東京カテドラル聖マリア大聖堂

東京カテドラル聖マリア大聖堂

目次

電車のつり革広告で見かけた写真があまりに印象的だったんでエントリー。
おおよそ教会とはおもえないステンレス・スチール張りの外観。上空から見ると十字架らしい。

丹下健三 設計 東京カテドラル聖マリア大聖堂


東京カテドラル聖マリア大聖堂 – Wikipedia

吊革広告には内部の写真が載ってたんですが載せれそうな写真ないので
下記ページから是非見てみてください。

参照サイト

一度はこの空間に飲み込まれてみたいものです。

おお何気に近場だ。

大聖堂が建てられた背景

東京カテドラル聖マリア大聖堂の歴史は、明治時代にまで遡る。現在の地・文京区関口には、1900年(明治33年)にフランス人宣教師によってゴシック様式の聖堂が建立された。これが初代の東京カテドラルであり、当時の東京においても異彩を放つ存在だった。しかし1945年(昭和20年)3月の東京大空襲によって聖堂は焼失してしまう。戦後の混乱期が落ち着きを取り戻した1950年代後半、カトリック東京大司教区は戦災で失われた大聖堂を再建しようと動き始めた。

再建の機運が高まった背景には、戦後日本のカトリック教会の成長もあった。戦後の復興とともに信者数は増加し、東京大司教区の司教座聖堂としてふさわしい本格的な大聖堂の必要性が増していた。さらに1960年代はバチカン第二公会議(1962〜1965年)の時代と重なり、カトリック教会全体が刷新と現代化を模索していた時期でもあった。「新しい時代にふさわしい新しい聖堂を」という機運のなか、単なる復元ではなく、現代建築として世界に誇れる大聖堂をつくろうという意志が、関係者の間で共有されていった。

資金調達の面でも大きな転機があった。西ドイツ(当時)のカトリック信者団体「ミゼレオール」から多額の寄付が寄せられたのだ。これは第二次世界大戦でともに多くのものを失ったドイツと日本の信者たちの間に生まれた連帯の証でもあった。このドイツからの支援が、大聖堂再建計画を現実のものへと押し上げる大きな力となった。

なぜ丹下健三が設計者に選ばれたのか

設計者の選定において、カトリック東京大司教区が丹下健三に白羽の矢を立てた理由は明快だった。1950年代、丹下はすでに国際的な建築家として確固たる地位を築いていた。なかでも1955年に完成した広島平和記念公園・資料館(広島市)は、戦争の悲劇を静謐な建築言語で表現した傑作として世界から高く評価されており、「日本の近代建築を代表する建築家」としての名声は揺るぎないものとなっていた。

また、丹下は伝統と革新を融合させる建築家として知られていた。広島の平和記念資料館では日本の伝統的な高床式建築の形式をモダニズムの語彙で再解釈し、単なる西洋建築の模倣を超えた独自の表現を生み出した。東京カテドラルの設計にあたっても、同様のアプローチが期待された。「キリスト教の精神性を、日本の建築家が現代の構造技術で表現する」という命題に、丹下ほどふさわしい人物はいないとの判断があったと言われている。

さらに時代的な背景として、1964年の東京オリンピックに向けて都市開発が急ピッチで進んでいたことも無視できない。丹下はこの時期、国立代々木競技場の設計も並行して進めており、まさに「時代の建築家」として東京の都市景観をかたちづくる中心人物だった。大聖堂の再建プロジェクトは、丹下にとっても挑戦的な宗教建築への取り組みという意味で大きな意義を持つものだった。

建築の概要とデザインの特徴

東京カテドラル聖マリア大聖堂は、1964年12月に献堂式を迎えた。敷地面積は約6,000平方メートル、建物の高さは約40メートル。最大の特徴は、8枚の双曲放物面(ハイパーボリック・パラボロイド)シェルを組み合わせた外壁にある。ステンレス・スチールで覆われたこの曲面の壁は、上空から見ると十字架の形を描き、その独特のシルエットは現代建築の傑作として建築史に刻まれている。

内部空間は外観に劣らず劇的だ。左右の壁面が天井に向かって絞り込まれるように立ち上がり、頂部には天窓(トップライト)が十字形に走っている。そこから降り注ぐ光が白いコンクリートの壁面を伝って床まで届く様は、まるで天から神の光が降りてくるかのような荘厳さを演出する。人工照明に頼らず、自然光の変化によって刻々と表情を変える内部空間は、丹下が「光の建築」として設計した意図が凝縮されている。収容人員は約600名。パイプオルガンはドイツのカール・シュッケ社製で、その壮大な音響も訪れる人を圧倒する。

構造面でも革新的だった。鉄筋コンクリートの躯体にステンレス・スチール板を貼り合わせた複合構造は、当時の日本の建設技術の粋を集めたものだった。双曲放物面という複雑な曲面を精度高く施工するために、施工側も多くの技術的課題を克服しなければならなかった。その意味で、この大聖堂は日本の戦後建設技術の記念碑でもある。

丹下健三について

丹下健三(1913〜2005年)は、20世紀を代表する日本の建築家・都市計画家である。愛媛県今治市生まれ。東京帝国大学(現・東京大学)建築学科を卒業後、前川國男の事務所を経て同大学の教授となり、後進の育成にも力を注いだ。彼の門下からは磯崎新、黒川紀章、槇文彦など、後に世界的建築家となる人材が次々と育っている。

丹下建築の特徴は、日本の伝統的な建築様式とモダニズムを融合させた独自のスタイルにある。戦後まもなく設計した広島平和記念公園・資料館(1955年)で国際的な評価を確立し、1964年の東京オリンピックでは国立代々木競技場を設計して「世界で最も美しい建物のひとつ」と称賛された。東京カテドラル聖マリア大聖堂もこの時期の代表作であり、宗教建築における彼の類まれな才能を示している。

その後も丹下は国際的に活躍を続け、海外でも多くのプロジェクトを手がけた。クウェートの都市計画、ナイジェリアの首都アブジャの計画、シンガポールのホテルなど、アジア・中東・アフリカへと活躍の場を広げた。1987年には建築界最高の栄誉とされるプリツカー賞を受賞。日本人建築家として初の受賞者となり、その業績は世界的に認められた。晩年には東京都庁舎(1991年)を設計し、都心の新宿に壮大なゴシック的摩天楼を生み出した。2005年、91歳で没するまで現役の建築家として活動を続けた。

東京カテドラル聖マリア大聖堂は、丹下が手がけた宗教建築として唯一の作品であり、彼の建築哲学が宗教的空間においていかに発揮されるかを示す貴重な事例となっている。「建築は人間の魂の表現であるべきだ」と語った丹下の言葉が、この大聖堂の空間には凝縮されているように感じる。

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