薬名の取り違えを防ぐ「Tall Man Lettering」とは?医療安全デザインの革新的アプローチ

似すぎた薬の名前がもたらす悲劇

病院の薬局で、薬剤師のサラは慌ただしく処方箋を処理していました。「ドーパミン」と書かれた処方箋を見て、いつもの場所から薬を取り出します。しかし、彼女が手にしたのは「ドブタミン」でした。どちらも心臓に作用する薬ですが、その効果は全く異なります。幸い、ダブルチェックで間違いは発見されましたが、このような取り違えは世界中の医療現場で毎日起きていました。

2000年、アメリカ医学研究所(IOM)は衝撃的な報告書「To Err is Human」を発表しました。医療ミスによって年間4万4千人から9万8千人のアメリカ人が病院で命を落としているというのです。その中でも、薬の取り違えは最も頻繁に起こる医療ミスの一つでした。

プレドニゾンとプレドニソロン、セファゾリンとセフロキシム、ハイドララジンとヒドロキシジン。これらの薬名は、忙しい医療現場では容易に混同されてしまいます。患者の命を預かる医療従事者たちは、どんなに注意深くても、似た名前の薬を取り違えるリスクと常に戦っていました。

解決策を探る旅の始まり

2001年、アメリカ食品医薬品局(FDA)は画期的なプロジェクトを立ち上げました。「Name Differentiation Project(薬名識別プロジェクト)」です。FDAの安全性評価チームは、薬名の混同による事故報告を分析し、ある単純だが革新的なアイデアにたどり着きました。

「薬名の違いを視覚的に強調すればいいのではないか?」

医薬品安全研究所(ISMP)も同じ結論に達していました。彼らは薬名の違いを際立たせるために、異なる部分を大文字で表記する方法を提案しました。例えば、「DOBUTamine」と「DOPamine」のように。この手法は「Tall Man Lettering(トールマン・レタリング)」と名付けられました。背の高い大文字が、まるで群衆の中で手を挙げている人のように目立つことから、この名前がつけられたのです。

しかし、この新しい表記方法が本当に効果があるのか、誰も確信を持てませんでした。医療現場は保守的で、変化を受け入れるには確かな証拠が必要でした。

科学的証明への挑戦

2004年、イギリスのノッティンガム大学の研究者ルース・フィリック博士らは、画期的な実験を行いました。アイトラッキング(視線追跡)技術を使って、人々が薬名をどのように認識するかを調査したのです。

実験参加者は、薬のパッケージが並んだ棚から特定の薬を探すように指示されました。しかし、研究者たちは巧妙な罠を仕掛けていました。目的の薬の代わりに、似た名前の薬を置いていたのです。

結果は驚くべきものでした。通常の表記では多くの人が間違った薬を選んでしまいましたが、Tall Man Letteringを使った場合、エラー率は大幅に減少しました。アイトラッキングデータは、大文字部分に視線が集中し、薬名の違いがより明確に認識されていることを示していました。

この研究結果は医療界に大きな影響を与えました。科学的な裏付けを得たTall Man Letteringは、単なるアイデアから実用的な解決策へと進化したのです。

世界規模での採用と標準化

FDAとISMPは協力して、Tall Man Letteringを適用すべき薬名のリストを作成しました。2008年のISMPの調査では、回答者の87%がTall Man Letteringによって薬の選択ミスが減少したと報告し、64%が実際に自分自身のミスを防いだ経験があると答えました。

しかし、課題もありました。どの文字を大文字にするべきか、統一された基準がなかったのです。FDAとISMPは、薬名の最初から文字を比較し、異なる部分を特定して大文字にするという標準的なルールを確立しました。最大3文字までを大文字にし、視認性と読みやすさのバランスを保つことにしました。

