1950年代ハリウッド、一人のデザイナーが映画界に起こした静かな革命
1954年のハリウッド。映画のタイトルシーケンスといえば、白い背景に黒い文字でキャストとスタッフの名前を淡々と表示するだけのものでした。観客は映画が始まるまでの「待ち時間」として、おしゃべりをしたり座席を探したりしていたのです。
そんな中、一人のグラフィックデザイナーがオットー・プレミンジャー監督との会話で口にした何気ない一言が、映画史を変えることになります。「Why not make it move?」
ソール・バス(Saul Bass、1920年5月8日 – 1996年4月25日)は、アメリカ合衆国のグラフィックデザイナー。ニューヨーク出身。彼の名前を知らなくても、きっとあなたも彼の作品を目にしたことがあるでしょう。ヒッチコック映画の印象的なオープニング、AT&Tの企業ロゴ、そして日本では味の素やコーセー化粧品のロゴも彼の手によるものです。

「黄金の腕」── タイトルシーケンスの革命が始まった瞬間
1954年オットー・プレミンジャー監督作品『カルメン』でタイトルデザインを初めて担当したバス。しかし、真の革命が起こったのは翌年の『黄金の腕』でした。
薬物中毒というタブーなテーマを扱ったこの映画で、バスが創造したのは従来の概念を根底から覆すタイトルシーケンスでした。バスは『黄金の腕』のタイトルデザインについて、「薬物中毒者の不快さ、散漫さをギザギザの腕で表現した」と振り返っています。
黒い背景に白い線で描かれた、ギザギザと歪んだ腕のシルエット。それは単なる装飾ではなく、映画の本質を視覚化した芸術作品でした。エルマー・バーンスタインの緊迫感あふれるジャズスコアと相まって、観客は映画が始まる前から物語の世界に引き込まれていきました。
「The Man with the Golden Arm woke everybody up」と後に『Se7en』のタイトルを手がけるカイル・クーパーが語ったように、この作品は業界全体に衝撃を与えました。

ヒッチコックとの蜜月期── 映画史に残る傑作タイトルの誕生
バスの才能を最も理解していた監督の一人が、アルフレッド・ヒッチコックでした。二人の協働は『めまい』(1958年)のタイトルデザインで初めて組んだヒッチコックとの仕事は『北北西に進路を取れ』(1959年)、『サイコ』(1960年)の合計3本だけでしたが、その影響は計り知れません。
『めまい』では、映画に初めてコンピューター映像を取り入れた斬新なタイトルバックを制作し、ジョン・ホイットニーとの協働により、催眠的な渦巻きのアニメーションで主人公の心理状態を表現しました。「That’s what he did with Vertigo and those spirals that just keep endlessly forming – that’s the madness at the heart of the picture, the beautiful nightmare vortex of James Stewart’s affliction.」とマーティン・スコセッシが称賛するように、それは映画の狂気の核心を視覚化したのです。
『北北西に進路を取れ』では、キネティック・タイポグラフィを導入。斜めのグリッドが高層ビルのファサードであることが次第に明かされていく演出は、都市の幾何学的美しさと不安感を同時に表現した傑作でした。
そして『サイコ』。タイトルのみならず有名な”シャワー・シーン”の絵コンテも手がけるなど、バスの映画への貢献は単なるタイトルデザインの枠を超えていました。
バスが確立したデザイン哲学──「普通を特別に」変える魔法
バスのデザインに一貫して流れているのは、シンプルさの中に深い意味を込める哲学でした。「映画が何についてのものか、そして物語の本質を呼び起こすシンプルで視覚的なフレーズに到達しようと努める」と語ったように、彼は映画の本質を一つの視覚的なフレーズで表現することを目指していました。
また、観客に身近な世界の見慣れた部分を見慣れない方法で見せることを目標とし、これを「普通のものを特別なものにする」と表現していました。『野生の夜に歩け』(1962年)では普通の猫を神秘的な捕食者として描き、『9時間後のラマ』(1963年)では時計の内部機構を不穏な緊張感の象徴として使用しました。
「タイトルができることについての私の最初の考えは、映画の物語のムードと根底にある核心を設定し、物語を何らかの比喩的な方法で表現することでした。私はタイトルを観客を条件づける方法として捉えていました。そうすることで、映画が実際に始まったとき、観客はすでにそれと感情的な共鳴を持っているでしょう」

