紀元前3250年——。ナイル川の流域に栄えた古代エジプト文明の工房で、人類史上はじめての「合成顔料」が誕生しました。その名は「エジプシャン・ブルー」。砂と銅と石灰を高温の炉で焼き上げることで生まれたこの鮮やかな青は、天然には存在しない、人の手によって創り出された最古の色です。ラピスラズリへの憧れから始まったこの発明は、ファラオの墓を彩り、ローマ帝国を経て地中海世界へと広がり、やがて歴史の闇に消えました。しかし5000年の時を超え、この青は現代のナノテクノロジーや医療イメージングの最前線で再び輝きはじめています。これは「青」をめぐる、壮大な物語です。

青への渇望——エジプシャン・ブルー誕生の背景
古代世界において、「青」は最も手に入れにくい色でした。赤や黄色は天然の鉱物から容易に得ることができましたが、鮮やかな青の顔料となると、遠くアフガニスタンのヒンドゥークシュ山脈から運ばれるラピスラズリに頼るしかなかったのです。この半貴石は極めて高価で、入手も困難でした。
しかし古代エジプト人にとって、青は単なる色ではありませんでした。ナイル川と空を象徴する青は、生命と再生を意味する神聖な色でした。冥界の神オシリスの肌は青く描かれ、王墓の天井は夜空を模した深い青で覆われました。宗教的にも芸術的にも、大量の青い顔料が必要とされていたのです。
天然のアズライト(藍銅鉱)を使うことも検討されましたが、この鉱物は希少で加工も困難でした。ラピスラズリを粉砕して顔料にしようとする試みも、くすんだ灰色にしかならなかったと伝えられています。こうした制約のなかで、エジプトの職人たちは大胆な発想の転換を行いました。天然に存在しない青を、自らの手で「つくる」という決断です。
炉の中から生まれた奇跡——製造の過程と困難
エジプシャン・ブルーの製造は、まさに古代の化学実験でした。原材料は珪砂(石英の砂)、石灰石(炭酸カルシウム)、銅を含む鉱物(マラカイトやアズライト)、そしてナトロン(炭酸ナトリウム)などのアルカリ。これらを細かく粉砕して混ぜ合わせ、摂氏850度から1000度という高温の炉で焼成します。
この過程で、原料は化学反応を起こし、カルシウム銅シリケート(CaCuSi₂O₁₀)という結晶——天然鉱物のクプロリバイトと同じ組成——を含む青いガラス質の塊「フリット」に変わります。この塊を砕いて粉末にすれば、鮮やかな青の顔料が完成するのです。
しかし、この一見シンプルなレシピの裏には、膨大な試行錯誤があったことでしょう。原料の配合比率がわずかに変わるだけで、色味は大きく変化します。温度管理も極めて重要で、低すぎれば反応が不完全に終わり、高すぎれば別の化合物が生成されてしまいます。2025年にワシントン州立大学らの研究チームが12種類のレシピでエジプシャン・ブルーの再現実験を行ったところ、「工程のほんのわずかな違いで、まったく異なる結果が得られた」と報告しています。現代の科学者でさえ制御が難しいこの工程を、古代エジプトの職人たちは経験と勘を頼りに完成させたのです。
エジプシャン・ブルーの最古の使用例は、紀元前3250年頃のアラバスター製の鉢に確認されています。この鉢はヒエラコンポリスで発掘され、現在はボストン美術館に所蔵されています。メンフィス大学のエジプト学者ロレレイ・H・コーコランが、刻まれた初期ヒエログリフの溝に詰められた青い顔料をエジプシャン・ブルーであると同定しました。この発見は、エジプシャン・ブルーの使用開始時期を従来の第4王朝(紀元前2500年頃)から数百年も遡らせるものでした。
ファラオの墓を彩る——主な作品と活用例
エジプシャン・ブルーは、古代エジプトのあらゆる芸術作品に用いられました。その用途は驚くほど多岐にわたります。
最も有名な活用例のひとつが、王家の墓の壁画です。ネフェルタリ王妃の墓(QV66)は「古代エジプトのシスティーナ礼拝堂」と称されるほど美しい壁画で知られていますが、その鮮やかな青にはエジプシャン・ブルーが使われています。ネバムンの墓のフレスコ画——来世の庭園を描いた有名な場面——もまた、この顔料で彩られた傑作であり、現在は大英博物館の至宝として展示されています。
