ヨークシャーの丘から生まれた革命的な造形
1903年1月10日、イギリス・ヨークシャーのウェイクフィールドに生まれたバーバラ・ヘプワース。土木技師の父と共に幼少期に体験した丘陵地帯の旅が、後の彼女の彫刻哲学の礎となりました。「丘は彫刻であり、道路が形を定義していた」と後に語ったように、風景の中を移動する体験が、彼女の空間認識を決定づけたのです。
17歳でリーズ美術学校に入学した彼女は、そこで生涯の友でありライバルとなるヘンリー・ムーアと出会います。その後、ロンドンの王立美術大学(1921-24年)で学び、奨学金を得てイタリアへ。ローマで出会った巨匠ジョヴァンニ・アルディーニから大理石彫刻を学び、粘土でモデルを作って職人に仕上げさせるのではなく、直接石に彫り込む「ダイレクト・カービング」技法を習得しました。

1925年、フィレンツェで彫刻家ジョン・スケーピングと結婚。1929年に息子ポールが生まれましたが、結婚生活は終わりを迎えます。そして1931年、画家ベン・ニコルソンとの出会いが、彼女の芸術に決定的な転機をもたらしました。二人でパリを訪れ、ピカソ、ブランクーシ、モンドリアン、アルプと交流。1934年に三つ子(サイモン、レイチェル、サラ)が誕生すると、彼女の作品から「自然主義の痕跡がすべて消え去った」のです。
素材との対話が生む無限の可能性
ヘプワースは、多様な素材を自在に操る技術力で、モダニズム彫刻家の中でも際立った存在でした。白いカラーラ大理石、セラヴェッツァ産の大理石、ナイジェリア産グアレア材(「最も美しく、硬く、愛らしい温かみのある木材」)、アラバスター石など、それぞれの素材に最適な処理を施し、手仕上げによる滑らかで触覚的な表面を生み出しました。
「私の左手は思考する手です。思考のリズムは、この手の指と握りを通って石に伝わります」という彼女の言葉は、制作における身体性と精神性の融合を表しています。

最も革命的な貢献は、ネガティブ・スペース(負の空間)の先駆的な使用でした。1932年の作品「穴あきフォーム」は、英国美術史上初の穴あき彫刻となり、「無限に多様な他の形」への扉を開きました。1946年の「ペラゴス」では、空洞に張られた糸が有機的な曲線と幾何学的なコントラストを生み出し、内部を淡い青で塗装することで、人間と自然の力を物質的に結びつけました。
セント・アイヴスでの変容と芸術哲学
1939年8月、第二次世界大戦勃発のわずか1週間前に、ヘプワースはコーンウォールのセント・アイヴスに移住しました。この「驚くべき異教的な風景」は、ヨークシャーの幼少期に匹敵する「背景と土壌」を提供したのです。1949年にトレウィン・スタジオを取得すると、「一種の魔法」と呼ぶ空間で、「開放的な空気と空間の中で」制作できるようになりました。
同年、ニコルソンや他の17人のアーティストと共にペンウィス芸術協会を設立。ナウム・ガボ、ピーター・ラニオン、バーナード・リーチ、テリー・フロストらが参加し、セント・アイヴスを国際的な芸術の中心地へと変貌させました。
「私、彫刻家は風景そのものです。私は形であり空洞であり、推進力であり輪郭です」という1970年の自伝の言葉は、彫刻と風景の前例のない統合を表現しています。彼女は生涯を通じて3つの基本的な形に惹かれ続けました:立っている形(風景の中に立つ人間への感情の翻訳)、2つの形(生きているものが隣り合う優しい関係)、閉じた形(生きているものの抱擁の感覚)。