病院の電子処方システム、自動調剤機、薬局の棚ラベル、そして薬のパッケージまで、Tall Man Letteringは医療現場のあらゆる場所に導入されていきました。アメリカだけでなく、カナダ、イギリス、オーストラリアなど、世界中の国々がこの手法を採用し始めました。

現在の医療現場を変えた小さな文字の大きな力

今日、Tall Man Letteringは医療安全の標準的な手法として定着しています。FDAの公式リストには、DOBUTamine/DOPamine、predniSONE/predniSOLONE、TOLAZamide/TOLBUTamideなど、数十組の薬名が含まれています。

2024年のISMPの報告によると、調査対象となった医療機関の95%がTall Man Letteringの使用により投薬ミスが防げたと回答しています。薬剤師のエミリー・チェンは語ります。「最初は違和感がありましたが、今では通常の表記の方が不安になります。大文字が薬名の違いを叫んでいるようで、見逃すことがありません」。

この小さなタイポグラフィの工夫は、年間数千件の投薬ミスを防ぎ、無数の命を救っています。デザインの力が医療安全に貢献できることを証明した、まさに革新的な事例と言えるでしょう。

参考文献

FDA Name Differentiation Project
https://www.fda.gov/drugs/medication-errors-related-cder-regulated-drug-products/fda-name-differentiation-project
ISMP Lists of Look-Alike Drug Names with Recommended Tall Man Letters
https://www.ismp.org/recommendations/tall-man-letters-list
Drug name confusion: evaluating the effectiveness of capital (“Tall Man”) letters using eye movement data (Filik et al., 2004)
https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S027795360400187X
Tall Man Letters Are Gaining Wide Acceptance – PMC
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC3351881/
To Err is Human: Building a Safer Health System – Institute of Medicine
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK225187/

Q&A

Tall Man Letteringは日本でも使われていますか?
日本でも医療安全の観点から導入が進んでいます。厚生労働省や日本医療機能評価機構が推奨しており、特に電子カルテシステムや院内の薬品管理システムで採用されています。ただし、カタカナ表記が多い日本の薬名では、アルファベット表記とは異なる工夫も併用されています。
すべての似た薬名にTall Man Letteringを適用すべきですか?
必ずしもすべてに適用する必要はありません。FDAとISMPは、実際の取り違え報告が多い薬名ペア、重大な健康被害のリスクがある薬名ペア、使用頻度が高い薬名ペアを優先的にリスト化しています。過度な使用は逆に視認性を下げる可能性があるため、慎重な選定が重要です。
Tall Man Letteringの効果は科学的に証明されていますか?
2004年のFilik博士らによるアイトラッキング研究をはじめ、複数の研究で効果が実証されています。ただし、2016年の大規模調査では効果が限定的という結果も出ており、Tall Man Letteringは他の安全対策と組み合わせて使用することが推奨されています。
電子処方システムでもTall Man Letteringは必要ですか?
はい、むしろ電子システムでこそ重要です。画面上での薬名選択時のエラーを防ぐため、多くの電子処方システムやCPOE(コンピュータ処方オーダエントリ)システムでTall Man Letteringが実装されています。
Tall Man Lettering以外にも薬名の取り違えを防ぐ方法はありますか?
はい、複数の対策があります。色分けによる視覚的区別、バーコードスキャンシステム、音声確認、ダブルチェック体制、薬品の保管場所の物理的分離などが併用されています。Tall Man Letteringはこれらの対策の一つとして、総合的な医療安全システムの中で機能しています。

基本データ

名称
Tall Man Lettering(トールマン・レタリング)
別名
Mixed Case Lettering、Tall Man Letters
開発機関
FDA(アメリカ食品医薬品局)、ISMP(医薬品安全研究所)
開始年
2001年(FDA Name Differentiation Project)
適用分野
医薬品名表記、医療安全
主な対象
Look-Alike Sound-Alike(LASA)薬品
標準化団体
FDA、ISMP、The Joint Commission、NABP(全米薬事審議会)
採用国
アメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリア、日本等

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