業界からの高い評価とスコセッシとの再会
映画業界の巨匠たちからのバスへの評価は一様に高いものでした。「端的に言えば、ソールは偉大な映画製作者でした」とスコセッシは語り、「彼は対象となる映画を見て、そのリズム、構造、ムードを理解していました。彼は映画の心臓部に浸透し、その秘密を発見していたのです」と絶賛しています。
1960年代半ばから1980年代後半にかけて、ソールとエレインは、メインタイトルから離れ、映画制作と子育てに専念していました。しかし1990年代に入り、幼少期にバスの作品に魅了されたスコセッシによって再び映画界に招かれることになります。
『グッドフェローズ』(1990年)、『ケープ・フィアー』(1991年)、『エイジ・オブ・イノセンス』(1993年)、そして遺作となった『カジノ』(1995年)。スコセッシと5本めに組んだ『カジノ』(1995年)が最後にかかわった映画となり、1996年、75歳で死去しました。
現代への継承──バスの遺伝子を受け継ぐクリエイターたち
バスの死から四半世紀が経った今でも、彼の影響は色濃く残り続けています。「ある意味で、映画のムードやテーマを紹介する現代のオープニング・タイトル・シーケンスはすべて、バス夫妻の革新的な仕事の遺産と見ることができる」のです。
特に注目すべきは、1995年にカイル・クーパーが手がけた『Se7en』のタイトルシーケンスです。「バスは『カジノ』(マーティン・スコセッシ、1995年)で最後のシーケンスを制作しました。彼は一年後に亡くなりました。しかし1995年は、新世代のタイトルデザイナーの主要人物の一人であるグラフィックデザイナー、カイル・クーパーがデヴィッド・フィンチャーの『Se7en』のためにデザインしたオープニング・シーケンスによって名声を得た年でもありました」
現代の映画やテレビ番組でも、バスの影響は随所に見られます。「最近の映画やテレビシリーズのタイトルシーケンス、特に1960年代を舞台とするもののいくつかは、意図的に1950年代のソール・バスのアニメーション・シーケンスのグラフィック・スタイルを模倣しています。バスのグラフィックやアニメーション・タイトル・シーケンスにオマージュを捧げるタイトル・シーケンスの例には、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』(2002年)、『X-メン:ファースト・ジェネレーション』(2011年)、そしてAMCシリーズ『Mad Men』のオープニングが含まれます」。
『Mad Men』のタイトルシーケンスについて、制作者のスティーブ・フラーは「私はソール・バスの大ファンですが、マシュー・ワイナーは『60年代らしく見えるようにはしたくない』と言いました。私はそれをソール・バスのアップデート版だと考えたいと思います」と語っています。
Q&A
- Q. ソール・バスが手がけた最も有名な作品は何ですか?
- A. 映画タイトルシーケンスでは『サイコ』『めまい』『北北西に進路を取れ』のヒッチコック3部作、企業ロゴではAT&T(ベルマーク)やユナイテッド航空のロゴが特に有名です。日本企業では味の素、コーセー化粧品、紀文食品のロゴも手がけています。
- Q. なぜバスのデザインは現代でも色褪せないのでしょうか?
- A. バスの「シンプルさの中に本質を込める」という哲学が時代を超越しているからです。装飾に頼らず、幾何学的な形と色彩、動きだけで深いメッセージを伝える手法は、情報過多の現代においてむしろ新鮮さを保っています。
- Q. ヒッチコックとバスの関係はどのようなものでしたか?
- A. 3作品のみの協働でしたが、お互いの芸術的才能を深く理解し合う関係でした。しかし『サイコ』のシャワーシーンの功績をめぐって見解の相違があり、それ以降は一緒に仕事をしていません。
- Q. 現代の映像作品でバスの影響を強く受けた作品はありますか?
- A. 『Mad Men』『Catch Me If You Can』『Se7en』などが代表例です。特に『Mad Men』は1960年代を舞台とした作品として、意図的にバスのスタイルを現代的にアップデートしたタイトルシーケンスを採用しています。
基本データ
- 名前
- ソール・バス(Saul Bass)
- 生年月日
- 1920年5月8日
- 没年月日
- 1996年4月25日(享年75歳)
- 出身地
- アメリカ合衆国ニューヨーク州ブロンクス
- 主要な職業
- グラフィックデザイナー、映画製作者
- 代表作品(映画タイトルシーケンス)
- 『黄金の腕』(1955年)、『めまい』(1958年)、『北北西に進路を取れ』(1959年)、『サイコ』(1960年)、『グッドフェローズ』(1990年)、『カジノ』(1995年)
- 代表作品(企業ロゴ)
- AT&T、ユナイテッド航空、コンチネンタル航空、味の素、コーセー化粧品、紀文食品
- 受賞歴
- アカデミー賞短編ドキュメンタリー部門(1968年『なぜ人間は創造するのか』)
- 協働した主要監督
- オットー・プレミンジャー、アルフレッド・ヒッチコック、ビリー・ワイルダー、スタンリー・キューブリック、マーティン・スコセッシ
参考文献
- ソール・バス – Wikipedia
- https://ja.wikipedia.org/wiki/ソール・バス
- ソール・バス 映画タイトル名作8選 – zeitgeist
- http://zeitgeist.jp/zeitgeist/ソール・バス-映画タイトル名作8選/
- 天才ソール・バスが変えたテレビの見方、映画の見方 | WIRED.jp
- https://wired.jp/2016/11/22/saul-bass-changed-film/
- Saul Bass On His Approach To Designing Movie Title Sequences | by The Academy
- https://medium.com/art-science/saul-bass-on-his-approach-to-designing-movie-title-sequences-47fd537c457b
- Celebrating Saul Bass’s centenary: 10 essential title sequences | BFI
- https://www.bfi.org.uk/lists/celebrating-saul-basss-centenary-10-essential-title-sequences
- Saul Bass — Art of the Title
- https://www.artofthetitle.com/designer/saul-bass/
- Remembering Saul Bass: The Designer Who Changed Cinema
- https://www.esquire.com/uk/culture/film/a34169582/remembering-saul-bass-the-designer-who-changed-cinema/







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