懐疑から称賛へ進化した批評
生前のヘプワースは、男性優位の分野における女性であることと、ヘンリー・ムーアの巨大な影響下にあるという二重の挑戦に直面していました。当時の批評家は彼女の作品を「冷静で抑制的」と評し、芸術的成果よりも伝記や母親としての側面に不釣り合いな注目を集めました。
しかし、ハーバート・リードが最も影響力のある擁護者として現れ、1952年に決定的なモノグラフを執筆。1950年のヴェネツィア・ビエンナーレでイギリス代表として出展し、1959年のサンパウロ・ビエンナーレでグランプリを受賞すると、国際的な評価が確立されました。
死後の再評価は劇的でした。2015年のテート・ブリテン回顧展は50年ぶりのロンドンでの大規模展示となり、1930年代の抽象作品に限定されない多分野にわたる実践の全容を明らかにしました。市場もこの再評価を反映し、2023年には「祖先II」が790万ポンドという記録的な価格で落札されました。
現代彫刻を形作る革命的遺産
ヘプワースの影響は、「国際的な評価を得た最初の女性彫刻家」という先駆的役割をはるかに超えて広がっています。レイチェル・ホワイトリードは、ネガティブ・スペースを調査する大規模な石膏作品を通じて、ヘプワースの不在の探求を明確に拡張しました。
1975年の彼女の死後、トレウィン・スタジオに設立されたバーバラ・ヘプワース美術館と彫刻庭園は、完成作品だけでなく、彼女の作業方法、道具、環境を正確に保存しています。年間25万人以上の訪問者を迎え、2011年に開館したヘプワース・ウェイクフィールドは、彼女の生誕地で教育的使命を継続しています。
その後の世界
ヘプワースが切り開いた「穴あき彫刻」という革新的な表現は、20世紀後半から21世紀にかけての彫刻芸術に計り知れない影響を与えました。彼女が証明した「空虚も雄弁になりうる」という概念は、現代アートにおける空間認識を根本的に変革し、レイチェル・ホワイトリードやアニッシュ・カプーアなどの作家たちが、さらに大胆にネガティブ・スペースを探求する道を開きました。
また、彼女が実践した「素材への真実」というアプローチは、現代の環境意識の高まりとも共鳴し、自然素材と人工素材の対話を重視する新世代のアーティストたちに影響を与え続けています。特に、公共空間における抽象彫刻の可能性を示した彼女の功績は、都市計画におけるパブリックアートの重要性を確立し、現在では世界中の都市で市民と芸術の対話を促進する触媒となっています。
Q&A
- バーバラ・ヘプワースが「穴あき彫刻」を制作した理由は何ですか?
- ヘプワースは1932年に初めて彫刻に穴を開けることで、内部と外部の空間の対話を生み出し、「無限に多様な他の形」を探求できることを発見しました。彼女にとって、空洞は単なる空虚ではなく、光と影、内と外、存在と不在の関係を表現する積極的な要素でした。
- ヘンリー・ムーアとの関係はどのようなものでしたか?
- リーズ美術学校で出会った二人は、50年にわたる友情とライバル関係を築きました。ヘプワースが先に穴あき彫刻を制作し、後にムーアもこの技法を採用しました。両者は異なるアプローチを持ちながらも、英国モダニズム彫刻の発展に大きく貢献しました。
- なぜセント・アイヴスに移住したのですか?
- 1939年に戦争を避けて移住したセント・アイヴスの風景は、幼少期のヨークシャーの記憶と呼応し、彼女の創作に新たな刺激を与えました。海と岩、光と影が織りなす環境は、彼女の彫刻における有機的な形と空間の探求を深化させました。
- 3人の子供を育てながら、どのように創作活動を続けたのですか?
- 1934年に三つ子が生まれた後、ヘプワースは「すべての自然主義の痕跡が消えた」と述べ、むしろ母性の経験が彼女の抽象表現を深めました。16人のアシスタントと協働しながら、家庭と芸術を両立させる新しいモデルを提示しました。
参考文献
- Barbara Hepworth – Wikipedia
- https://en.wikipedia.org/wiki/Barbara_Hepworth
- Dame Barbara Hepworth 1903–1975 | Tate
- https://www.tate.org.uk/art/artists/dame-barbara-hepworth-1274
- Biography | Barbara Hepworth
- https://barbarahepworth.org.uk/biography/
- Barbara Hepworth Sculptures, Bio, Ideas | TheArtStory
- https://www.theartstory.org/artist/hepworth-barbara/
- Artist Barbara Hepworth – The Hepworth Wakefield
- https://hepworthwakefield.org/artist/barbara-hepworth/
基本データ
- 名称
- Dame Jocelyn Barbara Hepworth DBE
- 生誕
- 1903年1月10日、イギリス・ヨークシャー州ウェイクフィールド
- 死没
- 1975年5月20日(72歳)、イギリス・コーンウォール州セント・アイヴス
- 教育
- リーズ美術学校、王立美術大学
- 代表作
- Single Form (1964)、Pelagos (1946)、The Family of Man (1970)
- 受賞歴
- CBE (1958)、DBE (1965)、サンパウロ・ビエンナーレ グランプリ (1959)
- 美術館
- バーバラ・ヘプワース美術館・彫刻庭園(セント・アイヴス)、ヘプワース・ウェイクフィールド








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