かれた旗を掲げて行進しました。遺灰はモスクワ郊外のネムチノフカ村に埋葬され、墓標として黒い正方形が描かれた白い立方体が置かれました。

マレーヴィチの死後、彼の作品はソ連の公の場から姿を消し、「黒い正方形」が再び展示されるのは1980年代になってからのことです。見ることのできないイコンは、かえってその神話的な力を増していきました。

スマートフォンの中の黒い正方形

マレーヴィチが「ゼロ地点」で示した「極限まで要素を削ぎ落とす」という原理は、20世紀から21世紀にかけてのデザイン史を貫く一本の線になっています。

1960年代のアメリカで花開いたミニマリズムは、マレーヴィチのシュプレマティスムから直接的なインスピレーションを受けています。バーネット・ニューマンの巨大な色面絵画、アド・ラインハートの「究極の絵画」と名づけられた黒い作品群。彼らもまた、絵画から物語性や装飾を取り去り、純粋な視覚体験に到達しようとしていました。アラン・マッコラムは1980年代に、何百もの石膏キャストで構成されるインスタレーション「サロゲーツ」を制作していますが、そのひとつひとつは、まるで工業的に量産されたマレーヴィチの「黒い正方形」のようです。

デザインの世界では、その影響はさらに具体的です。バウハウスからスイス・スタイル(国際タイポグラフィー様式)を経て、ディーター・ラムスのブラウン製品のデザインへ。ラムスの「良いデザインは最小限のデザインである」という原則は、マレーヴィチの「ゼロ地点」の思想と深く通底しています。そしてラムスのデザイン哲学を公然と受け継いだのがアップルのジョナサン・アイブであり、その成果は初代iPhoneのインターフェースデザインに結実しました。

あなたがいま手にしているスマートフォンの画面を見てください。アプリのアイコンは正方形(あるいは角丸の正方形)です。白い背景にシンプルな幾何学形態。この「何も余計なものがない」インターフェースの思想を110年前の展覧会場までたどっていくと、壁の隅に掛けられた一枚の黒い正方形に行き着くのです。

もちろん、マレーヴィチがアプリのアイコンを予見していたわけではありません。しかし「不要なものをすべて取り去った先に、最も普遍的な表現が残る」というラディカルな信念は、100年以上の歳月を超えてなお、私たちのデザイン環境の根底に息づいています。

黒い正方形が問いかけるもの

マレーヴィチは4つのバージョンの「黒い正方形」を描いています。1915年のオリジナル、1923年頃の弟子たちとの共作による第2版、1929年頃の第3版(すでに損傷が進んでいた第1版の代替として制作)、そして1920年代末から30年代初めにかけて描かれた最小の第4版。この最後のバージョンは、マレーヴィチの葬儀で棺の後ろに掲げられたとされています。

1915年版は現在、トレチャコフ美術館に所蔵されていますが、その状態は良好とはいえません。スターリン時代にソビエトの倉庫で長期間放置されていたため、黒い表面にはひび割れが走り、変色し、色褪せています。美術批評家のピーター・シェルダールがかつて評したように、この絵は「まるで88年間、割れた窓の修繕に使われていたかのように」見えます。しかし、その傷みさえもがこの作品の物語の一部となっています。漆黒だった表面のひび割れの隙間からは、下に眠るカラフルな絵具の色が覗いている。引き算の極限を目指した黒い正方形が、時間の経過によって自らの歴史を少しずつ露呈しているのです。

テート・モダンが2014年に開催した大規模回顧展では、当時の展示を再現する試みがなされ、「黒い正方形」はふたたび部屋の隅に掛けられました。100年以上を経てなお、この作品は見る者に奇妙な感覚を呼び起こします。それは確かに「ただの黒い四角」です。しかし同時に、それは見方次第で深淵にも、窓にも、鏡にも、原点にもなりうる、不思議な存在です。テートのある解説が述べるように、「この作品を見るのに、間違った方法も正しい方法もありません」。

1882年のパリで笑いを取ったベタ塗りのジョーク。1915年のペトログラードで聖なる場所に掛けられた反イコン。2015年のX線が暴いた重層的な秘密。そして2020年代の私たちのポケットに入っているミニマルなインターフェース。「黒い正方形」の物語は、引き算が単なる省略ではなく、ときに何よりも雄弁な表現になりうることを教えてくれます。何も描かないことで、すべてを語る。それがマレーヴィチの発明であり、デザイン史における最も大胆な賭けのひとつだったのです。

