プロローグ:朝のコーヒーから始まった革命
1909年、ベルリンの朝。AEG社のショールームに、真鍮製の八角形の電気ポットが静かに佇んでいました。籐で巻かれた取っ手、槌目模様の本体、そして何より、同じデザイン言語で統一された扇風機や時計たちと並ぶその姿は、訪れる人々に不思議な統一感を与えていました。
これは単なる電気ポットではありませんでした。画家から転身したペーター・ベーレンスが、世界で初めて「インダストリアルデザイナー」という肩書きを持って生み出した、工業製品の新しい姿だったのです。

ドイツ帝国の野心と劣等感
20世紀初頭のドイツは、急速な工業化の真っただ中にありました。1871年の統一から40年足らずで、農業国から世界最大の工業国へと変貌を遂げ、1913年には世界の電気製品の半分を生産するまでになっていました。
しかし、技術力とは裏腹に、ドイツ製品は「安かろう悪かろう」の代名詞でした。イギリスやアメリカの製品と比べて、デザインが劣っているという評価に、ドイツの産業界は苦しんでいました。この劣等感こそが、1907年のドイツ工作連盟(Deutscher Werkbund)設立の原動力となったのです。
AEG社を率いるエミール・ラーテナウも、この問題を痛感していました。発電機や変圧器の技術では世界一でも、消費者向け製品では後塵を拝していたのです。
画家に託された前代未聞の使命
1907年、ラーテナウは大胆な決断を下します。画家であり、デュッセルドルフ工芸学校の校長を務めていたペーター・ベーレンスを「芸術顧問」として招聘したのです。これは単なる装飾担当ではありませんでした。製品デザインから建築、広告、ロゴマークまで、企業のあらゆる視覚的側面を統括する、世界初の試みでした。
ベーレンスは語りました。「デザインとは、機能的な形に装飾を施すことではない。それは対象の性格に調和し、新しい技術の利点を示す形を創造することだ」。この哲学が、後の電気ポットに結実することになります。

規格化という魔法
ベーレンスが設計した電気ポットの真の革新性は、その「システム」にありました。八角形、円筒形、楕円形という3つの基本形。真鍮、ニッケルメッキ、銅という3つの素材。籐巻き、籐編み、木製という複数の取っ手。これらの組み合わせで、理論上216通りのバリエーションが可能でした。
しかし、ベーレンスは全てを作らせませんでした。市場のニーズを見極め、30種類に絞り込んだのです。この「制約の中の自由」こそが、大量生産時代のデザインの本質でした。
特に革新的だったのは、交換可能な発熱体でした。故障しても簡単に交換でき、メンテナンスが容易。これは当時の電気製品としては画期的な発想でした。
バウハウスへと受け継がれた遺伝子
ベーレンスの事務所には、後に20世紀建築を変革する3人の巨匠が働いていました。ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、そしてル・コルビュジエ。彼らは電気ポットが生まれる現場を目撃し、その思想を吸収していきました。
1919年、グロピウスがバウハウスを設立したとき、カリキュラムの中核に据えたのは、まさにベーレンスから学んだ「規格化による創造」でした。学生たちは、標準化された部品から多様な製品を生み出す訓練を受けました。これは、ベーレンスの電気ポットが示した原理そのものでした。
現代に生きる100年前の思想
2007年、スティーブ・ジョブズは初代iPhoneを発表しました。その背後にあったのは、iPhone、iPad、Macが共通のデザイン言語で統一され、シームレスに連携するエコシステムでした。これは、ベーレンスがAEGで実現した「総合芸術作品(Gesamtkunstwerk)」の現代版といえるでしょう。
IKEAもまた、ベーレンスの理念を体現しています。モジュラー家具システム、統一されたスカンジナビアンデザイン、そして何より「民主的デザイン」という思想。これらは全て、100年前の電気ポットに源流を持つのです。
自動車業界では、フォルクスワーゲンのMQBプラットフォームが40以上の車種を支えています。部品の70%を共有しながら、多様な個性を実現する。これもまた、3つの形から30のバリエーションを生み出したベーレンスの方法論の進化形です。