また、あのネフェルティティの胸像にもエジプシャン・ブルーが使用されていたことが、2009年のベルリン国立博物館の非接触分析で確認されました。青い王冠だけでなく、王妃の肌の色調を表現するためにも、さまざまな濃淡のエジプシャン・ブルーが重ね塗りされていたのです。
さらに、エジプシャン・ブルーは壁画だけにとどまりません。シリンダーシール、スカラベ(ふんころがし型の護符)、ビーズ、象嵌細工、壺、小像など、多種多様な工芸品の製作にも活用されました。中王国時代(紀元前2050〜1652年頃)には墓の装飾に広く使われ、新王国時代(紀元前1570〜1070年頃)にはさらに多くの物品の製造へと用途が拡大していきました。

地中海を渡る青——古代ローマへの伝播と消滅
古代エジプトで生まれたこの青は、交易路を通じて地中海世界へと広がっていきました。古代ギリシャでは、アテネのパルテノン神殿にあるイリス(虹の女神)像の帯にエジプシャン・ブルーが使われていたことが、赤外線イメージングによって明らかになっています。
紀元前1世紀にローマがエジプトを征服すると、この顔料の製造技術もローマ帝国へと引き継がれました。ローマ時代には、南イタリアのナポリ湾周辺——とりわけポッツォーリ周辺——が主要な生産地となり、「ポッツォーリ・ブルー」「アレクサンドリア・ブルー」といった別名でも呼ばれるようになりました。インドから輸入される高価なインディゴの代替品として、比較的安価に製造できるエジプシャン・ブルーはローマ帝国全土で取引されました。
しかし、ローマ帝国の衰退とともに、エジプシャン・ブルーの運命も暗転します。帝国末期にはすでに使用頻度が減少しており、ローマ・エジプトの画家たちは赤や黄色、白をより好むようになっていました。そして西ローマ帝国の滅亡(476年)を境に、エジプシャン・ブルーの製造法は歴史の闇に消えてしまったのです。中世ヨーロッパでは、この青の存在そのものがほぼ忘れ去られました。
ただし、完全に消え去ったわけではなかったことが近年の研究で判明しています。スペインのサン・ペレ教会(テラッサ)の11世紀の壁画や、ジョヴァンニ・バッティスタ・ベンヴェヌートの1524年の絵画など、散発的に中世やルネサンスの作品からもエジプシャン・ブルーが検出されているのです。しかし当時の記録にはその使用が一切記されておらず、おそらく職人たちの間でごく限られた知識として細々と受け継がれていたものと考えられています。
ポンペイからの復活——再発見の物語
1814年、ポンペイ遺跡の発掘現場で、一つの壺が発見されました。その中には謎の「淡い青色の物質」が入っていました。この発見に立ち会ったのは、イギリスの化学者ハンフリー・デイヴィでした。ナポレオンのエジプト遠征(1798〜1801年)以来、ヨーロッパでは古代エジプトへの関心が高まっていた時期でもありました。
デイヴィの発見をきっかけに、この青い物質の研究が本格的に始まりました。そして1880年代に至り、ついにエジプシャン・ブルーの化学組成が解明され、その製造方法も特定されたのです。ローマ時代の建築家ウィトルウィウスが著書『建築十書』のなかで記していた製法の記述と、科学分析の結果が見事に一致しました。1500年以上失われていたレシピが、考古学と化学の力で蘇った瞬間でした。
5000年の時を超えて——現代に蘇る古代の青
エジプシャン・ブルーの物語は、再発見だけでは終わりませんでした。21世紀に入り、この古代の顔料に驚くべき性質が隠されていたことが明らかになったのです。
2009年、イタリアとイギリスの研究チームが、エジプシャン・ブルーの主成分であるクプロリバイトが、可視光を照射すると近赤外線を放出する——つまり近赤外蛍光を示す——ことを発見しました。しかもその発光効率(量子収率)は約10.5%と極めて高く、励起状態の寿命も107マイクロ秒と非常に長いという、現代の光学材料としても注目に値する特性だったのです。