Q&A

Q. マレーヴィチの「黒い正方形」はなぜ「1913年」と裏書きされているのですか?
A. 「黒い正方形」の裏面には「1913」という記載がありますが、実際に絵画として制作されたのは1915年と考えられています。1913年はオペラ「太陽への勝利」の舞台美術で黒い正方形のモチーフを初めて使った年であり、マレーヴィチはこのアイデアの着想年を記したとされています。ただし、抽象芸術の「最初の発明者」としての優先権を主張するために意図的に遡及した日付を記した可能性も、研究者の間で指摘されています。
Q. 「黒い正方形」は本当にただの黒い四角なのですか?技法的な特徴はあるのでしょうか?
A. 一見するとベタ塗りに見えますが、実際には複雑な絵画的特徴を持っています。マレーヴィチは2種類の黒い絵具を使い分けており、筆づかいにも方向性があります。また、黒い正方形は厳密な幾何学的正方形ではなく、辺にはわずかなゆがみがあります。白い縁の部分にはマレーヴィチの指紋も残されており、2015年のX線調査ではその下に2層の別の絵と手書きの銘文が発見されています。
Q. シュプレマティスムとコンストラクティヴィスム(構成主義)はどう違うのですか?
A. どちらもロシア前衛芸術から生まれた運動ですが、思想的には大きく異なります。シュプレマティスムは「純粋な感情の優位」を掲げ、芸術を実用性から解放することを目指しました。対してコンストラクティヴィスムは、芸術を社会的・実用的な目的に奉仕させることを重視し、建築やデザインへの応用を積極的に推進しました。ソビエト政府はコンストラクティヴィスムの方をより支持した経緯があります。
Q. マレーヴィチの作品はどこで見られますか?
A. 1915年版の「黒い正方形」はモスクワのトレチャコフ美術館に所蔵されています。1923年版はサンクトペテルブルクのロシア美術館にあります。また、1927年のベルリン滞在時に預けられた作品群が、アムステルダムのステデリック美術館に大規模なコレクションとして保管されています。ニューヨーク近代美術館(MoMA)にも「白の上の白」(1918年)など重要作品が収蔵されています。
Q. マレーヴィチの墓はどうなっていますか?
A. マレーヴィチの遺灰はモスクワ郊外のネムチノフカ村のカシの木の下に埋葬され、黒い正方形が描かれた白い立方体の墓標が置かれました。しかし第二次世界大戦中に墓標は失われ、畑も耕されて墓の正確な位置が分からなくなりました。2000年代に再発見の試みがなされましたが、2013年には埋葬地の上に高級マンションが建設されており、現在はその場所にマレーヴィチの墓があったことを示す記念碑が設置されています。

参考文献

Black Square – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Black_Square
Five ways to look at Malevich’s Black Square | Tate
https://www.tate.org.uk/art/artists/kazimir-malevich-1561/five-ways-look-malevichs-black-square
Art Historians Find Racist Joke Hidden Under Malevich’s “Black Square” – Hyperallergic
https://hyperallergic.com/253361/art-historian-finds-racist-joke-hidden-under-malevichs-black-square/
X-Rays Unveil Hidden Paintings Beneath an Avant-Garde Classic – Smithsonian Magazine
https://www.smithsonianmag.com/smart-news/x-rays-unveil-two-hidden-paintings-beneath-classic-avant-garde-painting-180957279/
Stories of Iconic Artworks: Kazimir Malevich’s Black Square – Artland Magazine
https://magazine.artland.com/stories-of-iconic-artworks-kazimir-malevichs-black-square/
Album primo-avrilesque – Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Album_primo-avrilesque
Precedents of the Unprecedented: Black Squares Before Malevich — The Public Domain Review
https://publicdomainreview.org/essay/black-squares-before-malevich

基本データ

作品名
黒い正方形(Чёрный квадрат / Black Square)
作者
カジミール・マレーヴィチ(Kazimir Malevich, 1879–1935)
制作年
1915年(裏面に「1913」の記載あり)
技法・素材
油彩、リネンキャンバス
サイズ
79.5 × 79.5 cm
所蔵
トレチャコフ美術館(モスクワ)※1915年版
初展示
「最後の未来派絵画展 0,10」(1915年12月、ペトログラード、ドビチナ画廊)
バージョン
全4版(1915年、1923年頃、1929年頃、1920年代末〜30年代初め)
芸術運動
シュプレマティスム(Suprematism / 至高主義)
作者の生没
1879年2月23日(キエフ)〜1935年5月15日(レニングラード)

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