エピローグ:美術館に眠る革命の証人
現在、ベーレンスの電気ポットは世界中の美術館に収蔵されています。ニューヨーク近代美術館(MoMA)、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館、ベルリンの工芸博物館…。それぞれの展示ケースの中で、真鍮の槌目模様が静かに光を反射しています。
しかし、この電気ポットの真の遺産は、ガラスケースの外にあります。私たちが手にするスマートフォン、組み立てる家具、乗る自動車。そのすべてに、ベーレンスが確立した「システムとしてのデザイン」が息づいているのです。
その後の世界への影響
ベーレンスの電気ポットが示した「規格化による多様性の実現」という原理は、20世紀の産業デザイン全体を変革しました。
まず、デザイナーという職業が確立されました。ベーレンス以前は、エンジニアか装飾家しかいませんでしたが、彼の成功により「工業デザイナー」という専門職が生まれ、企業にとって不可欠な存在となりました。
製造業では、プラットフォーム戦略が標準となりました。自動車、家電、コンピュータなど、あらゆる産業で共通部品から多様な製品を生み出す手法が採用され、コスト削減と品質向上を両立させました。
企業アイデンティティの概念も、ベーレンスのAEGでの仕事から生まれました。現在では、どの企業もビジュアルアイデンティティガイドラインを持ち、製品からウェブサイトまで一貫したブランド体験を提供することが当たり前になっています。
さらに、マスカスタマイゼーションという21世紀の潮流も、ベーレンスの思想の延長線上にあります。Nike By YouやDell のカスタムPC、自動車のコンフィギュレーターなど、顧客が自分だけの製品を作れるサービスは、すべて「制約の中の自由」という原理に基づいています。
Q&A
- なぜ電気ポットがそれほど革命的だったのですか?
- この電気ポットは、史上初めて「規格部品の組み合わせで多様な製品を作る」という手法を実現した製品だったからです。3つの基本形と複数の素材・部品の組み合わせで30種類のバリエーションを生み出すシステムは、現代のプラットフォーム戦略やモジュラーデザインの原型となりました。また、企業の全製品に統一されたデザイン言語を適用した最初の事例でもあり、現代の企業ブランディングの出発点となりました。
- ベーレンスはなぜ画家から工業デザイナーに転身したのですか?
- ベーレンスは元々、ユーゲントシュティール(ドイツのアール・ヌーヴォー)の画家でしたが、ダルムシュタット芸術家村での活動を通じて、芸術と生活の統合に関心を持つようになりました。1907年にドイツ工作連盟を共同設立し、「芸術と産業の融合」という理念に共感していたところ、AEG社から声がかかりました。彼は芸術を特権階級のものではなく、大量生産を通じて一般市民に届けることができると信じていたのです。
- バウハウスとの関係は?
- ベーレンスの事務所で働いていたヴァルター・グロピウスが1919年にバウハウスを設立しました。バウハウスの教育理念である「芸術と技術の新しい統一」や、規格化・標準化を重視したカリキュラムは、ベーレンスのAEGでの実践を教育プログラムとして体系化したものです。実際、バウハウスの工房では、ベーレンスの電気ポットのような「標準部品から多様な製品を生み出す」演習が行われていました。
- 現在でもAEG社の電気ポットは生産されていますか?
- オリジナルの1909年モデルは生産されていません。AEG社自体は1996年にダイムラー・ベンツに吸収され、現在はブランド名として家電製品に使用されています。しかし、ベーレンスのデザイン哲学は、現在のAEGブランド製品にも「Perfect in Form and Function」というスローガンとして受け継がれています。オリジナルのポットは、世界各地の美術館でデザイン史の重要な作品として保存・展示されています。
参考文献
- Peter Behrens | Modernist, Industrial Design, AEG | Britannica
- https://www.britannica.com/biography/Peter-Behrens
- Peter Behrens. Electric Kettle. 1909 | MoMA
- https://www.moma.org/collection/works/2190
- AEG’s Design Visionary: Industrial Designer Peter Behrens | AEG
- https://www.aegaustralia.com.au/inspire-with-aeg/articles/industrial-designer-peter-behrens/
- Powerhouse Collection – AEG Electric Kettle designed by Peter Behrens
- https://collection.powerhouse.com.au/object/156120
- Peter Behrens and Symbolisms of Industrial Design: The Case of AEG – Pikark
- https://pikark.com/en/listing/peter-behrens-industrial-design/
- Smarthistory – Peter Behrens, Turbine Factory
- https://smarthistory.org/peter-behrens-turbine-factory/
基本データ
- 製品名
- AEG電気ポット(電気湯沸かし器)
- デザイナー
- ペーター・ベーレンス(Peter Behrens, 1868-1940)
- 製造元
- AEG(Allgemeine Elektricitäts-Gesellschaft)
- 発表年
- 1909年
- 素材
- ニッケルメッキ真鍮、籐、木材
- 寸法
- 約22.9 x 22.2 x 15.9 cm(MoMA所蔵品)
- 電気仕様
- 210/40V、500W
- 形状バリエーション
- 八角形、円筒形、楕円形
- 生産期間
- 1909年〜1920年代
- 主要所蔵館
- ニューヨーク近代美術館、ヴィクトリア&アルバート博物館、ベルリン工芸博物館













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