この発見は、まず美術品の調査方法に革命をもたらしました。大英博物館の研究者ジョヴァンニ・ヴェッリが開発した「可視光誘起蛍光イメージング(VIL)」という手法では、赤い光を古代の遺物に当てるだけで、肉眼では見えなくなったエジプシャン・ブルーの痕跡を検出できるようになりました。上から別の塗料が塗り重ねられていても、その下に隠れたエジプシャン・ブルーを浮かび上がらせることができるのです。この技術により、これまで知られていなかった多くの古代遺物にエジプシャン・ブルーが使われていたことが次々と明らかになっています。
さらに、ジョージア大学のトニア・サルゲロらの研究により、エジプシャン・ブルーは熱水中で撹拌するだけで、厚さ数ナノメートルという極薄のシート(ナノシート)に剥離できることが判明しました。8万枚以上を重ねてようやく髪の毛1本分の厚さになるほどの超薄膜です。このナノシートはインクジェットプリンターで印刷可能であり、カルシウム・銅・ケイ素・酸素という安価で豊富な元素のみで構成されているため、希土類元素を必要とする他の近赤外発光材料に比べて経済的にも環境的にも優れているとされています。

その後の世界——5000年前の発明が拓く未来
エジプシャン・ブルーが現代の世界に与えている影響は、もはや「顔料」の枠をはるかに超えています。
医療分野では、近赤外線が生体組織を透過しやすい性質を活かし、バイオメディカルイメージング(生体画像診断)への応用が研究されています。近赤外蛍光は可視光よりも散乱が少なく、より深部の組織を観察できるため、診断精度の向上が期待されています。
エネルギー分野では、エジプシャン・ブルーの高い赤外線反射率を活かし、建物の屋根や外壁に塗布することで日射熱を反射し冷房負荷を下げる「クールコーティング」としての可能性が検討されています。また、近赤外蛍光を利用した「蛍光集光型太陽光発電(LSC)」への応用も研究が進んでいます。
セキュリティ分野では、肉眼では見えず特殊な機器でのみ検出できるという性質を活かし、偽造防止インクとしての応用が提案されています。紙幣や公文書の偽造防止に利用できる可能性があるのです。
法科学(フォレンジック)の分野でも注目を集めています。2016年の研究では、エジプシャン・ブルーを微粒子化した粉末が、複雑なパターンや反射のある表面からの潜在指紋の検出において、従来の指紋粉末を一貫して上回る性能を示したと報告されています。
通信技術においても、ナノシートが特定の波長の光を操作できる特性は、光通信デバイスへの応用が期待されています。テレビのリモコンや車のドアロックに使われるような近赤外通信の原理を、より高度な形で応用できる可能性があるのです。
こうした現代への応用を見ると、エジプシャン・ブルーの発明が人類の色彩の歴史にとどまらず、材料科学そのものの起源であったことがわかります。「自然界にないものを、原料を組み合わせて人工的につくり出す」という発想——これは紀元前3000年代のエジプトの工房で生まれた、人類最初の化学合成の試みだったとも言えるでしょう。そしてその遺産は、5000年の時を超えて、今もなお新しい可能性を切り拓いているのです。
基本データ
- 名称
- エジプシャン・ブルー(Egyptian Blue)
- 別名
- カルシウム銅シリケート、クプロリバイト、ブルーフリット、ポッツォーリ・ブルー、アレクサンドリア・ブルー
- 古代エジプト語名
- ḫsbḏ-ỉrjt(ケスベジュ・イリチュ)=「人工のラピスラズリ」
- 化学組成
- CaCuSi₄O₁₀(カルシウム銅テトラシリケート)
- 原材料
- 珪砂(石英)、石灰石、銅鉱物(マラカイトまたはアズライト)、ナトロン(アルカリ)
- 焼成温度
- 約850〜1000℃
- 最古の使用例
- 紀元前3250年頃(ヒエラコンポリス出土のアラバスター鉢、ボストン美術館所蔵)
- 主な生産地
- エジプト(アマルナ、メンフィス)、ローマ時代の南イタリア(ナポリ湾周辺)
- 使用期間
- 紀元前3250年頃〜ローマ帝国末期(5世紀頃)、散発的に中世・ルネサンスまで
- 近赤外蛍光
- ピーク波長 約910nm、量子収率 約10.5%、励起状態寿命 107μs
Q&A
- Q. エジプシャン・ブルーはなぜ「史上最古の合成顔料」と呼ばれるのですか?
- A. エジプシャン・ブルーは、天然に存在する鉱物をそのまま砕いた顔料(赤土や黄土など)とは異なり、複数の原料を化学反応させて人工的に生み出された顔料だからです。紀元前3250年頃の使用例が確認されており、人類が意図的に化学合成で作り出した顔料としては最も古いものとされています。
- Q. なぜエジプシャン・ブルーの製法は失われてしまったのですか?
- A. ローマ帝国末期にはすでに使用が減少しており、5世紀の西ローマ帝国滅亡とともに、組織的な製造の知識が途絶えたと考えられています。中世ヨーロッパではごく散発的に使われた形跡がありますが、体系的な製法の伝承は途切れ、1814年のポンペイでの発見と、1880年代の化学分析によってようやく復元されました。
- Q. エジプシャン・ブルーが近赤外線を発するのはなぜですか?
- A. エジプシャン・ブルーの主成分であるクプロリバイト(CaCuSi₄O₁₀)の結晶構造のなかに、平面四角形配位の銅イオン(Cu²⁺)を含む特殊な波形のシート構造があります。この構造が可視光を吸収し、約910nmの近赤外線として再放出するのです。この発光は非常に効率が高く、安定しています。
- Q. 現在、エジプシャン・ブルーを購入したり使ったりすることはできますか?
- A. はい。現代では化学的に再現されたエジプシャン・ブルーが、美術用顔料として一部の専門メーカーから市販されています。また、2025年にはワシントン州立大学らの研究チームが12種類のレシピで再合成に成功しており、科学研究用途での製造も行われています。カーネギー自然史博物館では、新たに合成されたサンプルが展示されています。
- Q. エジプシャン・ブルーと中国の「漢青(ハンブルー)」は同じものですか?
- A. 異なる物質です。エジプシャン・ブルーはカルシウム銅シリケート(CaCuSi₄O₁₀)ですが、漢青はバリウム銅シリケート(BaCuSi₂O₆)で、カルシウムの代わりにバリウムを含みます。ただし、どちらも銅を発色源とする合成顔料であり、近赤外蛍光特性を持つなど共通点も多くあります。両者が独立に発明されたのか、技術が伝播したのかについては、まだ結論が出ていません。
参考文献
- Egyptian blue – Wikipedia
- https://en.wikipedia.org/wiki/Egyptian_blue
- Ancient Color | Creating Blue – Kelsey Museum of Archaeology, University of Michigan
- https://exhibitions.kelsey.lsa.umich.edu/ancient-color/blue.php
- Archaeologists Are Recreating the Long-Lost Recipe for Egyptian Blue – Smithsonian Magazine
- https://www.smithsonianmag.com/smart-news/researchers-are-recreating-the-long-lost-recipe-for-egyptian-blue-the-worlds-oldest-known-synthetic-pigment-180986778/
- Egyptian Blue: The First Synthetic Pigment – Hyperallergic
- https://hyperallergic.com/366307/egyptian-blue-the-first-synthetic-pigment/
- Egyptian blue: the colour of technology – Journal of Art in Society
- https://www.artinsociety.com/egyptian-blue-the-colour-of-technology.html
- Ancient Infrared-Emitting Egyptian Pigment Could Be Useful as Nano-Ink – Scientific American
- https://www.scientificamerican.com/article/ancient-infrared-emitting-egyptian-pigment-could-be-useful-as-nano-ink/
- Researchers recreate ancient Egyptian blues – Washington State University
- https://news.wsu.edu/press-release/2025/06/02/researchers-recreate-ancient-egyptian-blues/
- Egyptian Blue Pigment – Colourlex
- https://colourlex.com/project/egyptian-blue/
- Egyptian Blue Pigment Changes History – University of Memphis
- https://www.memphis.edu/mediaroom/releases/2016/april16/egyptianblue.php
- Description of the bust of Nefertiti – Ägyptisches Museum und Papyrussammlung, Staatliche Museen zu Berlin
- https://www.smb.museum/en/museums-institutions/aegyptisches-museum-und-papyrussammlung/collection-research/bust-of-nefertiti/the-bust/
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